4 (グリン)
その沼を見つけて以来、グリンバゼルトは時間を見つけてはその沼に足を運んだ。そして沼から金色の魚が顔を出すのを待った。もちろん、おとぎ話の魚が沼に住んでいると信じていたわけではない。だけど、ひょっとしたら、と思っていた。
沼の水は緑深く、魚が住めそうには見えなかった。それに空を見上げれば、木立の隙間からぽっかりと空が見えた。やっぱり魚はいない、そう諦めてからは美しい景色を描くためと理由を付けた。スケッチブックだけでなく、カンバスや絵の具や筆を持って出かけるようになった。そしてその頃にはわざわざ持ってくるのではなく、魔導術を使って取り寄せるようになっていた。カンバスを持っての木登りは面倒だった。
その頃、と言うのは魔導士学校の新学年を迎えた頃だ。新入生の列の中に妹の顔を見つけた時は何となく笑ってしまった。真面目腐った顔がいつもとは別人だ。
新入生の顔見世が終わり、朝食となり、今日はそれで解散だ。面倒な講義は一切ない。ゆっくり絵を描こうと、この沼に来た。春の風は暖かく、日差しは穏やかだ。
今回は沼の水面を描こうと思っている。水面のみの画面、そして金色の魚を描こう。実在しないから描いてはいけないなんてことはない。実在しないなら僕が描けばいい。
真新しいカンバスを前に、沼のほとりで構図を考えていると、近くで小鳥が何やら騒いでいる。蛇に卵でも狙われたかな? それにしてももう営巣を終えたのか。今年の春はやけに早くないか?
そんな事を考えるともなく考えていると、次には、すさまじい勢いで木をつつく音がする。キツツキはあんなだった? さすがに音の方向に目を向ける。すぐに音は納まったけれど、何か気配がする。神経を張り巡らせて気配を感知すると、人がいるのが判った。そして、あの気配は鹿だろうか?
人から魔導士が持つ力は感じない。ならば街の人だ。街の人がなぜ魔導士学校の森にいる? 結界が張ってあって入れないはずなのに。
と、繁みから鹿が躍り出る。鹿が飛び出した繁みの向う側で、誰かが沼の畔まで降りてきて沼を覗きこむ。隠れた方がいいかな? グリンバゼルトが周囲を見渡し、隠れる場所を探す。
沼の畔に降りた街人がこちらを向く。もう、物陰に隠れる暇はない。隠姿術を使うには、時間も心も余裕がない。
「やぁ……」
間抜けな声でグリンバゼルトが街人に声を掛ける。
街人……まだ子どもだ。妹と同じくらいだ。つまり僕より、二つか三つか……四つ下。
緩くウェーブしたプラチナの髪を
「やぁ……キミ、どこから来たの?」
なるべく驚かさないように、少女に声を掛ける。
紛れもない美少女だ。恐怖で見開かれているとはいえ、ぱっちりとした瞳は深い緑色、少し痩せ気味だけれど、のびやかな手足、そして何よりも美しいのは艶やかに輝くプラチナの髪。ここまで美しい少女……生き物を見たのは初めてだ、とグリンバゼルトは思った。
少女はグリンバゼルトを見詰めたまま、一向に返事を返してくる気配がない。焦れたグリンバゼルトが覗心術を使おうとしたが、成功しなかった。誰か高位の魔導士が少女の心に隠心術を掛けている。
少女は何か秘密を知っているか、あるいは少女自体が秘密なのか?
「キミ、名前は?」
やはり返事はない。
「キミ、住処はどこ? 森は迷いやすい、送っていくよ」
返事はないが、最初ほど怖がっていないように見える。
「まさか迷子? 自分の家がどこかも判らない?」
やっと少女は首を横に振った。
「良かった、僕の声が聞こえて、そして言葉も判っているんだね」
グリンバゼルトが笑顔を見せる。つられて笑ってくれないか、そんな期待は裏切られ、少女の表情に変化はない。相変わらずグリンバゼルトをじっと見つめるだけだ。
「あ、そうだ、お腹空いてない? パンがあるよ」
朝食の席から、後で食べようとくすねておいたパンを出す。たっぷりのバターを練り込み、表面に砂糖を掛けた甘いパンだ。するとやっと少女が表情を動かした。
「おいで、こっちに椅子がある。座って食べるといいよ」
少女はグリンバゼルトの顔とパンを見比べているが、近づいて来る様子はない。
(この子は他者が怖いのだろうか?)
そんな疑問がグリンバゼルトの脳裏に浮かぶ。
だとしたら、待っていても来ることはない。グリンバゼルトはパンを持った腕を少女に向けて伸ばし、少しずつ近づいて行った。
近づくグリンバゼルトを警戒して、少女は少し
「パンを取りなさい」
なるべく優しく聞こえるように気を付けて、グリンバゼルトが少女に命じた。すると少女は恐る恐る手を伸ばし、グリンバゼルトの手からパンを取った。そして手にしたパンとグリンバゼルトを、また交互に見始める。
「この椅子に座りなさい」
グリンバゼルトがまた命じる。すると恐る恐る近づいて、グリンバゼルトが指した椅子に腰かけた。
「パンを食べてもいいのだよ」
この言葉には一目散に従って口に押し込むように食べ始める。
「ゆっくり、少しずつ、よく噛んで」
慌ててグリンバゼルトが付け足すと、ビクッと動いて少女がグリンバゼルトを見る。そしてグリンバゼルトをじっと見てから、今度はゆっくりパンを食べ始めた。
「一口一口、ちゃんと味わって食べるといいよ」
少女がパンを食べるのを観察しながら、グリンバゼルトは小さなテーブルを宙から出して、そこにグラスを用意すると、やはり宙から紫色の液体が入った瓶を出す。
「ブドウの果汁だ、飲むかい?」
それには少女は頷いた。
半分ほどパンを食べ終わったところで、少女は顔を上げて辺りを見渡した。すると、数羽の小鳥が少女の肩に留まった。そして少女はグリンバゼルトをまた見つめる。
「どうかした?」
グリンバゼルトの問いに、肩に留まった小鳥たちを眺め、手に持ったパンを眺める。そしてすがるような顔でグリンバゼルトに視線を戻す。
「小鳥に分けてあげたいの?」
頷く少女に、好きにしたらいい、と答えると、少女の顔がパッと明るく輝いて、にっこりと笑った。グリンバゼルトの中で、何かがトクンと音を立てた。
不思議な少女だった。容姿の素晴らしさは置いておくとして、着ている物も履いている靴も上等なものだ。
襟と袖口をフリルにした白いシャツ、前立ての留め具は螺鈿細工、深紅のサッシュベルト、黒い繻子のズボンは膝を覆う丈でその下は白い絹の靴下、そして靴は黒い皮を使った爪先が尖ったものだ。
服装だけを見るとまるで男の子だが、装飾品はどれも女性用のもので、少女に間違いないとグリンバゼルトは思った。
指には細いヒスイのリングが
宝石類は装飾よりも守りの感もないでもないが、だからと言って粗末なものは一つもない。どれも上等で高価なものばかりだ。どちらにしろ、かなり財力のある保護者の許にいるのは否めない。
しかし、会ったばかりの人間を警戒しているにしては度が過ぎる。しかも命令されることに慣れている。むしろ命令を待っている。
(順当なところは誰かの慰み者、といったところか)
こんな容姿で貧しい街人の家に生まれれば、金を惜しみなく積まれた両親が苦渋の決断で手放すこともありそうだ。金を惜しみなく積み上げる、下卑た貴族もいる事だろう。
それにしても、こんな子どもを? でもそう考えれば隠心術が施術されているのも納得できる。自分の仕業をこの子を通して他人に知られたくはないだろう。
だけどここは魔導士学校だ。魔導士学校の教授がこんな子どもを囲うだろうか? 校長に知られれば大変なことになる。未成年を傷付けることを、あの校長は絶対に許さない。あの男が校長になってから、その点についてはずっと一貫している。九日間戦争の時も、あの男は学校を守り、学生を守った。そこは評価しない訳にいかないグリンバゼルトだ。
少女を見ると小鳥にパンを千切って与え、ニコニコと楽しそうだ。グリンバゼルトが出したブドウ果汁にも手を付けている。
手も、爪も、充分に手入れされ、さっきの光景がなければ貴族の姫君にしか見えない。
「えっと……」
グリンバゼルトが話しかけると、さっきとは違って落ち着いた顔がこちらを見る。
「キミは親御さんと暮らしているの?」
少女は少し考えてから首を横に振った。
「……親御さんはどこに?」
この質問には不思議そうな顔をするだけだ。
「キミは、その……誰かの持ち物?」
もっと不思議そうな顔をしてから、首を横に振る。
「ん、その、キミは何だな、声が出せないのかな? それとも僕と話すのが嫌?」
驚く表情を少女が見せた。そして何か迷っている。と、その時……
チチチチッ! 数羽の小鳥が飛び込んできて、椅子に座る少女を囲んだ。何か懸命に訴えている。小鳥たちの訴えに少女が顔色を変えて立ち上がる。
何が起こったんだ? こんな事なら他生物会話の授業を真剣に受けておくべきだった。必要ないと思って、必修のドラゴン語しか習得していない。そう言えば、鳥類の情報網は使えると、どの教授だかが言っていた。グリンバゼルトが後悔するが、もう遅い。
「ちょっと、キミ!」
少女が鳥たちと一緒に立ち去る気配がある。慌ててグリンバゼルトが少女に声を掛ける。
少女は振り向いてグリンバゼルトを見ると、ニコリと笑みを見せ、そして手を振った。
「あ、バイバイ?」
引き留める間もなく藪の中に消えていく。追いかけるか迷ったが、グリンバゼルトはやめておいた。
この沼でまた会える、そんな予感がグリンバゼルトにはあった。確信していた。
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