小説「帰宅」
有原野分
帰宅
その男は疲れていた。残業。繁華街を横目に暗い顔で電車に揺られながら、ぼんやりとこれから先のことを考える。
未来。男にとってそれは楽しみではなく、むしろ不安の種だった。だからかもしれない。郊外の住宅地に灯る薄暗い街灯に照らされたゴミ捨て場。そこに捨ててあったアタッシュケースと目が合ったのは。
男は特になにも考えずそれを拾うと、手にかかる重みにかすかな期待を感じ、家に着くまでの間にある河川敷の橋の下でそれを開けた。
「あっ」
大量の札束。思わず声が漏れる。周囲を見渡す。誰もいない。慌ててケースを閉める。目の前にはただの暗闇。風が冷たく、川の音がいやにうるさい。
どうやら今夜は新月らしい。男は悩んだ挙句、ケースを持って帰ることにした。なに、あれは捨ててあったんだ、構うもんか、それに、例え持ち主が現れたところで、見つかるわけがない。仮に見つかったとしても、今から警察に行くところだったんだ、とかなんとか言えばきっと大丈夫だろう。男は今まで味わったことのない興奮を抑えながら、颯爽とドアノブを回した。
妻、娘、息子、猫。絵に描いたような中流家庭。いや、違う。男はお風呂の中でため息を吐く。さて、どうしようか。これから先のこと。未来。将来。子供たち。妻。仕事。老後……。
長い、と男はいつも考える。人生はあまりにも長い。それでいて、なぜこんなにも幸福はやってこないのだろうか、と。
幸福。男の笑い声が風呂場に響き、それを聞いていた家族は不思議がったが、誰もそれ以上は関心を寄せることはなく、男の持って帰ったアタッシュケースも例に漏れず、夜の冷気がただ世界を暗くしていくばかりだった。
☆
数ヶ月後。
男は未だに幸福を夢見ていた。アタッシュケースの中身を確認したときに見たあの確かな夢は、なぜか今でも夢のままで、そう、あれから何度数えても、男が今後稼げるであろう生涯年収を遥かに上回っているほどの大金を目の前にしても、男は幸福どころか、ますます目の下のくまは濃くなり、未来に対する不安はリアリティを帯び、イライラ、ムカムカ、家庭内はぎくしゃくし、なにが家族だ、なにが金だ、なにが夢だ、と外で飲んで帰る日が次第に増え――。
幸福とは、未来に非ず。
ある日、男はアタッシュケースを手に持って、夜に飛び出した。春。ところどころに散った桜が月を反射して、男はそれを見て、ふいに涙がこぼれそうになった。
今夜は満月。男は敢えて胸を張り、歩幅を大きく、ゆっくりと歩いた。ゴミ捨て場。薄暗い街灯を前に、男はアタッシュケースを静かに捨てた。
その帰り道。男は自身の手のひらを見つめた。――風呂。とりあえず、あたたかい風呂につかりたい。ああ、そうか。男の背中が上下に揺れる。不思議と足が軽い。ドアノブをやさしく回す。男はそこでようやく、家に帰った。
小説「帰宅」 有原野分 @yujiarihara
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