第2話
気がつくと、おれは手足を縛られてあおむけに転がっていた。口のなかには布切れのようなものが押し込まれている。床は絶え間なく揺れて、頭をごつごつと叩いた。油混じりの砂が肌にへばりついている。腹に響くエンジンの音。どうやらここは車の中らしい。
どのくらい気を失っていたのかわからないが、外はまだ明るかった。そう時間はたっていないように思えた。
ふと上を見ると、がっしりした体つきの大きな男がおれを見下ろしている。
おれは驚いて一瞬息ができなくなったが、そのあとすぐ――なぜだかわからないが魂が離れてしまったような妙に落ちついた気分になった。
「目がさめたようです」
空気が震えるような低い声で、男が言った。
男は黒い背広を着ていたが、似合っているとは言えなかった。二の腕は空気を入れたようにぱんぱんに膨らんでいるし、首まわりは襟のボタンがはじけ飛びそうなくらい太かった。まるでサーカスの熊に服を着せたようにみえた。目つきが悪く、眉が切り傷で欠けている。子供が見たら泣き出してしまいそうな凶悪な面構えだった。男は爬虫類みたいに無表情で、何を考えているのかまったく読めなかった。
「よし。まずはテストだ」
前の座席から女の声がした。それはさきほどの地図を持った女の声だった。
ということはあれか、ここはあの白いワゴン車の中か。おれは女になにかされて気を失い、この車に連れ込まれたらしい。
男は、女の指示にだまってうなずくと、安っぽいSF映画に出てきそうな不気味な器具を片手に持って、おれに覆いかぶさってきた。おれは必死に避けようとしたが、体がしびれていて動くことができなかった。男は万力で締めつけるみたいにおれの頭を横向きに押さえ込むと、器具を耳たぶに押し当てた。ちくりと刺されたような痛みを感じて、おれは必死に叫んだ。が、声は出なかった。
男は立ち上がって席に座りなおすと、器具を熱心に見つめていた。
「当たりだ!」
しばらくして男がとつぜん調子外れな声を出した。
「当たりも当たり、大当たりだ。見てくださいよ、このすごい数値!」
冷徹そうな顔に似合わない子供じみた口調でそう言って、器具を前の席に向けた。
「だろう? ピンときたんだよ、そいつを見たとき」
女はやっぱりというような、いくぶん誇らしげな声で応じた。
「しかし、どうやってわかったんです?」
「見た目だけでもだいたいはわかるんだが――車も通らないのに、ぼうっと信号の前でつっ立ってただろう? 自分では何も判断できないやつの特徴だ。さらに決定的なのはあれだな。そいつのポケットを調べてみろ」
男は最初、おれのシャツの胸ポケットを探って、次にズボンのポケットに手を入れた。そして何かをつまみ出すと、顔をしかめながら目のまえにかかげた。
「何です、これは?」
「落花生の殻だよ。そいつはな、歩きながら落花生をかじってたんだ。赤ん坊がおしゃぶりを放さないのとおんなじで、口に何かものを入れてないと不安で不安でしょうがないのさ。そういうやつは百パーセント当たりなんだよ。まさかここまで数値が高いとは、わたしも思わなかったけどな」
女はあきれたような口ぶりで言った。
「ふうん、そんなもんですかねえ。アメやミントを舐めるのとそんなに変わらねえ気がするが」
「そういうのも似たようなもんだ。ガムとかたばこなんかもな。こいつの場合はその極端なやつだ。ここまでくると、ある種の依存症だな。もっとポケットを探ってみろ、ほかにもいろんな食い物が出てくるぞ」
男は病気の犬でも見るかのような目つきでおれを見た。
「いや、そいつは遠慮しときましょう。しかし――まわりに人はいなかったとはいえ、いきなりさらったりして大丈夫ですかね。家族とかまわりの人間が騒ぎ出すんじゃ?」
「ああ、いきあたりばったりにしてはうまくいった。これも日頃の行いだな。ふだんならこいつの家族構成や人間関係をじっくり調べるところだが、今回はとにかく時間がなかったから仕方がない。身分証も持ってないからこいつが誰なのかもわからないしな。だが見てみろよ、このぼさぼさの頭に無精ひげ。どうみてもまともな仕事についてるとは思えないだろう? なにしろ適合者のほとんどは社会不適合者だからな」
女は自分の言葉にくすくすと笑いながら話をつづけた。
「家族にしたって、こいつはどうせ厄介者で持て余されてるに違いない。いなくなったほうがかえって喜ばれるかもな。こんな社会のゴミがひとつくらい消えたところで、たいして騒がれやしないだろう」
――ちくしょう、なんなんだこいつらは。宗教か、テロリストか、公安か。いったいなにが目的だ。おれのことをなにも知らないくせに、だまって聞いてりゃ勝手なことばかり言いやがって。
しかしどうしておれを?
金か? 金なんて持ってないのは見りゃわかるし、少なくともおれよりましな暮らしをしているやつなんていくらでもいるだろうに。それにくやしいが女の言うとおり、親はおれのために身代金を払ったりなんかしないだろう。
だが、ほかに理由があるとしたら何だ? そういえば、さっきの変な器具でおれを調べていたとき、数値が高いとかなんとか言ってたっけ。
女が口にした〈適合者〉という言葉。あれが妙に気になった。
――ひょっとして臓器売買か?
こんな真っ昼間に平気で人をさらうようないかれた連中だ。じゅうぶんありうる。自慢できるほど健康ってわけじゃないが、体はどこも悪くない。
臓器売買だ、間違いない。こいつら、おれの心臓やら肝臓やらを金持ちの病人に売っぱらおうって魂胆だ。
そう思った途端、心臓が激しく鼓動を打って額に脂汗が滲んだ。
しかし待てよ。女は見た目でわかるとも言っていたし、臓器移植の適合者なんて、見ただけで判別できるもんだろうか?
臓器移植でなけりゃ危険な新薬の投与だとか、変なガスを吸わされるとか、とんでもない人体実験をされて、あげくの果てに輪切りになって博物館で人体の不思議展みたいな催し物に展示されるのかもしれない。
とりとめもない考えが頭に浮かんでは消えていく。だが、それも仕方がなかった。いきなり知らないやつらに拉致されて、車の床に手足を縛られて転がされてみろ。誰だってまともに頭なんか働かないから。
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