幸せの部屋

高梨結有

幸せの部屋

 床も壁も天井も、何もかもが真っ白な部屋に私はいる。家具や家電などは一切置いていない、何もない部屋。

 一見とても狭い部屋のようだが、私が一歩二歩と部屋の中を進むと、その分だけ部屋の壁は私から遠ざかっていく。まるで自分の影みたいに、進んだ分だけ私から逃げていき、私が立ち止まれば壁も動くことはない。

 私は進むのをやめ、その場にしゃがみ込んだ。この部屋の壁には際限というものがないのだと、すぐに気がついたのだ。

 壁は私から遠ざかり、天井にはどうやっても手が届かないので、触れられる可能性が高そうな床に手を伸ばしてみた。

 さすがに床は逃げることなく、私はそっと床に触れることができた。

 かすかに触れた指先から、ふわふわとした感触が伝わってくる。床はまるで雲のように柔らかい。

 そして、その白くて柔らかい床に触れ続けていると、私の頭から記憶が抜け落ちていくような、指先を伝って勝手に記憶が流れ出て行ってしまっているような気がした。

 いや、たぶん本当に、私の記憶が流れ出て行ってしまっているのだろう。

 少しずつ、心が軽くなっていくのが分かる。少しずつ、痛みが薄れていくのが分かる。


 私はこの部屋に入る前に、二つの選択を迫られた。今すぐ記憶をリセットして、再び生き物として命を宿し、そして地上に降り立つ。または生き死にという概念が存在しないこの天国と呼ぶにふさわしい場所で、少しずつ記憶を処理しながら悠久の時を過ごすか、という二択だ。

 私は後者を選んだ。どうしてかと言われると、それはよく分からなかった。なんとなくそうしたほうが幸せな気がしたと、そう答えるしかない。

 指先から床へ私の記憶が流れ出すたびに、私は自分を思い出す。私に何があったのかを理解する。しかしその記憶は、一瞬だけ鮮やかな色合いと香ばしい匂いを放つと、次の瞬間にはまるで他人事のような、たいして興味のない映画を見ているような、そういう感覚へと置き換わっていった。

 ここがどういう部屋なのか詳しい説明は受けていない。部屋に入り、触れそうな物にただ手を伸ばせばおのずと分かると、そう言われただけだ。誰に言われたかは覚えていない。でも確かに、誰かが私にそう言ったのだ。

 私はただ触れていただけの床を、その綿あめのようなふんわりとした床を、今度は思いっきり握ってみた。すると急速に、より鮮明に記憶が想起され、そして床へと流れていった。

 そこで私は気がついた。床に流れていく記憶は、どれも私にとって嫌な記憶たちだということに。

 小学生の時に見た、道端でぺちゃんこになっているカエルの死体。学校で苛められていた同級生の女の子の表情。たまたまテレビのチャンネルを変えた時に、視界に入ってきたグロテスクな映画のワンシーン。居合わせた駅のホームで、通過電車に向かって飛び込んだスーツ姿のあの人。面接の時に言われた何気ないけど、私の心にずっと突き刺さったままのあの言葉。

 そして最期に見た、視界の中央でゆらゆらと小さく揺れ動く、先端が輪っか状に結われたロープ。

 視線は足許あしもとへと移り、キッチンの戸棚の物を取りやすくするために買った、申し訳程度の高さしかない踏み台に足を乗せた。頭を輪っかに通し、そして踏み台を思いっきり蹴飛ばした。

 蹴った足が痛い。そう感じたのはほんの一瞬で、すぐに頭が熱くなった。でもそれも一瞬のことで、今度は全身の血液を一気に抜き取られたみたいに、急に体が寒くなった。そして、私の視界はそこで閉ざされた。

 全部思い出した。そして次の瞬間には、それは私の手から離れ、誰の記憶でもなくなった。

 いつの間にか私は涙を流していた。苦しみや痛み、ましてや恐怖心を思い出したからではない。

 最後まで「逃げる」ことを選択してしまった、私の情けなさに出た涙だ。でも、それはどうしようもなかったことだ。私には逃げるだけの力しか残っていなかった。それしか私には選択肢がなかったのだ。

 嫌なことから逃げれば逃げるほど、選択肢はどんどん狭まっていった。そうして逃げ続けた先には、もうまともな選択肢は残っていなかった。どの選択肢も最悪だけど、どの選択肢が一番「マシ」かな?

 そんなことばかり考えていた。

 自殺とは「する」か「しない」かという二択じゃなくて、それしか進む道がないという自明の行為なのだ。選べたとしても、それは首吊りか入水か薬に頼るかといった、方法の問題でしかない。

 こんな私を、私は情けないと思う。どうしてあの時、もっとこうしなかったのかと今更後悔する。

 でも、そんな自責の念もすぐに消えた。頭から体、体から指を伝って、床へと流れて行ってしまう。そうしたら私の中には、数少ない幸せな記憶だけが残る。

 親戚のおじさんの家で加えられた虐待の数々を、小さい頃に事故で亡くなった両親との、普通だけど今思えば幸せだった記憶と引き換えに。将来のためにと貯めたお金を、必ず返すからと仲の良い友人にあっさり騙し取られてしまった記憶を、昔飼っていた愛猫のリンの温もりと引き換えに。

 そうやって私の中から不幸は取り除かれていった。

 少しずつ、長いような短いような時間が過ぎる。そしていつしか、私は幸福で満たされた。

 暖かいものに包まれる感覚。知らない誰かが耳元で、今度こそ幸せになっていいよと囁いてくれる。

 私は幸せになった。もう、すべてが満たされている。

 気がつくと、狭かった部屋はいつの間にか広くなっており、真っ白な部屋には私の幸せが詰まっていた。

 ソファーには私のお父さんとお母さんが座っていて、テレビを見ながらくつろいでいる。二人して何か面白い番組を見ているのか、時折お父さんは、少しだけ口角を上げる穏やかな笑みを。お母さんは、あははと声を出して楽しそうに笑っていた。

 私の足許から、にゃーにゃーという懐かしい声が聞こえてくる。

 足許に視線を移すと、リンが尻尾を揺らしながら、私の脚にその温かい身体を擦りつけてきた。

 もう遠ざかることのない壁には、引き出しがたくさん付いた大きな箪笥たんすが置いてあった。

 適当な引き出しを開けてみると、中には可愛いお洋服と美味しそうなお菓子がたくさん入っていた。そのどちらも、当時まだ小さくて苦しみに耐えることに精一杯だった私が、心の底から欲しいと願っていた物だった。

 私は幸せの中でゆっくりと目を閉じた。これから続いていく悠久の時間のために、一度は閉じてしまった心を開ける。

 できることなら、生きているうちにこんな幸せを感じてみたかった。ほんの少しでもいいから、感じてみたかったな。

 ふと目を開け、私はまた床に手を伸ばした。この思いも、全部床に流してしまおう。

 頭から首を伝って肩へ。肩から二の腕を伝って肘へ。肘から手首。手首からから指先へ。

 そしてそれは、床へと流れていった。私から完全に離れていった。もう誰の記憶でもないそれに、私は別れを告げる。

「さようなら。不幸な私――」

 気がつくと、私の身体は小さい頃の私に戻っていた。

 まだ両親が生きていた頃の私。まだリンの温もりを感じていた頃の私。まだ可愛らしいお洋服と、美味しそうなお菓子に憧れを抱き、必死に手を伸ばそうとしていた頃の私。

 私は可愛いお洋服に着替え、手には美味しそなチョコレートとキャンディーを持ち、走り出した。

 すぐ後ろには、嬉しそうに飛び跳ねながら私の後をついてくるリンがいた。

 そして私は、

「お父さん! お母さん!」

 と、久しぶりに声に出したその言葉と共に、大好きな両親の元へと駆けて行った。

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幸せの部屋 高梨結有 @takanashiyu

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