黒猫の供養屋

雷鳥

第1話 物語の供養


人は誰しも死を迎える。それは形あるものも、無きものも同様に。

供養とは、死者を忘れる為にするのでは無く、生者が整理を付ける為にするものだ。


◼️


 重い革靴を引き摺るように、男は歩いていた。背を丸め、もさもさとした髪。スーツ姿でビジネス鞄を大事そうに抱えている。道を折れ曲がり、大通りから外れた。

行き先も決めぬままふらついていると、ゴミ捨て場が目に入る。集荷の表示を見ると、燃えるゴミの集荷は丁度明日の曜日だ。

少し逡巡しながらも、ため息を一つ付いて。

鞄を持ち上げ、中身をひっくり返してその場に捨て去ろうとした時

ガア、と声がした。

やけに近い。


振り返ると目の前に黒いものが広がる。


「え、うわっ、痛っ!やめろ…!」


カラスだ。自分の縄張りを守りに来たのだろう。

嘴でつつき、爪で頭を引っ掻いてきた。手を振り回し、なんとか追い払った。

災難だと思いながら、肩の羽屑やゴミを払う。

鞄は…無事のようだ。いや、中身にこだわることは、もうないというのに。

身なりを整えて立ち去ろうとした時、一軒の店が目に入った。

黒檀のドア、木目細工のショーウィンドゥの奥には黒い箱のようなものがみえる。古風な照明に、喫茶店を思わせるほの暗さ。古びた看板が置かれていた。



「有形・無形 供養します」



埃が被った軒先を見ると、かろうじて葬儀屋と読めた。葬儀屋とは、個人経営でやっているものなのだろうか。郊外の道沿いでセレモニーホールや火葬場を企業が営んでいるのは見たことがあるが、これは初めてだった。


「……」


軒先を見て、鞄を見る。丁度いい。中身を供養してもらえるのであれば、きっと心に思い残すこともないだろう。好奇心は少しの恐怖心を消し去って、ドアに手を掛けさせた。


低い音の鉄のベルが鳴り響いて、来客を知らせた。転がっている黒い毛玉のような猫をカウンターから下ろして、開いたドアを見た。


「いらっしゃいませ」


黒縁のメガネの奥には、眠そうな目。奇異なのが服装だ。飾り気のないシャツ、スラックスからエプロンに至るまで、まるで喪に服すような装い。肩までのショートカットに、目元で切り揃えられた髪まで黒に染まっている。

おずおずと、探るように尋ねた。


「表の看板を見たんですけど…」


「供養をご希望ですか?」


「えっと…まあ、はい」


「分かりました、お掛けになってお待ちください」


店内はアンティーク調の家具でまとめられており、一つ一つの調度品からは年代を思わせた。薄ら暗いように見えた中は、淡い照明で照らされている。革張りのソファに腰掛け、周りを見渡す。ふと、嗅いだことのある香りがする。それがなんだったか思い出そうとすると、奥から戻ってきた店主から声をかけられた。ソーサーに乗せられたコーヒーを並べながら、店主は言う。


「今回はどのようなものを?」


「その、供養…してもらえるんですよね」


「まあ、はい」


「それって、どんなものでも?」


「当店では有形・無形拘らず、供養させて頂いております」


供養、というと。例えばひとであったり、生き物であったり。形あるものが死んだ時、その冥福を生きているものが祈ることがそうであるが。


「無形、って言うと…例えば」


「そうですね、感情、記憶…そうだ、過去には関係を持ち込まれたお客様もいらっしゃいましたよ」


コーヒーを飲む手が止まる。

「消したりできる、んですか」


「折り合いを付ける、のほうが正しいと思います」


少し考え込むような素振り。黒髪が揺れる。

「…何か、弔いたいものがあるのでは」

まるで見抜くように、店主は言う。

「これを、お願いしたくて」少しだけ逡巡した後、男は鞄を持ち上げて、

中身を取り出した。大量の紙束にUSBメモリ。



「物語を、供養して欲しいんです」



◼️



紙束は原稿用紙。中には文字が綴られており、それが幾重にも続いている。USBメモリの中身も同様だろう。

店主は白手袋を付け、紙束の表面をなぞった。

「供養の際には、ご遺族の方からお話を伺うようになっております。差し支えなければよろしいでしょうか」

「より良い、弔いの為にも」

見透すように、こちらを窺う。

「…面白い話じゃないですよ、それでもいいんですか?」

「話を伺うことも、仕事の一つですから」店員の目元が、ほんの少し和らいだように見えた。


「じゃあ、一つ」

照明が、少し揺らいだような気がした。


「なんでもない、ぼくは作家のようなものでして。随分前に賞をいただいて、それからいくつか本を書かせて貰っているのですが」

「なかなか、難しいもので。」

頭を掻いて、少し目線を落とした。


「続いてたやつが、ひとつ打ち切られることになってしまいましてね。これはその続きの原稿で」

「本当だったら…きっと、たくさんの人に読まれる筈だったんです」

「けどね。ぼくの力不足ですよ、まあ、仕方がないけれど…」


冷めたコーヒーは苦く、ぬるく喉に落ちていく。


「捨てるには、あまりに惜しくなってしまった」

息をゆっくりと吐く。感情を吐露するように、整理するように。


「だけど、次は無いんです。父が倒れてしまったので、実家の旅館を継がなくてはなりません」

「随分自由もさせてもらった。だから、親孝行をする機会がきた。そう言うことだと思って、忘れるべきなんでしょう」

原稿を見れば、ありありと思い出される。何も思いつかない焦燥感、話が動き出した時の高揚感。生きる登場人物。

それらは全て、置いていくべきものだ。

だというのに。目を閉じれば、これから彼らがどんなことをするかが思い浮かぶ。話をして、互いに語り合い、思いを紡ぎ、最後のページまで駆け抜けていく。それは本を閉じるまで止まる事のない筈だった。


自分が壊した。


本のページを破り取るように、その世界は続かなくなる。最後のページは存在しなくなる。


「忘れたいんですよ。記憶…でしたっけ。本当にそっちも供養してもらえるなら、して欲しいくらいで」

はは、と男の空虚な笑いが店内に響いた。


「あなたが」冷ややかな声で店主は言う。

「あなたが本当に弔いたいのであれば、そちらもそのように出来ますが」

「それでは、悔いが残るのではないでしょうか」


「…ぼくが、忘れたくないって?そんな訳」

ない、という言葉は出なかった。手で口を塞ぐ。それを口に出すことだけは、していけないように感じた。

「物語の死というのは、何も終わることだけではないように感じます」

「忘れ去られること。それも死の一つではないでしょうか」

「覚えていろと?」声に棘が混じる。

「私はそれが供養として最善だと、」

「無茶を…言わないでくれよ…!」両手が机に叩きつけられる。ガチャンと、カップが揺れた。


「ぼくだって、覚えていようとした。でも、でも出来なかった、それが無理だった…どんな顔して、抱えていけばいいかなんて、分かりっこ無いんだよ。

死んだ物語は、忘れた方がずっといい。無理矢理にでも消して、引き摺らないで生きていかなきゃならないんだ」

まるで聞きの悪い子どもに、言い聞かせるように。


ふと、机にひとつの黒い箱が現れた。マッチ箱くらいの大きさの、飾り気のない紙箱だ。

店主はそれを手に取る。からり、と軽い音がした。


「忘れる事にするよ。ぼくは…」

幾らか、逡巡して。

「…ぼく1人じゃあ、きっと無理だろう。弔って欲しい。お願いしてもいいかな」


「…承りました。有形・無形、どんなものでも供養いたします」

箱をずらすと、マッチ箱のように横に開く。一本の、黒い頭のマッチ。

それを手に取って、シュッと音を立てて擦り、火が灯る。じわりと、焦げる匂い。

火種を紙束へ移す。

目の前で燃えている火は不思議と熱くなく、無色透明のように見えた。店内が烟ってゆく。息が詰まるような感覚は無かった。煙が視界を覆い隠していく。

その中に、ふと記憶の影を見た。



◼️



「…今回も、すごく面白かったです。この方向で行きましょう。毎日読むのが楽しいんですよ、先生の原稿」

「本当ですか?いつも緊張して…」

「私は大好きです。次も楽しみにしてます。一番最初に読めちゃうなんて、ほんとうに贅沢してる気分!」

「…ありがとうございます、なんと言ったらいいか」


シンクに置かれたコーヒーフィルターから、滲み出たコーヒーが流れ出す。沢山淹れたコーヒーはマグカップに溜まっている。

フィルターはひとつではない。時計の針は深夜を指している。手が止まる。展開を考え、次をどうするか決めかねていた。惑う時間。一番焦り、一番楽しいように感じる。“ちゃんと寝てくださいね“と、編集から連絡がくる。見抜かれているなあ、と笑いながら、また机に向かう。

待っている人の為に、筆を止める訳には行かない。



書店に本が並んでいた。自分の名前に、見せてくれた書影。印刷されて、実物として存在していた。嬉しさと、現実感のなさが混ざって、手に取るまで時間がかかった。ぼうっと売り場を眺めていると、ひとりが本を手に取りレジまで持って行ってくれた。


その時の感情は、言葉にするにはあまりにも複雑で大きかった。



パソコンの周りに栄養ドリンクの空き缶がまたひとつ増える。筆が進まない自分に、こちらでの書き方を勧めてくれたのは編集だった。書きやすく手も疲れない。編集も楽で自分に合っていると思った。けれど、前のように思い浮かばない。活き活きとした想像が枯れ果てているようだった。道具を変えても、根底にあるものは変わらない。必死に文を書いては消し、文字を埋めていく。これでいいのか、という自問ばかりよぎって、物語の彼らの表情が靄の奥にあるように見えた。



久しぶりに会った編集の表情は暗かった。「…すみません、実は…」

話を聞いた。仕方がなかった。

「そうですか、本当にありがとうございました」

「けど」

「あなたと本を出せたこと、とても楽しかった」

「最後に一緒に書けて嬉しかった。編集があなたで良かったです。本当に」

泣き出してしまった彼女を見ながら、自分も感情を押し殺した。



◼️



「…続いて、欲しかったなあ…」

煙が晴れた。机の上には、もう何もない。

「ちゃんと、書き切りたかった。あそこで終わらせたくなかった」

俯いて、両の拳を握り締めた。

本音が、口から止め処なくこぼれ落ちる。

「ずっと、これを言いたかったんだろうなあ」

息を吐いた。まるで、体の中の煙を押し出すように。

そこでふと、思い出した。

店に薫るこの匂いは、線香の匂いであることを。



店内は来た時より少し明るく感じた。足元で黒猫がすうすう寝息を立てている。

「整理がつきました。もう筆は置こうかと思っていたけれど…もう少しだけ」

「書こうと、思います。時間をなんとか作って、次は」

最後まで、と。


軽くなった鞄を持ち、店を出る。

「ありがとう。おかげで整理が付いたよ。」

「お役に立てたのであれば、何よりです」

「お代は…」

「結構です。供養出来たのであれば、それが一番のお代ですから」

「そうか…あ、なら。」不恰好に、笑って。

「書き上がったら、二番目に見せにくるよ」

少しだけ驚くようなそぶりを見せて、

「楽しみにしていますね」眼鏡の奥。店主の表情が和らいだ。


鉄のベルが低く鳴る。黒檀のドアが開き、外の風が吹き込んできた。

暮れ時の街を行く。青と橙が混じり合って、晴れ渡った夕空はとても綺麗だった。

空の鞄に、次はどんなものがたりを詰めようか。例えばーー



有形・無形、問うことなく弔い解す、供養屋の店主の話など。



◼️


とある街。必要としている者の傍に、その店は現れるという。

黒檀のドア、木目細工のショーウィンドゥの奥には黒い箱のようなものがみえる。古風な照明に、喫茶店を思わせるほの暗さ。古びた看板が置かれている。黒尽くめの店主と黒猫が迎えるは、行き先を喪ったものと人の数々。軒先の看板には、一つの謳い文句。



「有形・無形 供養します」



今日もまた、マッチに火が灯る。

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