ニエ

梨子ぴん

ニエ

 神々は我々のすぐ傍で見ている、とは少し前まで暮らしていた村の村長の口癖だった。その口調は優しくて温かいのに、どこかヒヤリとさせられたのをよく覚えている。

「父さん、小麦と粟はここに置いておけばいいの?」

「ああ、それと後で蒸して食べるから皿の準備も頼む。」

「わかった。」

 父と二人きりで暮らし始めて数日だが、案外上手くいっていた。ただ、父は静かな人のため、俺はちっとも面白くなかった。村で友達と遊んでいた時の方が楽しかったのに。

「……父さん、いつになったら村に帰れるの。」

「わからない。うんと先かもしれないし、すぐかもしれない。」

そう言った父はどこか寂しげだった。


 夜が更けると、父とよく話をした。村にいるときは父とは話さずすぐに寝てしまっていたので、新鮮な感じがした。

「トビ、どうだ。少しはこの生活も楽しくなってきたか。」

「ううん、あんまりかな。鳥たちと遊ぶのはまあ楽しいけど。……やっぱり皆と騒ぐ方が良い。」

「そうか。トビは元気がいいからな。この生活が物足りなく感じるんだろう。」

 夜になると、父は普段より喋るようになった。父との会話も案外悪くないな、と思った。

「なあ、トビ。」

「なに?」

「神様を感じたことはあるか。」

「……ないけど、それがどうしたの。というか神様ってどの? 天照大神? それとも月読? あっ、大国主命?」

「いや、なんでもない。……そうか、そういうことなのか。」

父はブツブツ言っていたが、俺に優しく諭すように言った。

「トビ、神様ってのはそこらじゅうにいるものなんだ。」

「えっ、そのへんの葉っぱとかにも? いすぎじゃないの。」

「神様はありとあらゆるものに宿るからね。神々は我々のすぐ傍で見てくださっていて、恵みをもたらしてくれるんだ。」

「ふうん。」

 少しばかり面倒くさそうな話になってきたので、適当な返事をすることにした。

「でもね、神様は恵みを下さるけど、それには対価が必要なんだ。そう、神様はニエを求めている。」

 父は途切れることなく喋り続けた。いつもとは違う父の様子に、戸惑う以上に恐怖を抱いた。

「トビ、お前には必ず神様を感じる時が来る。その時は神様の言う通りにするんだ、いいね。」

「わかった、わかったよ。」

 父の話に付き合うことに疲れた俺は、そっぽを向いた。父はその俺の態度に文句がありそうだったが、諦めて寝てくれた。


 あるよく晴れた日、麻の衣を干していた時だった。――突然、人間ではない怖ろしい何かが近づいてくるのを感じた。背筋がぞわぞわする。なんだこれ。

「父さん、今、なんか変なのが……! 俺に近付こうとしてくる!」

「それは本当か。本当なのか。」

 父の目は不気味な希望に満ちていた。爛々と光らせた瞳は、俺を見ているのに、俺より遠くのものを見ているようだった。

「……父さん?」

 思わず声が震えた。

「すまない。少し取り乱してしまった。大丈夫、大丈夫だ。」

その大丈夫は俺に言っているのか、父自身に言い聞かせているのか分からなかった。


 空には橙色や青の層ができていて、とても美しかった。一方で、この夕焼けはいつになく心をざわつかせた。

「今日はたくさん米を食べられたから、お腹いっぱいだ。やっぱり米が一番美味しい。でも、こんな食べて後々困らないの。」

「ああ、今日は良いんだ。なにせお祝いだからな。」

「……お祝い? 何の?」

 ひどく嫌な予感がした。生温い風が身体を触っていく。

「村の皆が恵みを享受できることのお祝いだよ。いや、トビのお祝いでもあるね。」

 父さん、来ないでくれ。頭が重い。腹がぐるぐると鳴る。

「おめでとう、トビ! お前は神様の依代になった。そして、私はその神様の誉れあるニエだ。」

 嫌だ、嫌だ。俺の感覚が別の何かと混じっていく。喉が渇いていく。

「神様は何にでも宿ると言ったが、あれは語弊があったな。人間に関してはそうじゃない。」

 目の前の父が美味しそうに見える。待て、おかしい。人間に対して美味しそうだなんて俺は一体――。

「人間の場合は、成人前の子どもにしか神様は宿らない。神様は人間の魂と感情を召しあがるのを楽しみにされている。食事をした暁に、恵みを受け取ることができる。」

 駄目だ、身体が言うことを聞かない。父を押し倒す。一切の抵抗をせず、父は俺に優しく微笑んだ。父の首に手が添えられ、徐々に力が込められていく。嫌だ、嫌だ、助けて。父が苦しそうにうめき声をあげた.。父の目から涙がこぼれる。いつしか俺も涙を流し、涙が父の顔へと落ちていった。

 そして父から全身の力が抜けていくのを感じるとともに、俺の意識もかき消されていった。



 ある日、村の外れから男が一人見つかった。息絶えた状態であったが、顔には笑みを浮かべていたという。また、村には雨が降り注ぎ、大地を潤した。作物もよく実ったため、村人たちは喜び、宴も開き、酒を飲み、おおいに楽しんだ。


 その様子を、一人の幼い少年はただじっと見ていた。



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ニエ 梨子ぴん @riko_pin

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