各家からの来客

茶々丸が父である足利政知の元へ行き、足利成氏の養子となる旨を伝えたようだが、そこでもひと悶着あったと戻って来た茶々丸が言っていた。


どうやら成氏の養子となると伝えたら、厄介払いが出来ると思ったのか、政知は上機嫌で元服時に与えうる元服名(諱)に偏諱を授け知成ともしげにと言ったらしいが、茶々丸が即答で断り、尊成たかなりにすると答えたらしい。


政知からすれば、せっかく偏諱を授けようとしたのに断るだけでなく、足利幕府を作った足利尊氏の尊に、成氏の成を使った事に対し、怒りを露わにしていたとの事だった。


言い合いの末、最終的には、元服名(諱)は元服時に再度考えるとの事で決着したらしいが、茶々丸は、これ以上話しても無駄なのでそう言ってその場を終わらせただけで、元服後は尊成と名乗るらしい。


まあ、俺からしたら、その辺は実父と養父と茶々丸で勝手にやってくれと言った感じだ。


茶々丸の件が片付き、足利政知から先の合戦で得た所領の采配に関して追認を得たので、今後の方針として来年、再来年には常陸、下野、越後、甲斐、駿河を切り取り豊嶋の所領にする事を伝え、許可を取り江戸に帰る。

政知はどうせ切り取れはしないと思ったのか、意外とすんなり許可をだしたのには驚いた。


得た所領の采配は鎌倉公方である自分がすると言い出すと思っていたが…。

いや、切り取った所領配分の采配をすると言えば鎌倉公方公認の侵攻となるから、言わなかったと言うのが正しいか。

意外とその辺の処世術はあるんだよな、傀儡のくせに…。


そして江戸に戻ると、成氏に茶々丸の養子の件は了承を取り付けた事に加え、世間で言われているような人物ではない事を書状を書き、送ると、その後はゆっくりと過ごす…、事は出来なかった。


江戸に戻ったら太田道真が来ていて、太田道真と当主の資常が隠居し家督を次男で岩槻城主の太田資忠に継がせると言い出した。


どうやら太田資常は合戦で負った傷は癒えたものの、体調があまり良くないようだった。そこで越生に館を作りのんびりと暮らさせたいとの事で館を建てる許可を求めて来た。

越生は豊嶋領で、しかも風魔衆の所領なんだが、とりあえず許可はしたけどさ…。


因みに、資常と共に隠居をすると言い出した道真だったが、俺の相談役として江戸に住まないかと聞いたら、孫の照や産まれて来る曾孫と好きな時に会えるのであればと快諾した。

いや、まあ俺は助かるんだが、それで良いのか?


尚、太田家の新当主となった資忠は岩槻城から川越城へ移り、岩槻城は家臣を城代とするとの事だった。


道真は江戸に住む事になったのが嬉しいのか、嬉々として帰って行ったが、その翌日も翌々日、翌々々日も立て続けに来客があった。


翌日は三浦時高、翌々日は成田正等と柴崎長親が、翌々々日には小山田信隆おやまだのぶたかがやって来た。


三浦時高は道真と同様に完全に隠居し、実子である高虎に政も全て任せ、自身は三浦で日々釣りをして過ごすらしいが、最後の仕事と言わんばかりに同盟の再確認と内容調整をしにやって来た。


まあ同盟内容の調整は豊嶋家としても古い同盟内容より時代に合った内容に変えるのは望むところなので、時高と話合い、同盟内容の見直しをし、後日、吉日を選んで豊嶋領と三浦領の境辺りにある寺で同盟を再度結び直す事で合意した。


まあ、内容変更と言っても、三浦領はほぼ豊嶋領に囲まれた為、誰かに攻め込まれる心配がなくなった事で、今までのように他家に攻められたら可能な限り援軍を送るという内容から、豊嶋が援軍を求める際は相応の対価を提示する事になった。


まあこれは仕方ない…。

なんせ三浦家は所領を接する外敵が居なくなったんだから、タダでは援軍を出さんという意思表示をしておかないと、手伝い合戦に明け暮れる事になるのだから。


後所領に関しては、伊豆は豊嶋領とし、相模の旧扇谷上杉領である相模川以西を三浦領とする事の再確認をし、降伏した上杉朝昌の扱いとして、扇谷上杉家の菩提寺を弔う為に出家させたので、兵を挙げようとしない限りは手を出さないように念押しをされた。


いや、俺ってどんなイメージなの!

暗殺とか今までした事ないから!


時高が帰った翌日は成田正等と柴崎長親がやって来た。成田正等は先の合戦で得た松山城(埼玉県比企郡吉見町付近)とその一帯を柴崎長親に与え、独立させたいと言うが、柴崎長親はそれに見合う働きはしていないと頑なに断り続ける為、説得をして欲しいとの事だった。


柴崎長親には豊島家としても足利成氏、上杉顕定との合戦後に独立させるつもりだったと、頑張って説得したが、それでも首を縦に振らなかった。そこで半ば自棄になって、成田家が得た松山城とその一帯を豊嶋が貰い受け、それを柴崎長親に与えて豊嶋家の家臣とする事を冗談で提案したら、首を縦に振った。


柴崎長親いわく、成田家には先の合戦で上杉を騙す為の策とはいえ、数年に渡り、主である成田正等と不仲を演じて来ており、自身に所領を贈与し独立させれば成田家内で不満の声が上がり、家中が分裂しかねないとの事だ。


豊嶋家の家臣となり、成田家から豊嶋家が替地を用意し、それと交換した松山城とその一帯を受け取るなら成田家内で不満の声も少ないだろうとの事だ。


成田正等はそれで構わないと言うので、急ぎ替地を用意して、改めて柴崎長親を一門衆として豊嶋家の家臣に迎えたうえで松山城とその一帯を与えて何とか解決したのだ。


メンドクサイ…!

というか、本来なら成田家が損をし豊嶋が得をする話だったのに、俺の直轄領が削られた…。

まあしかたない…、ってまさか俺、嵌められた?


その翌日、小山田信隆が江戸城に来たのだが、こちらはお礼と謝罪をしに来たという感じだ。


そう、小山田信隆は豊嶋家に従属はしていたが、特に何かを命じたりしたわけではなく、駿河で起きた合戦の際も道灌が援軍を頼む使者を出した程度だった。

そして扇谷上杉家を滅ぼしたら相模に所領を与えると約束していたが、予定地が三浦家の所領となってしまった。そのため駿河に所領を与えたのだが、それがとても嬉しかったのか、今回お礼に来たらしい。


小山田家に与えた所領は小山田領と接する駿東郡北部、約10000石と沼津付近の漁村1村、漁村は人口が100人ぐらいの小さな漁村だが、これが殊の外喜ばれた。


どうやら米は殆ど採れないが、漁村に人を移住させて、小山田家で塩を作り、漁民からは米の代わりに魚の干物などを納めさせる。

そして山に囲まれた甲斐へ売り込む事で利を得られるとの事だ。


そう上手くいくとは思わないけど、本人が喜んでいるならそれでいいか…。

来年か再来年には甲斐攻めをするから、兵を出させ、手柄を挙げたら駿東郡沿岸に少し纏まった所領をあげよう。


因みに謝罪の内容は、江戸に妻子をとの事だが、最近、伊勢に駿河を追われて落ち延びて来た葛山一族の娘を娶ったばかりで、江戸に住まわせる事が出来ないとの事だ。

というか江戸に住まわせると子作りが出来ないので数年の猶予を欲しいと言って来た。


うん、許可しましたよ。

というか豊嶋式目に手を加えよう。


江戸に住まわせる妻子は婚姻を結んで5年以上経った者、子供は8歳以上に変えよう!!


新婚を引き離すとか、我ながら鬼畜な式目だから…。


うん、妻子の件は式目を改めると伝え、許可を出したら喜んで帰って行った。


さて、豊嶋式目の変更だが、道真に早速相談しよう。

その為に相談役になって貰ったんだし…。

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