上杉顕定、再出兵

7月も中旬となり、本来であれば暑くなる季節なんだが、今年は雨が多く蒸し暑い。そして数日前まで雨が降り続いた事で入間川が増水した。


豊嶋領側は堤のおかげで入間川沿いの田畑は被害を免れたが、豊嶋領ではない対岸は堤が無い為水が流れ込み、かなりの被害を受けているらしく、被害を受けた田畑の収穫はほぼ見込め無さそうとの事だ。

ただし多摩川流域の田畑が被害を受けたとの事で、早急に堤の建設をしたいところだが、対岸を領する三浦家との兼ね合いもあり、話し合いをした上で無いと建設が出来ないのが痛い。


作物に関しては、豊嶋領内の田畑を調べさせたが、米や麦などの作物は雨が多い為、生育が遅れてはいるものの、これから雨が少なくなれば通常通りの収穫が見込めるとの事で、8月は晴れが多い月になる事を祈るばかりだ。

天気はどうしようも無いもんね…。


一方、葛西城を攻めていた岩松成兼が7月に入り総攻めをして葛西城は落城し、城主で武蔵守護代である大石定重は討ち死にし、豊嶋領と古河公方の勢力が入間川を挟んで対峙するという構図となった。


岩松成兼は恐らく援軍が来ないうちにと総攻めをしたのだろうがその結果、攻城側にも多大な損害が出て、暫くは入間川を越えて豊嶋領へ侵入する事はないと思う。


葛西城は燃えてしまったので建て直さなければならず、今は近隣の領民を駆り出し築城をしているようだが、長雨による増水で被害を受け、また葛西城に籠城した農民なども多くが殺された為、葛西一帯の領民などは憎悪と不満が渦巻いているようだ。


恐らく今年、葛西一帯の収穫量は大幅に低下するだろうから、この分だと一揆が起きる事はないとしても、冬には領民の逃散が始まると思われる。

領民の逃散が顕著に表れ、その事が古河の足利成氏に伝わればどうなる事やら…。


という事で岩松成兼を調略すべく、まずは成兼の家臣の調略から始める。

岩松成兼という人物は、元々は父や兄と共に古河公方に仕えていたが、堀越公方に寝返った過去があり、その後堀越公方に父と兄を謀殺され、命辛々逃げた成兼は古河公方に再度仕え今に至る。

今は葛西城とその一帯を任されているが、所領として与えられた訳ではなく、言うなれば城代として橋頭堡の確保をしているに過ぎない。


ならば葛西城とその一帯を豊嶋家に引き渡す替わりに、武蔵国に相応の所領を与えるという餌をチラつかせれば寝返る可能性が十分にある。

勝っている側の人間を調略するのは時間がかかるので、豊嶋泰明と宮城政業に焦らずゆっくりと調略をするように命じた。

恐らく来年中には何らかの形で動きがあるはずだ。


それにしても関東管領である上杉顕定は葛西城が落城したとの報告を受け、信濃から急いで帰国する支度を始めたらしいが、今後どう動くか…。暫くの間、豊嶋家は調略をかける事以外は基本的に静観する。

やる事とすれば、葛西城については城が8割方出来上がったら、風魔衆を使って放火する予定ではあるが、それ以外は手を出さない。

今、攻め込んで葛西一帯を奪ったとしても、確実に上杉顕定から討ち死にした大石定重の一門に返せと言われるからだ。


8月になると、やっと信濃から戻って来た上杉顕定から何故葛西城を救援しなかったのか?と叱責に近い書状が届いたが、援軍要請も無く、長雨の影響で入間川が増水して渡河できなかったと返事を送っておいた。


その後、兵を出し速やかに葛西一帯を取り返せ、との書状が送られてきたが、京の都から公家衆が江戸に下向されると先触れがあったので、現在その準備で出兵出来ないとの返事を書いて、丁重にお断りしておいた。

成田家や太田家にも出兵要請があったらしいが、こちらも公家衆が下向した際に、俺と婚姻を結んでいる太田、成田も挨拶に参上するよう言われており、献上品の支度やその費用が嵩んで出兵できる状況ではないという理由で断ったらしい。


それでも上杉顕定は葛西一帯を取り戻したいらしく、信濃から戻ってすぐに陣触れを発し、葛西城奪還に向かおうとするも、長陣に辟易していた国人衆からの不満が高まり、勝手に所領へ帰ってしまう国人衆も多く現れ、3000人程しか残らなかったようだ。

再度陣触れを発したが、今年の長雨による増水等で被害を受けた国人衆など殆どが応じず、結果的に5000人程しか集まらなかった。


信濃に数か月の出兵に従った国人衆は褒美など得る物も無く、出費だけが嵩んで疲弊しているにも拘らず、戻った直後に再度出兵となれば更に出費が嵩む。

しかも長雨で例年通りの収穫高が望めず不作になる可能性が高く、昨年から年明けにかけて商人に米などを大量に売った者が多く、蓄え自体にも不安がある。

そんな状態で再度出兵要請を出しても応じる者は少ない。


そもそも信濃出兵自体の目的も信濃を平穏にするという漠然とした理由だけで、特に合戦になる事も無く無駄な時を過ごし、その間の出費は国人領主持ちだったため、村上家の葛尾城の城下は空前の好景気だったらしいが、出兵に従った国人衆の城下は空前の不景気に見舞われている。

しかも普段より高く買い取ると商人に言われ、欲を出して蓄えの米まで売ってしまっているので、収穫高が落ちる可能性があるとなれば、なおさら出兵を渋るに決まっている。まあ、そのように商人を仕向けたのは俺なんだけどね。


長尾景春は出兵を思い留まるよう数日に渡り上杉顕定を説得したようだが、結局は聞き入れられず、反対に怒りを買い、「そんなに出陣したくないなら所領にでも帰って寝ておれ!!」と怒鳴り散らされたらしい。

景春は家宰としての役目を継続し、そのまま平井城には残ったものの、顕定は集まった5000人の兵を率い、葛西城奪還の為に出陣してしまった。


上杉顕定率いる5000人の兵は利根川沿いに葛西城へ向けて兵を進める。

途中、昨年、古河公方こと足利成氏の大軍を破った幸手原近くの栗原城で一泊し、翌朝兵を進めるが、顕定軍の接近を事前に察知していた関宿城城主・簗田成助、栗橋城城主・野田政朝の手の者200人程が夜間に船で利根川を渡り、荷駄に火矢を射かけた。


複数の火矢を撃ち込まれた荷駄は炎上し、多くの兵糧が失われたとの報告を聞き、顕定は即座に火矢を撃ち込んだ兵を討ち取るよう命じるも、荷駄が炎上したのを確認した兵は一目散に利根川に退避し、待機していた船に乗って逃げたため、顕定の兵が利根川に押し寄せた頃には既に船の上で矢も届かぬ距離に居た。


兵糧の多くが失われた為、本来であれば兵を引き上げるのが普通なのだが、顕定は葛西城奪還を諦めず、周辺の国人衆へ兵を出さない代わりに兵糧を供出するよう命じ、これにより多くの国人衆からさらに不満を買う結果となった。


そして埼玉郡の八条村(現在の埼玉県八潮市付近)で岩松成兼率いる3000人の兵と対峙した。

上杉顕定軍5000に対し岩松成兼軍3000。本来であれば数で有利なはずであるが、顕定軍の兵達は幸手で兵糧を焼かれたように、利根川を渡河して後方から足利成氏軍が攻めてくるのではないかと不安に駆られ、士気が思うように上がらず、顕定が一人気勢を上げるも従う者が消極的となり、10日程睨み合いが続いたが、結局は士気の低い顕定軍が兵を引き上げた事で葛西城奪還は失敗に終わった。


上杉顕定としては一戦して葛西城を奪還したかったようだが、兵糧を強引に供出させたことで不満を持った国人衆に足利成氏より調略の手が伸びたようで、一部で寝返りなど不穏な動きが出た為、従っていた者達が顕定に退陣を強く迫ったらしい。


これにより顕定は何の成果も無く平井城へ引き返していったが、供出させた兵糧を返す事もしなかったため、利根川沿いに所領を持つ国人衆の反発をより一層招く結果となり、急速に求心力が失われていった。

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