徹底的

エリー.ファー

徹底的

 失え。

 すべて忘れてしまえ。

 いいか、お前の視界に映っているのはなんだ。

 そう、お前の手とピアノだ。

 それ以外はすべて失くしてしまえ。

 消すのだ。

 ピアノと指だけがあり、脳も体もどこかに吹き飛んだと思え。

 それだけの世界だ。

 何も持ち込もうとするな。

 持ち込んだら最後、この世界はすぐに崩壊するぞ。

 愚かだ。そんな心など捨ててしまえ。

 そうすることでのみ、音は高く昇っていく。世界は次元の高いものへとたどり着く。

 音だけが自分を表現してくれているのだと思え。

 ここで外したら、自分は存在していないと思え。

 いいな、そうやって生きていくことで、ようやくお前の音は本物になるのだ。

 客はお前に興味などない。お前の価値などその指についている爪の垢ほどもない。音だ。音がすべてなのだ。その指がピアノを叩いてはじき出す音。それのみにこそ価値がある。

 勘違いをするな。

 お前が有名になることはない。

 この音が有名になるのだ。

 でも。

 それを音で表現するな。その思考や哲学はすべて内に秘めろ。

 音は常にその時、一番表現すべき色でなければならない。そこにお前はいらないのだ。

 お前は肉が詰まっているだけの、一つの悪魔的装置だ。感情もなく、心もなく、瞬きもしない、よだれも垂らさない、糞尿も垂れ流さない。

 文句も言わない、喋らない、息をしない。

 音の邪魔になることは何もしない。

 いいな。それがお前だ。

 友達は必要か。

 いらない。そう、なくていいものだ。そんなものは。

 家族は必要か。

 邪魔だ。音のためには雑味にしかならない。

 恋人は必要か。

 不要だ。無駄な時間を過ごすことになるただの過ちだ。皆、恋人を作ってすぐに後悔をするのだ。

 そうやって、自分を低く見積もらなければならないきっかけを生むことになる。

 あってはならない。

 一流や天才、巨匠、怪物。

 お前はそこに足を踏み入れるのだ。そのために生まれて、そのためにありとあらゆるものを犠牲にして佇む存在になるのだ。それ以外に、その肉体の使い道はない。それ以外に、その人生の意味はない。それ以外に、その命に輝きはない。

 分かったか。

 返事が遅い。

 分かったな。

 よし、それでいい。

 お前に肩を並べる者が現れて来た。お前と同じ歩幅で歩こうとする者たち、同じ速度で走ろうとする者たち、同じ感覚で弾こうとする者たちだ。

 そんなものはいらない。

 お前にとってではない。

 社会にとって必要ではないのだ。

 文化を担う存在は一人でいいのだ。二人、三人、四人。それで文化と呼べるか。一人の人間が血反吐を吐きながら支えるのが文化だ。分かっていない者たちは無視しろ。

 そいつらは仲間になるかもしれないし、ライバルになるかもしれないな。

 だが。

 捨ててしまえ。そんなものは。

 仲間は論外。ライバルなど、存在している時点でお前の才能、個性、独自性が唯一無二ではないことを示している。

 ライバルは、お前の未熟さを示す指標だと思え。そうやって蹴落とせ、蹴散らせ、蹴り殺せ。全員、潰して、お前が一番になるのだ。

 いいな。それがすべてだ。




 ただし。

 一つだけ、これだけは守れ。

 ビルエヴァンス。

 マイフーリッシュハート。

 この曲を演奏する時だけは。

 今まで捨てて来たすべてを手に入れ、かつ、一度もピアノに触れることなく終わる自分の人生を想像しろ。

 そして。

 ありもしない思い出をゆっくりとなぞれ。

 あぁ、そうだ。このコンクールの最後の曲だ。

 お前は世界一になれるんだ。

 行ってこい。

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