きつねと赤い実
そらきめぐむ
きつねと赤い実
一日目。
「……きつねは……食べて……」
遠くかすかに聞こえる子どもの歌声。雲一つない晴れた空。すべてが、のどかだ。
いや、ぼくだけ違うな。
上司の大きな怒鳴り声。でも、ミスをしたのはぼくじゃない。
同僚たちのひそひそ話。ぼくを役立たずと思うなら、直接言えってんだ。
言えない言葉がいくつも重なっていた。
心だって、風邪をひいて熱を出すことがあっていいはずだ。そんな理由で、平日の昼間、場違いでのどかな世界にぼくはいる。
目的もなくぶらぶらと歩くうち、たどり着いたのは小さな神社。これまた場違いかもしれない。ぼくには願い事も日々への感謝もないのだから。
神社の境内で、座るのに手頃な石を見つけて腰掛ける。何もすることがないので、手持ち無沙汰だ。地面に置いた手が、無意識に不規則に動く。
ふと、手に何かが触れた。見れば、小指の先ほどの大きさの赤い実だ。近くの植え込みから落ちたのだろう。いくつも落ちている。つまみあげて眺める。むしゃくしゃした気持ちに任せて、それを放り投げた。
当たったのは、石のきつね。胸の辺りが赤くなる。
一つ、二つ。
三つ、四つ、五つ。
すべてきつねに命中して、赤はさらに広がった。あちゃー、やり過ぎたか。
慌ててきつねに駆け寄り、色を落とそうとした。赤い色は、手でこすっても全く落ちない。まずいな。
でも、なぜか不思議とほっとした気持ちにもなっていた。
胸を赤く染めたきつねが、心から血を流しているように見えて、傷ついたぼくらは同志だと思えたのだ。
二日目。
赤くしたきつねが気になり、また神社にやってきた。
ぼく以外に誰も訪れる気配のない境内に、きつねはひっそりと立っている。
傷ついた同志を独りで放っておくわけにはいかないだろう。それを傷つけたのも、ぼくなわけだが。
近づくと、きつねの足元には一やまの赤い実が置かれていた。実の下に敷かれていたのは、ノートの切れ端。文字の練習帳かな。大きなマス目の真ん中に、十字の点線が入っている。そのマス目に沿って、鉛筆でこう書かれていた。
——あかいみ、もっとどうぞ。——
もっとどうぞって……赤い実をもっとぶつけろって?
よくないことは駄目だと言われるからやりたくなるわけで、どうぞって言われるとなあ。少し戸惑う。
でも、無視するのもなあ。ひょっとしてひょっとすると、きつねからの要求かもしれないし。
ぼくの勝手な都合で物をぶつけてしまったという罪悪感と、神聖な空気の中では何か不可思議が起こるかもしれないという畏怖がごちゃまぜになって、そのまま立ち去るのは気が引けた。
ぼくはちょっと考えて、実をいくつかつまんで潰した。親指と人差し指の先が赤くなる。人差し指できつねの顔をなぞる。きつねは頰を染めた。
さすがに、ぶつけるのは申し訳ないので、やめた。代わりに、実を次々に潰して、きつねに塗っていく。化粧を施すように丁寧にやった。
全部の実を使い切ると、きつねの血色はいくらかよくなって見えた。
ぼくが赤く傷つけたきつねは、少し元気になってくれたような気がした。
三日目。
赤いきつねは、まだ赤いままだった。音という音が消えている境内で、きつねとぼくはしばらく見つめ合っていた。
この赤、ずっと落ちないのかなあ。すべて自分がやってしまったことの結果なわけだが、自分ではないものの力で、すべてなかったことになってほしいような。けれども、すべてなくなってしまうのももったいないような。
今日は、何の要求も来ていなかった。じゃあ、昨日のぼくの行いは、あれで正解だった、ということでいいんだろうか。とりあえず、苦情や不満も来ていないのだから、よしとしよう。
じゃあまた、ときつねに別れを告げて、歩きだす。
神社の入り口で、二人の小学生とすれ違った。二人ともランドセルを、ガタガタとにぎやかに鳴らしている。
「赤いきつねと緑のたぬき〜
きつねは、赤い実食べて真っ赤っか〜
たぬきは、緑の葉っぱで緑まみれ〜」
「また、変な歌、歌ってらあ」
「でも、ほんとに赤くなったんだよ、今から見せるから」
ぼくは、そのまま神社から遠ざかった。
きつねと、きつねとたぬきの歌と、二人の小学生のことを思いながら歩いた。
もしかして、ぼくの行いは、あの二人の役に立ったんだろうか。
彼らが、赤いきつねの前で、さらに仲よくなれる未来を願った。
四日目……は、ないな。
会社に行こう。心の風邪は、もうきっと治るから。
ガミガミ上司や嫌味な同僚の役に立つより、あの小学生らの役に立てていたのなら。そう考えたら、心は軽くなった。それはとっても素敵なことだろう。
何よりも、こんな自分も知らない誰かの幸せを願えるのだと気づけたことが、ぼくはうれしかったんだ。
きつねと赤い実 そらきめぐむ @meguaosora
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