Stray Life
@ayukawa_jijin
Stray Life
住宅が立ち並ぶ通りから一本奥の路地を入ったところには、大衆居酒屋や床屋、八百屋、銭湯、昔ながらの煙草屋などがある。
私はその煙草屋の店先のベンチに座り色々な人たちを観察するのが好きだった。そこそこ年を取ってきていてあまり動きたくなくなっていたし、時間は有り余っていた。
朝はサラリーマンがスマホを見ながら慌ただしい足取りで通って行き、八百屋の主人が元気に挨拶をしながら店を開ける。
昼間は主婦たちが立ち止まって談笑し、夕方近くなると学生たちが大きな声で笑いながらカバンを振り回して歩く。
煙草屋ではちょっとした駄菓子も売っていたので、学校が終わると子供たちが百円玉を握りしめて駆けてくる。そして子供たちは小さな手を伸ばし私に挨拶してくれる。
夜は居酒屋の客で騒がしく、電柱の陰で嘔吐したり道路に寝転ぶ酔っ払いを介抱する人がいたりした。夜の十一時に銭湯が、十二時に居酒屋が閉まると通りは静けさに包まれる。
夏が終わり金木犀の匂いが漂い始めた。私は目を細めてその匂いを楽しむ。朝方は少し涼しくなってきたようだ。夏真っ盛りはこの暑さが永遠に続くような気がしたのに、季節はちゃんと廻っていく。
煙草屋はあまり儲かっているとは言えなかったが、いつも煙草を買いに来る常連のお客さんは何人かいた。
その中の一人、床屋の店主である安浦さんは毎日きっかり昼の一時半に来て「ホープ二つ」と言う。かなりのヘビースモーカーらしい。煙草屋のおばあちゃんは安浦さんに世間話をふるのだが、安浦さんは口数が少ないためいつもほとんど一方通行の会話になっている。おばあちゃんはそんなこと気にしていないようで煙草を渡しながら「今日はいい天気だね」とか「もう昼間もあんまり暑くなくなったねえ」などと話しかける。
しかしある日、一時半を過ぎても安浦さんが来なかった。私がベンチで過ごすようになってから初めてのことだ。私は少し心配になったが、まあこんなこともあるのかもしれないと思うことにした。おばあちゃんはいつもと変わらない様子で窓口に座って画面の小さなテレビで刑事ものを見ていた。
けれど次の日もその次の日も安浦さんは来なかった。さすがにおかしいと思って私は床屋の方に歩いて行ってみることにした。床屋は閉まっていて、降りているシャッターには何やら張り紙がしてあった。
安浦さんに何かあったのだろうか。とても心配だったが私はそれを誰かに聞く術がない。いつものように人が通り過ぎていく路地の中で、私に向かって挨拶をしてくれる人は何人かいたが、私は安浦さんのことを何か知っているか聞ける人が一人もいない自分がひどく孤独に感じた。こんな気持ちになるのも初めてのことだった。
安浦さんは無口で無愛想だが、お店には毎日お客さんが来ているようだったし仕事ぶりも人柄も近隣の人々から信頼されていたと思う。
それなのに煙草屋のおばあちゃんも八百屋のご主人もサラリーマンも主婦も学生も子供たちも酔っ払いも、誰も安浦さんがいないことにまるで気付いていないかのように見える。それがとても寂しかった。私はこの路地に来るようになって人々や居心地のよさが気に入ってここで過ごすようになったのに。
ここに来るまで色々な町を転々とした。私が生まれたのは東京の下町だった。兄弟が三人いた。けれど父は交通事故で、母は病気で早くに亡くし、兄弟とは離れ離れになってしまった為私は人生の大半を一人で過ごしてきた。
病気にかかり道端で倒れてしまった時はもうこれで私の生涯も終わるのだろうと思った。しかしそこをたまたま通りがかったおじいさんが私を車で病院まで連れて行ってくれ、私を自分の家に上げて献身的に看病してくれた。おかげで私は命を取り留めた。
おじいさんには家族がいないようで、私たちは似たもの同士だと思った。おじいさんと私はこたつに入ってテレビで相撲を見たり、縁側でお茶を飲みながら庭の木や花を愛でたり、一緒に昼寝をしたりした。
私はおじいさんのぼうっと遠くを見る目や、線香の匂いや、寂しそうに曲がった広い背中が大好きだった。
だがそんな日々も長くは続かなかった。ある日おじいさんが起きてこなくて、ずっと起きてこなくて、お腹が空いても、こたつに誘っても、揺すってもおじいさんは返事をしなかった。近所のおばさんが回覧板を届けに来たときに、私はおじいさんの様子がおかしいと訴えた。するとおばさんが家に上がってきて、おじいさんを見ると慌ててどこかに電話をかけた。やがて救急車がやってきておじいさんを連れて行ってしまった。家の前には心配そうな顔をしてひそひそ話す人たちが何人か出てきていた。
それから私は二度とおじいさんに会うことはなかった。
私は家でおじいさんの帰りをずっと待っているつもりだった。けれどお腹が空いて、このままだと死んでしまうと思って外に出た。おじいさんの家の近くにいれば、帰ってきたときすぐにわかるだろうと思った。
幸い、回覧板を持ってきたおばさんが私のことを心配してご飯をくれた。おばさんにご飯をもらいながらずっとおじいさんのことを待っていたのだけれど一か月経ってもおじいさんは帰ってこなかった。
ある日外を歩いているとおじいさんの家に人が入っていくのが見えた。おじいさんが帰ってきたのかと思い急いで家に帰ると、そこにおじいさんの姿はなく、男の人が二人いるだけだった。男の人たちは私を見て、
「桜井さんはもう帰ってこないんだよ。この家もなくなるんだよ」と言った。
すぐには意味がわからなかった。知らない男たちに家を追い出されることにも苛立った。でもご飯をくれるおばさんも涙ぐみながらおじいさんがもう帰ってこないと私に再三言った。なんでみんな私に意地悪を言うんだろう。私も涙が出そうだった。
しかし男の人たちが言った通り、大きな車が来ておじいさんの家は青いネットに包まれ、取り壊されていった。
私は呆然とした。あの縁側も、一緒に昼寝した畳の部屋も、おじいさんが大事にしていたものも全部知らない人たちに壊されてしまう。
私にはどうすることもできなかった。
ただ見ていることしかできなかった。大きな声で叫んでも、誰にも聞いてもらえなかった。
私は堪らずその町を飛び出した。
どこか遠くへ行こうと思った。誰も知らない町へ。そして全てを忘れてしまおう、そう思った。
何個目かの町で家族がいたこともあったし私の子供も生まれたが、結局私は一人で生きていくことを選んだ。救急隊に運ばれていったおじいさんの姿がちらつき、また大切なものを失うのが怖くなってしまうのだ。子供たちが今どこでどうしているのか私は知らない。
一つの町に長く留まることはなかった。
けれど段々年を取ってきて移動に疲れるようになってしまった。少し一休みしようと思ってこの路地の煙草屋のベンチに座った。うとうとしていて気が付くと日が暮れていた。
煙草屋のおばあちゃんが私に気づくと店の奥に入り、ご飯に味噌汁をかけたものと水の入ったお皿を持ってきてくれた。数日ぶりのご飯で、私はあっという間にそれを平らげた。
食べ終わって顔を上げ通りゆく人たちを眺めていると、ここで死ぬまでこうしているのもいいかもしれないと思っている自分がいた。なんだかこれまでになく気持ちが落ち着いていた。
それから私はこれまで煙草屋のベンチでほとんど一日中座って人々を眺めている。
今思えば、おじいさんと安浦さんはどこか似ている。
口数が少ないところも、後ろ姿も、白くて短く整えられた口ひげも。
そうか、おじいさんに似ているから、おじいさんのようになってしまうんじゃないかって、それで安浦さんのことがこんなに心をざわつかせるんだ。
その次の日の月曜日、一時半に安浦さんは煙草屋にやってきた。私は安浦さんの姿が見えた時すぐに駆け寄った。「無事でよかった」「どこに行ってたの?」「帰ってきてくれて嬉しい」もちろんそれらの言葉は安浦さんには届かない。けれど私の様子がいつもと違うことはわかってくれたようで、私の頭をそっと撫でてくれた。私はおじいさんに撫でられたときのことを思い出し、安浦さんが帰ってきてくれた喜びも合わさって胸がいっぱいになった。
「ホープ二つ、それからこれ、お土産」
「あら、お帰りなさい。温泉どうだった?」
「久しぶりに羽を伸ばせて、行ってよかったです」
「温泉旅行プレゼントだなんて、いい息子さん持って良かったねえ」
私は安浦さんが温泉旅行に行っていたことがわかり安堵のため息が出た。
どこか悪かったんじゃなくて本当に良かった。
私がこんなに心配していたこと、そして今どんなにほっとしているか、誰も知らない。
野良猫にしては、私は恵まれていると思う。
これまでの町で、私の黒い姿を見て「不吉だ」と睨んだり、子供が私に触ろうとすると「汚いからダメ」と言われたりすることもあった。
でもこの路地に来てからそんな風に言われることはなく、人々との付かず離れずの距離感が心地よかった。
私はこれからもこの路地で人々を観察し続けるだろう。そして人々はたまに私に気づいて挨拶をしたり撫でてくれたりするだろう。煙草屋のおばあちゃんにご飯をもらって余生を過ごすのだ。
私は帰っていく安浦さんの背中におじいさんの姿を重ね、そしてやってきた眠気に任せて目を閉じた。
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