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しばらく反応はなかったけど、いることはわかっているので辛抱強く待つ。一分ぐらい経ってからようやく中から彼の声が聞こえてきてきた。

「はい、どなたです……」

 憔悴しきった、弱々しい声。

「隣の達川です。あの、ドライバーを貸していただきたいんですけど(ってとっさに考えた嘘)、持ってますか?」

 沈黙。大丈夫かしら? いきなり起き上がって、具合がさらに悪化しちゃってないだろうか?

「――あの、ちょっと風邪で熱があって寝てるもんだから、あとじゃだめですか……」

 ここが勝負の山だ。

「熱、高いんですか?」

 唐突に聞こえるかもしれないけれど、これが一番知りたいところだから、思い切ってたずねた。また沈黙。考えている。隣の変な女と関わりを持つべきかどうか迷っているのだろうか?

「けっこうあります」って彼が言った。

「39度以上はあるみたいです」

 ひどい高熱! 驚いてドアを開けてしまう。施錠されてなかったもんだから、いきなり彼と顔を合わせることに。佐伯くんは例のペーズリー柄のトランクスと、首がよれよれになったTシャツという姿だった。わたしは慌てて視線を自分の足下に落とした。

「あの……」と言って、じっと自分の爪先を見つめる。

「食べ物とか……」

 その先が出てこない。「食べ物とか飲み物とか、必要なものはないですか? わたしこれからそこのセブンイレブンで買ってきますから」って言いたかったんだけど。こうやって面と向かうと、急に大人しくなってしまうのがわたしのつらいところだ。別に心の中が饒舌じょうぜつだからって、実生活まで饒舌とは限らない。これも例の補償作用のひとつなのかもしれない。表に出せない分、内側に言葉が満ちていく。つまり、内気な人間のあるべき姿ってことなのかも。

「もしお願いできるなら」って彼が言った。嬉しい。ちゃんとこっちの気持ちを察してくれてる。

「レモン味の炭酸飲料を買ってきてもらいたいんだけど。飲み物のストックがなくなっちゃって……」

 わたしはそっと顔を上げると、彼の目を見た。ぎこちない笑みをつくってわたしを見ている。

「お腹は?」

 わたしが訊くと、彼は小さく首を傾げた。

「ヨーグルトぐらいなら。ああ、あと氷も買ってきてもらえますか? 身体を冷やしたいんで……」

「わかりました」

 急いで部屋に戻ろうとすると、「いまお金持ってきます」って言うから、「あとでもらいます」って言って、自分の部屋に駆け込んだ。ファーストコンタクト(本格的なって意味でだけど)としては、これが限界だった。これ以上会話を続けたら、息が止まりそうだ。

わたしはテーブルの上のトートバッグからビーズの小銭入れを取り出してカーゴパンツのポケットに押し込み、再び外に出た。彼の部屋のドアは閉まっている。ホッと息を吐いて、わたしは急ぎ足でセブンイレブンに向かった。


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