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                   *


 ところが、ところが――


 たったいま、隣の部屋のドアが開く音がして、耳を澄ませてみると聞こえてきたのは奈留Aさんの声。


 どういうこと?


 わたしは大急ぎで、DVDプレーヤーの消音スイッチをオンにした。メグ・ライアンの「恋におぼれて」を観てたところなんだけど、それどころじゃない。ああ、でもフェリス(どうしてもわたしは彼の名前を覚えることができない。たしかマシュー・ブロなんとか。わたしの中では彼はずっとフェリスのままだ)がいまちょうど隣のアパート(彼の元恋人が別の男と同棲してる)を天体観測の器具を使って本格的に「監視」し始めたところ。これからおもしろくなってくるのに。いや、でもそれはまたあとで観ればいい。


 髪をゴムバンドで束ねて、押入の中に身を入れる。すごしやすいように、車用のフロアマット(商店街の雑貨屋さんで激安で売ってた)を敷いて、大きな低反発クッションも置いてある。わたしはクッションの上に腰を乗せ、ハンガーパイプに掴まった。そっとフランクの穴に目を近づける。


 ちょうど、佐伯くんが部屋の中に入ってきたところ。少し酔っているみたい。いつもは漂白したような顔の色しているのに、今夜はちょっとピンク色に染まっている。彼は大急ぎで、畳の上に散らばっているトランクスや映画雑誌なんかを部屋の片隅に集めて、その上にハンガーから外したフライトジャケットを被せた。壁に立てかけてあった丸テーブルの脚を起こして、ベッドのない方の(つまり、こっち側の)部屋の中央に置く。どこからか手品のように座布団を取り出し、ぱんぱんと叩いてテーブルの脇に投げた。それからまたぐるりと部屋の中を見回し、ベッドの脇に落ちているティッシュペーパーに気付いて、慌ててそれをダッシュボックスの中に放り込んむ。あれ、たしか昨夜彼が放出したリキッドを包んでいるティッシュペーパーよね。危ない危ない。彼女が見たら、どう思うだろう? この生成の過程に、いくらかでも自分が関わっているなんて、夢にも思わないでしょうね。


 それからようやく佐伯くんが奈留Aさんを部屋に呼び入れた。


 現れた彼女は、すでに泣き顔だ。マスカラが流れて黒い涙になってる。目のまわりをむやみにぬぐったのか、眉毛まで消えかけちゃっている。彼女は佐伯くんにうながされて、テーブル脇の座布団に腰を下ろした。奈留Aさんもかなりアルコールが入っているようだ。 


 佐伯くんはキッチンに消えると、レモン味の炭酸衣料を手に部屋に戻ってきた。彼の好物らしくて、かなりのストックがあるみたい。彼女が俯いたままでいると、佐伯くんはプルトップを引き上げて彼女に手渡した。奈留Aさんはひと口だけ飲んで、テーブルに缶を置いた。

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