始まりのロッカー

——駅のホームに足を下ろすと、動きが止まるほど冷たい風が全身を襲った。屋根のない寂れた無人駅。二センチ程積もった雪に小さく足跡がつく。電車の先端から顔を出す車掌に定期券を見せ、数段の階段を慎重に下った。同じような天候がここ何日か続いているため、歩道に積もる雪の下に調子のいい氷が潜んでいる可能性が高い。高校までの徒歩10分という短い距離でも、油断は禁物だ。

 それに僕はいつも始発に乗って登校するために、道にほとんど足跡が残されていない。後にこの道を歩く多くの仲間たちのためにも、ここは安全な通り道を開拓したいものであ……

 

 ザァァーッビタン!


 視点が、一気に低下を始めた。


——無事四回の転倒を経て、玄関前にたどり着いた。全身の白色を最大限落とし、校舎に入る。流石にまだ誰もいないかと思ったその矢先、下駄箱の前で小さく何かをしている生徒を見つけた。


「え、守永じゃん」

「お、おはよう、伊藤君」


 靴を脱ぎ、近づいて見ると、守永の足元にはガムテープと太い油性ペンが一つずつ置かれていた。


「こんな時間に来るなんて珍しいじゃん。もしかして伊藤君も、明日の準備をしに来たの?」

「明日の準備?」


 明日は……バレンタインか、と僕が思い出しているあいだに、守永は自分の下駄箱ロッカーを閉め、その扉に一切れのガムテープを貼り始めていた。


『守永 チョコ窓口』と書かれた、茶色の布ガムテープ。……なんだこれ。


「明日は何の日か、思い出した?」

「バ、バレンタインでしょ」

「伊藤君も、女子が他の男子とロッカーを間違えないように、窓口作っておきなよ」


 まず、窓口、って当たり前のように言うなよ。


「……よし、これでいっか」

「ちょごめんごめん、もう少し説明してほしい」

「もぉ、理解が遅いな」

「しょうがないだろ」

「あのですね、バレンタインにおいて一番悲しいことは、僕の元に来るはずだったチョコが間違って他の人の手に渡ってしまうことなんですよね」


 んまぁ、確かにそれは相当悲しいけどさ。


「それを防ぐために、自分のロッカーに自分の名前を張る作業をしていました」


 いや、そこまでする奴いないのよ。そもそも名前じゃないにしろ名簿番号が貼ってあるんだからさ、そんなに不安にならなくても……


「名前もあれば確実だろうが!」


 急にキレんなよ。


「まぁこれでとりあえず、チョコ入れてくれそうな場所には全部名前貼ったから……」

「何、下駄箱以外にも貼ったの」

「廊下の教材用ロッカーとか、放送部の当番でいつも座っている椅子とか」


 放送室の椅子はお前だけのものじゃないだろ。


「じゃあ守永はさ、今日何時からこの作業始めてるの」

      

 守永は落ち着いた様子のまますぐ横の掛け時計を眺め、


「他のこともやりながらだったから……五時くらいからかな」


 と答えた。約一時間前。ドン引きしている。ドンがつくほど引いている。というかそもそも普段電車通学なのに、どうやったらそんな早くにここまで来れ……と聞こうとしたその時、守永は物をすべて持って立ち上がると、


「しまった、教室に寝袋置いたまんまだ」


 と言い、走り去っていった。学校に一泊というまさかのフライングアンサーに僕はやはり、ドン引くしかなかった。

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