1.白の獣

 かつて、大きなわざわいがあった。英雄がいて、獣がいた。

 世界を焦土とせしめかけた魔術大戦、その果てに生み出された万象を滅ぼすための魔術機構──五柱術式。過去から未来へと流れる時間、あまたの命を併存させうる空間、巡る魂と魔力、そうしてそれら全てを結びつける因果律。世界を世界として安定ならしめる秩序そのものに干渉する術式だった。発動したが最後、時間や因果律をねじ曲げて生き物の存在そのものを無に帰する。そんな人智を超えたものを、敵対する国を滅ぼすためだけに使おうとした王がいた。相手の国を滅ぼすなどと生やさしい力ではない。純粋な滅びの力だ。そんな破滅の術式を制御しうる魔術師などそうはいない。発動しても収束できぬ。そう言葉を尽くした臣下の諫言は用をなさず、王の知識は浅かった。眼前に迫り来る敗戦の恐怖に耐えられなかった。ゆえに英雄が立った。

 ──英雄アスギリオ。

 現代魔術の祖とも謳われる言わずと知れた魔術の天才だ。アスギリオは王が強引に発動しかけた五柱術式を抱え込み、そのまま自らに封印を施した。時を止め、空間を隔絶し、因果律を絶った暗黒の中に破滅の術式ごとその身を投じたのだ。解式はなく収束もできず、寄贈したそれを無効化するにはそれしかなかった。それを可能にするものもまたアスギリオしかいなかった。そうして世界は守られ、今がある。

 アスギリオの傍らには常に獣がいた。英雄に付き従い、絶大なる力を振るった人ならざる魔のもの。人はその来し方を知らず、獣以外に正体を伝える言葉もない。けれど英雄とともに在った獣は、その意思を理解するだけの存在であったことは確かだった。アスギリオが自らの身をもって五柱術式を封じたのち、獣は封印にさらに鍵をかけたのだ。己の体を五体に裂いて命と体をつなぎ合わせ、たとえその身が死してもよみがえるよう存在をねじ曲げた。長き時の果てに封印がほころぶことのないよう、守り続けた。五体の獣は魂を天に返すことなくただ、封印と英雄のそばにあり続ける。黒、白、赤、黄、紫の五色を冠した獣が守る封印の場所、五門。この世界の安寧と均衡を守る場所。五柱術式が放たれれば世界は滅ぶ。ゆえに人は封印を守らねばならない。それが世界にあまねく伝わるわざわいと英雄と、獣の話。

 そうして今、イチカの眼前にその獣がいる。

「あの、大丈夫……?」

 灰白色の双眸が困惑をはらんで揺れた。

「……ああ。改めて、イチカ・ラムダットファン・ローだ」

「よろしく。俺のことは好きなように呼んでよ」

 なつっこい笑顔を浮かべる相手はイチカと変わらぬ年頃の青年。純白の髪と灰色の瞳はどこか人形めいて人目を引く。イチカは無言でカップを渡した。男の一人暮らしに来客用の食器などない。台所から発掘した、妙に可憐な花柄のカップだ。旧友がどこだかの土産に買ってきたように記憶している。

「お構いなく」

「俺が飲むついでだ」

「あはは、意外と強引」

 軽口をたたく相手に、いいから飲めとばかりに押し付ける。一度ため息を吐き出して茶を含めば、思いのほか喉が渇いていたらしい。一口が二口になり、気づけば飲み干していた。突然降りかかった現実があまりにも重かったせいだろう。こらえきれずにもう一度ため息がこぼれ出でた。眼前の青年は身じろぎ一つせずに座ったままイチカを見つめている。無礼を承知でまじまじと見てみれば、髪だけでなく眉やまつげまで白いのがわかった。目の色はやや黄みがかった灰色で、穏やかな光をたたえている。この秀麗な顔の本性が獣だというのがどうにも信じられず、イチカは眉をひそめた。

「俺の顔、何か変?」

 旧知の友人に対するような言葉遣いは不思議と不快ではない。

「いや何も……、というのは嘘になるな。見慣れない色彩なのと、到底獣には見えないのとでつい見ていた。すまない」

「この国、黒髪の人ばっかだもんね。下調べすればよかった」

 変装もせずそのまま来てしまったと青年は気分を害した様子もなくけろりと言って、左手を持ち上げた。

「俺は正真正銘獣だよ」

 左の手首をくるりと一回転させると何もない空間に陽炎のような歪みがたなびいて、次の瞬間には青年の腕が猛禽の足に変貌していた。イチカは息を呑む。腕全体が鈍色の鱗に覆われ、指は湾曲して鋭い鉤爪が伸びている。肩周りは純白の羽毛に覆われて衣類との境がわからなくなっていた。

「まぁ、ほとんど鳥だけど」

「いや嘘だろ」

 思わず口をつく。こんなことがありうるものか。いくら魔術が世界を支えているといえどこうも軽々に人の姿を変えられるなど聞いたことがない。魔術は万能ではないはずだ。

「本当だよ。魔術で本質を変えることはできない。だから人を猫にすることはできない。つまり、俺の本性はこっちでもあるってこと。ね? 獣でしょ?」

 軽い口ぶりは変わらない。そしてもう一度腕を振れば、何事もなかったかのように人の姿が座っていた。イチカの眉間のしわが深くなる。とんでもないものを目にした、という事実に頭がついていかない。

「その身長で目つきまで悪いと普通に怖いよね」

 けらけらと青年が笑う。

「初対面の人間に向かってずいぶんな言いようだな」

「嫌だったらやめるよ。俺もあんたがどんな人間なのかわからないからさ」

 どう言葉を選べばいいのかわからないと苦笑して見せた。そしてふいに、沈痛な面持ちでつぶやく。

「いきなりこんなことに巻き込んで、悪かったと思ってる」

「……どうせ当たるなら、富くじが良かった」

「あはは、同感」

 イチカのぎこちない軽口に青年が笑った。




 それは何の変哲もない、いつもの平日。月末に向けて会計報告の書類が数を増してきたことくらいしか特筆することもない。そういえば初夏の日差しが強くなってきたなと空を見上げたような気がする。だがそれだけだ。そんな昨日と変わらない今日が、一変した。出勤するなり直属の上司に師団長室へ行けと指示され、委細を知らされぬままに衛戍の最高責任者の部屋へと送り込まれた。今日は未処理の会計書類と西方視察団の予算請求と傷病兵への見舞金の計算に片をつけようと思っていたのに、直帰していいとの言葉まで添えられたことにイチカは困惑を振り払えない。

「エヴェリエ中将閣下。イチカ・ラムダットファン・ロー、参りました」

 ずいぶんと場違いなところに送り込まれたものだと思いながら、眉一つ動かさない衛兵に促されてその部屋へ足を踏み入れる。深い紫色の毛氈が敷かれた部屋は広く、調度品はどれも飴色に磨き上げられている。身を屈めなければ大抵の扉をくぐれないイチカのはるか頭上に天井があって、等間隔に並んだ窓も見上げる高さだった。紗のカーテンの隙間から風が入り込んで、床の上にちらちらと光を散らしている。

「待っていたよ。ラムダットファン君」

 部屋の最奥にたたずむ白髪の老爺がイチカの入室を知って振り返った。古傷の状態が芳しくなく、ここしばらく姿を見ていなかった衛戍の責任者だ。青年は緊張の面持ちで敬礼をする。至近距離で顔を合わせるのは着任のとき以来だろうか。穏やかな表情で丁寧な答礼をする彼は、祖国防衛戦争で英雄と呼ばれた男だった。軍服の胸元に飾られたいくつもの勲章がその栄光を物語っている。襟と袖口には階級を示す複雑な模様が縫い取られ、折り返しの色は深い青。

「君のことは覚えている。特別背が高かったからね」

 物々しい装いとは裏腹の静かな声音でそう言って、エヴェリエはイチカに椅子を勧めた。

「失礼致します」

 部屋の中央には軍議の際に使用されるのであろう十二人掛けの円卓があり、そこに整った身なりの男が四人と白い青年が一人座している。見慣れぬ色彩に目を奪われたが、整っていながらも表情の抜け落ちたまなざしに何とも言えない不安を煽られて、イチカは意識的に青年から目をそらしながら勧められた椅子に腰を下ろす。ちょうど白い青年の向かいあたりで、恐らく彼がこの呼び出しの理由なのだろうと漠然と思った。ゆったりとした足取りでエヴェリエもまた円卓につく。少しだけ右足を引きずっていた。衛兵が窓を閉めて錠をかけ、退出していく。重い音とともに閉められた扉が場に奇妙な閉塞感を落としたようだ。

「我々は五門機関のものです」

 エヴェリエの紹介を待たず、対面に座る男の一人が口を開く。掘りの浅い、無表情な男だ。白い青年以外の四人は皆袖の大きな異国の服を身につけ、きれいになでつけた髪を結わえていた。イチカの感覚では三十の半ばといった程度に見える。左の手首にそろいの銀環がはめられ、衣服の胸元と同じ五角形に二本の鍵を組み合わせた紋章が描かれていた。

「イチカ・ラムダットファン・ロー。五門機関はあなたが新たな守人に選出されたことをご報告申し上げます」

 抑揚のない声。イチカは眉根を寄せ、隠しきれない不快感と疑念を目元と口元に同時に浮かべながらかろうじて言葉をつむぐ。

「お話が、見えませんが」

 遠くで調練の号令が聞こえる。部屋の空気がにわかに重くなったような錯覚の中で、男の周囲だけ光が翳っているように見えた。

「心中お察しします」

 そうは思っていない声で言って、男はイチカの言葉などお構いなしに話を続ける。

「かつて世界崩壊の危機が訪れた折、英雄アスギリオが自らの命と引き換えに五柱術式を封じ、世界を守る封印となしました。五門です。五門を維持するために守人がおり、獣がいます。ご存じの通り、守人はアスギリオに魂の形が似ているもの、獣が英雄の後継と見なすものを言います。先日、白の守人が亡くなりました。五門は守人と獣の双方がそろって初めて機能を果たすため、早急に次の守人を選ばねばなりません」

 一度言葉を切った。

「新たな白の守人が、あなたです」

 一度に処理できる情報量ではない。ましてイチカは魔術職ではないのだ。五門について一般教養としての知識も怪しい。守人に選ばれることがどういうことなのか、まったく知らない。むしろ守人という制度があることすら覚えていなかったくらいだ。これは面倒なことになると思った。エヴェリエの方を盗み見れば今は静観を決め込んでいる。

「選ばれる理由がわかりませんが」

 言いながら学生時代を思い出す。基礎魔術学はいつも赤点だった。あのころからこの五門だ獣だという話にはうんざりしていたのだ。世界を維持する封印だとか英雄の後継だとか、夢物語としか思えない話を誰もが真面目な顔で口にする。粘着質な気持ち悪さを感じて仕方がない。それはあるいは自身の体に魔術の才がないゆえのひがみなのかもしれないが、知ったことではない。ただ不愉快だ。

「理由はありません」

 男の平坦な声音にイチカは表情を歪める。形容しがたい不快感がまとわりつく。

「我々も知らないのです。守人を選ぶのは獣自身です。あれがあなたを次の守人だと申しましたので我々が派遣されてきた次第です」

 あれ、と呼ばれたのは白い青年であった。怜悧な面差しに獣の気配を見いだすことはできない。当人は表情を動かすことなくひたりとイチカを見ている。イチカの一挙手一投足を見逃さぬとでもいうような強い視線はしかし、今のイチカにとってはあまり重要ではなかった。

「面識はないはずですが」

「関係ありません。獣が本能で世界の中から守人を選びます。なにがしか、あなたに惹かれるものがあるのでしょう」

 そういう生き物ですからと男は人ごとのように言う。同行者であるはずの他の男たちは一切口を挟まず相づちも打たず、まるで置物のようにそこにあった。イチカは人目もはばからずため息をついた。

「お断りすると、どうなります」

「契約がなしえなかったということで、新たな守人を獣が選びます。守人を探し出すのには時間がかかりますので、場合によっては先に獣が死ぬかも知れませんが」

 男はあくまで淡々とした調子を崩すことなく、守人のいない獣は命をつなぐすべを持たぬために極端に弱るのだと言った。

「基本的に寿命はありませんが、大怪我をすれば死にますし、次の守人を選ぶまで体がもたなければ死にます。ほどなく次の個体が生まれますが、少し時間がかかりますね」

 イチカは青年を見た。平気で命を盾にするような物言いに喉元に嫌悪感がせり上がる。けれどあれなどと呼ばれ、契約を断られたら早晩死ぬなどと言われている最中だというのに青年は特に感情を浮かべてはいなかった。

 ──ああ、不愉快だ。

 衛戍の責任者まで借り出して訳のわからない話をされているだけでも腹が立つというのに軽率に死ぬの死なないのの話まで出てきた。イチカの沈黙をどう受け取ったのか、男はまた口を開く。

「一度交わした契約は破棄できません。あなたが死ぬまで、獣はあなたとともにあります。けれどそれに見合うだけのものをお返しするでしょう。獣はあなたに服従し、忠誠を誓い、その力を喜んであなたのために使うでしょう。あれの魔力量は一級魔術師をはるかに凌駕します」

 正気なのか、と思った。その言葉で本当に人を動かせると思っているのか。魔術師の師業所を開いたものがいたとか、転移魔術を応用して貿易で財をなした守人がいたとか、どうでもいい話が続いている。詐欺師の口車に乗せられているような心地がした。同時に、わざわざ衛戍に尋ねてきた理由もうっすらと察する。ちらとエヴェリエを見た。老爺は口元を堅く引き結び、射貫くような視線でもってことのやりとりを見守っている。そうしてイチカの視線に気がついて、わずか目元をゆるめた。

「君の一生を左右する話だ。よく考えるといい」

 穏やかな声音だ。少なくとも取り繕うだけの余裕はあるらしい。

「ここで即決するような話でもないだろう。相手の人となりを知ることも必要だろうし、今日はここまでにしよう」

 なだらかな声はしかし、五門機関の男たちに反論を許さぬ調子だった。

「君がどのような結論を出そうとも我々はそれを受け入れる用意がある。よく悩みたまえ」

 かくして、イチカは上司の言葉通り師団長室から直帰したのだ。五門の獣を名乗る白い青年を伴って。

「……疲れた」

 ここに至る半日を思い返して、イチカは盛大にため息をついた。

「そうだろうね。お疲れ様」

 曖昧に笑う眼前の相手が何を考えているのかわからない。特に否を唱えることもなくイチカの家まで同行し、ただ興味深そうに部屋の中を見回していた。茶のおかわりを入れながら青年がカップに手を触れていないことに気がつく。少し香りが強かったかと思いながら、喉を潤してイチカは口を開いた。

「どうして俺を選んだ」

 イチカには魔術の才能が無い。それはもう恐ろしいほどに一筋の魔力すらこの身に通ってはいない。それはこの魔術の時代にあっては就職に窮するほど致命的な欠落であった。ゆえに望むだけ無駄と割り切って、魔術の世界とは徹底的に距離を置いてきた。もっと言えば、関わりたくないと思いながら生きてきた。それなのにこの青年は自分を魔術の英雄の後継とやらに選んだという。理由があるのなら知りたかった。

「理由はないんだ。何となく、としか。誰かに呼ばれている感覚をたどった先にあんたがいた。それだけ」

 そうして五門機関が身元を割り出して衛戍に連絡を取った、ということらしい。何となく、でたどり着けるほど人間の数は少なくないはずだがと口にすれば、二年と少しかかったと言う。信憑性があるようなないような、なんとも言えない数字だ。

「俺が契約を断ると衰弱する、というのは」

「本当だと思うよ。今の時点で前の主が生きていたときの半分くらいかな、魔力は」

 イチカがたじろいだのを見てとって、青年は笑った。

「すぐに死ぬわけじゃないよ。次の主を見つければいいだけだし。それよりも、あの人たちが言ってないことがあるんだ」

 膝に置かれた手がためらいを示して握られる。イチカは黙してその続きを待った。

「俺が死んだら、あんたも死ぬ」

 紡がれた言葉を頭のどこかで知っていたような気がする。告げられた言葉が事実だと受け入れている。無意識に左胸に手をやった。非現実的な、すでにそうあるものとして組み上げられた「事実」を無遠慮に突きつけられる。それを「事実」と確信するだけの手段を恐らくイチカ以外の人間は持っているのだろう。魔力だとか魔術だとか、そういう領域の何かを。だが、イチカは持っていない。まったく納得できない。

 ──これが、いやなんだ。

 自分だけが世界から疎外されたような感覚。皆と同じ世界が見えていないという諦観。その果てに待っていたのが魔術の英雄云々とは、笑うに笑えなかった。

「俺たちは元々、アスギリオが作り出した獣なんだって。本当は命として存在することができないものを、英雄の魂を分けてもらうことで命になった。だから今も誰かに魂を分けてもらわないと命の形を保てない。それが、契約」

 青年が紡ぐ言葉は寝物語のようだった。ふわふわと地に足がつかない心地がする。イチカはその浮遊感に任せて問いかけを口にした。

「もし、俺が先に死んだら?」

「今と同じ。俺だけが生き残って、新しい守人を探す」

 俺だけが、と声がかすかに震えた。目を伏せる。どこか単調だった彼の感情の、少し深い部分が滲んだ気がした。イチカはぐいと茶を飲み干して、立ち上がる。

「腹が減った」

 火種を残していた炉に作り置きの煮込みをかけ、棚から黒パンを出して数枚を切り出した。温まった煮込みとともに机に戻るまで、青年は微動だにせずただそこに座していた。

「もし腹が減っているならお前の分くらいはある」

 言って、煮込みを口に運ぶ。安い肉を使ったせいで少々筋が気になるところだ。

「空腹時に大きな決断をすると泣きを見るぞ」

 へらりと青年が笑う。

「元々なくても平気なんだ。魔力で回せるから」

「便利だな」

 それ以上興味を示すことなく食事をするイチカの姿に青年は小さく首をかしげた。

「あんたは、魔術に興味がなさそうだね」

 大抵の人間は獣の実在に動揺するか高揚するか、なにがしか揺さぶられる。いくら放出量を抑えていても貯蔵魔力量が桁違いの獣は人間を圧倒してしまうのだと聞いた。それは魔力が半減している今もそう変わらないはずだ。だがイチカは最初に衛戍で顔を合わせたときからひとひらの動揺を見せることなく淡々としている。

「そもそも魔術は嫌いなんだ」

 思わず口にしてしまった本音に青年が目を丸くする。それを見てイチカは嘆息した。この件に関しては何もかもが気に食わないが、最終的には命がどうこう獣がどうこうではなく、魔術の価値観だけで話を進められているところが一番気に食わない。イチカはその価値観の外側にいる。

「魔術的価値などくそ食らえだ」

「でも、生きるのに魔術は必要でしょう?」

 青年はイチカの言葉を理解できなかったようだった。思わずイチカは笑う。

「素質は皆無だそうだぞ。適性検査官が驚いていた」

 どんな人間であっても多少は魔術に対する本能的な感覚のようなものを持ち合わせているとされる。それがイチカにはなかった。ゆえに、結局魔術に関する知識は中等学校の必修授業程度にとどまり、今も変わらない。青年が目を丸くした。

「本当に?」

「イプリツェの検査機関が間違えていなければな」

 首府お墨付きの魔術音痴、と友人に揶揄されたのはいつだったか。あまりにも魔術に対する反応が薄いために、わざわざ首府まで検査に行かされたのだ。検査の結果は散々な有様で、国立魔術研究所の機関紙に特異な事例として紹介されたほどだ。

「ちょっといい?」

 納得いかない様子の青年が立ち上がり、食事を終えようとするイチカの正面まで来る。なぜか、イチカには青年が小さくなったように感じられた。この家についた時点で彼はイチカの肩を少し越えるくらいの背丈だったような気がするのだが、今はそうは見えない

 ──気のせいか?

 よく見れば何となく面ざしさえも幼くなったように見え、どこか奇妙な感じがする。人の顔を凝視するような習慣はなく、気のせいだと言われればそれまでの小さな違和感だが、心の隅に引っかかる。

「何か感じない?」

 真正面に立った青年がイチカに尋ねた。おそらくイチカが今感じている違和感とは関係のないことを聞かれているのだろうことはわかる。

「いや、特に」

「じゃあこれは?」

 青年はそう言うが、イチカには何も感じられない。灰白色の双眸が大きくまたたいた。

「本当に? これでも?」

 おもむろに外で烏が鳴いた。それも尋常ではない様子で、数羽が騒ぎ立てる。イチカは驚いて窓の外を見ようとしたが、青年に止められた。

「これ以上は街中では無理だけど、どう?」

 表の烏がさらに騒ぐ。一斉に飛び立ったのか、羽音の数が非常に多い。断続的に犬の遠吠えと、猫のうなり声も混ざっている。夜馬車の馬が棹立ちにでもなったのか、御者が狼狽してなだめる声が通りに響いた。窓にはめ込まれた板硝子までもが小刻みに震えているようだ。

「待って、本当に? 嘘でしょ? 大丈夫?」

 ふっと音がやむ。今しがたの喧騒が嘘のように静寂が街を満たしていく。波が引くように動物の声は鎮まっていったが、青年は信じられないとつぶやいた。

「さっきから何をしているんだ?」

「意識的に魔力圧を上げた。かなりぎりぎりまで」

 魔術師なら気絶してもおかしくない。たとえ素養のない人間であっても耳鳴りや頭痛を覚えるのが普通だ。その証拠に本能的な危険を感じた動物たちは警戒して騒ぎ立てた。それなのに、イチカはそこで何事もなかったかのようにパンを食べている。青年が呆然とつぶやいた。

「そこまで鈍いなんてあり得るんだ」

「失礼なやつだな。人間が動物より鈍いのは当然だろう」

「いやいや限度があるでしょ」

 青年が思わずといった様子で笑う。屈託のない笑顔はやはり幼い。おそらくは無意識なのであろうその表情には、取り繕うようなそぶりも媚びるような色もなく、イチカはようやく彼の素顔を垣間見たような心地がした。

「特に面白い要素はなかったが」

「十分だって。こんなに魔術に無関心で、しかも鈍い人がいるとは思わなかったよ」

 存在が魔術と不可分の青年にとっては驚きを通り越して笑うしかない。自分に価値を見いださない人間は初めてだった。

「あんたは面白いね」

 守人となることは獣の魔力を手中に収めるのと同義だ。万金に目がくらむのと同じように、誰もが皆生き方を変える。ほぼ間違いなく。だがイチカは本当に興味がなさそうだった。

「成功とは言うが、お前の力であって俺が努力したわけでも何でもないぞ」

「そう思うのは多分あんただけだ」

 獣の力は、そういうきれいごとを吹き飛ばすに十分過ぎるほどの魅力を有している。その価値を本能的な部分で理解するのだ。

「わかりやすく喩えてくれ」

「俺一人で一級魔術師五人分は確実、と言えばわかる?」

「……政治的な価値ならな」

 その魔力量の人間を抱え込んでいる。その事実だけで領土争いを抱えた周辺国を交渉の卓につかせるには十分だろう。ましてユルハは突出した力を持つ魔術師に乏しい。突然それだけの魔力量が観測されれば情勢は塗り変わる。ようやくことの重大さを把握した気がしてイチカは長いため息とともに、乱暴に頭をかいた。わかってはいたが、逃れようのない面倒ごとだった。

 そうしてふとまた青年の年齢の印象が変わっていることに気づく。さっき一瞬幼く見えた面差しは今は二十にさしかかる程度に見えた。

「いくつだ」

 素直に年齢を尋ねる。

「正確には知らないけど……」

 わずかに眉根を寄せた青年は数を数えているようだったが、やがて十五か六と答えた。イチカよりも八つほど年下になる。まさかそこまで年の離れた相手だとは思ってもおらず、イチカは眉を持ち上げる。

「子供だったのか。てっきり俺と同じくらいかと思った」

「子供じゃないよ。人間と同じように年をとるわけじゃない」

 守人を一人しか知らないという意味では若い部類だとか何とかと言いながら、青年は子供と呼ばれたことに不満を見せる。

「子供と言われて怒るうちは子供だ」

 イチカは煮込みとパンを平らげ、空になった皿を洗い桶に放り込んだ。背後で青年が子どもじみた声を上げている。

「子供じゃないってば。あんたより年上にだってなれる」

「じゃあその姿は前の主の好みか」

 そういえば外見操作が可能だと五門機関の男も言っていたような気がする。

「違うよ。俺が頑張った。だってさ」

 ふわりと青年の表情がゆるんだ。大切な何かを思い出すようにわずか目を細め、彼女はと続ける。

「すっごくかわいいんだ。一生懸命でまっすぐで、きらきらしてる。目が暮れ始めの空みたいな紫で、きれいなんだ。だから、自慢したくなるような見た目にしようと思って結構頑張った。喜んでくれたよ」

 嬉しそうな表情は確かに子供のようで、無邪気な幼さを宿して見えた。ゆえにイチカはどう言葉をかけていいかわからない。少なくともイチカならその行為を喜ぶことはできないだろう。青年にとってそれがどれほど容易で大したことでなくても、自分を切り売りするような真似を喜ぶなどできない。まして子供だ。するとイチカの沈黙をどう受け取ったのか、青年が慌ててごめんとつぶやいた。

「いや、いい」

 イチカはさらに質問を重ねる。

「ほかの獣もそうなのか」

「わからない。会ったことないんだ」

「知らないのか?」

「うん。外の世界のことは全然」

 言葉回しに違和感を覚え、聞き返す。

「外?」

「前の主とその親はあまり人と関わってほしくない人でさ。旅行で遠出したことはあるけど、五門まで行くのはだめだった。ナナと二人暮らしになってからは家の外に出ないでって言われてたからずっと家にいたよ」

「……それはどうなんだ」

 眉をひそめるイチカを見ながら、青年はきょとんとした顔で首をかしげた。

「どうして? ナナの望みだよ?」

 イチカは言葉を失う。晴々としたその物言いに言い知れぬ不快感を覚えた。

「それはお前の望みじゃないだろう」

「ナナの望みが俺の望みだよ」

「そうじゃない」

 イチカの言葉に青年の表情が一瞬だけ曇った。何を言われているのかわからないようだ。

「俺は獣だから、主が嬉しいのが全てだよ」

「関係ない。お前が人だろうが獣だろうが、俺は同じことを言う。人の望みを自分の望みと思い込むな。それは全く別の話だ」

「あんたは、難しいことを言うね」

 困ったように青年が笑って、口をつぐむ。

「お前、契約しなくていいなんて言ったのは俺がいい顔をしなかっただろう」

 問えば青年はあっさりうなずいた。イチカは眉根を寄せる。

「俺のことは後回しだ。お前は生きたいのか死にたいのか。まずはそこからだ」

 契約を強要するとかしないとか、面倒を抱え込むとか、そういう煩わしい事情を取っ払った、素直な気持ちがまず聞きたい。そう言って立ち上がり、炉に火を入れる。青年に背を向けたまま薬缶をかけた。灰色の目が自分を追っているのであろうことがわかる。すっかり冷え切ったポットに足し湯をして茶を淹れた。

「……ごめん。わからない」

 イチカの言うところの煩わしい事情を排して、この問題を考えることができない。美しい思い出と記憶はすべて、主によってもたらされた。自分の意思が介在する余地がない。他の守人のことも知らない。ゆえに、守人抜きに己の生死を考えられない。

「楽しかった思い出や記憶は、持ってる。これで充分、おしまいにしていいってそう思ってた」

 その物言いに不穏を感じてイチカは振り返る。

「……ナナが笑ってくれた。それだけで、俺は充分だったのに。ナナだけの俺でいようと思っていたはずなのに。なのにあんたを、……見つけてしまった」

 消え入りそうな声がごめんなさいとつぶやく。その向こう側に確かにイチカへの思慕が滲んでいた。

「こうなるってわかってたのに、離れられないってわかってたのに、なのに……」

 一目会いたくて来てしまったと許しを請うように。何度も口にされるごめんなさいがイチカの胸に刺さる。

「それは生きたいと言うんだ」

「……」

 眼前の子供の姿に男は半ば衝動的に口を開いた。

「……契約のは、どうやるんだ」

 灰色の瞳が大きくまたたいた。

「契約、するの……?」

 青年が目に見えて狼狽する。今までにない悲痛な響きが、狭い台所に落ちる。

「俺に何かあったらあんたが一緒に死ぬんだよ?」

 ここまでやっておいてまだごねるのかと思ったが、相手は十五だか十六だ。おそらくどちらも彼の本心なのだろう。

「普段の生活も同じだろう。乗合馬車が崖から落ちたら否応なく巻き添えを食らって死ぬのと変わらない。人間、死ぬときは死ぬ。同居人が一人増えるくらいで俺の人生は変わらない」

 イチカの声は平坦だ。青年はくちびるを引き結んでイチカを見ていた。拳は固く握られている。イチカが手を取らなければ彼は死ぬのだと頭のどこかが理解し始めている。その不愉快さを押しのける感情があった。

「俺にも、救える命があると思いたい」

 ひどく静かな声でそれが理由だと言われ、青年は目をすがめる。

「この契約を断ってお前を死なせたら、それは間接的に俺が殺したことになる。それを運が悪かったとか何とか言ってごまかすのは嫌だ」

「それはあんたの落ち度じゃない」

 必死の声音を聞きながらイチカは両膝の上でゆるく手を組む。

「たとえば、だ」

 あまり人に吐露したことのない本音を口にする。それは、この青年がイチカのことを何も知らない気安さによるものかもしれない。

「道端で老人がうずくまって苦しんでいる。重篤な様子だ。医者を呼べば助かるかもしれない。医者を呼んでも助からないかもしれない。病気でも何でもないかもしれない。ひとの哀れを誘う乞食の小芝居かもしれない。そういう状況で、自分が呼ばなくても誰かが呼ぶと自分に言い聞かせて立ち去るようなことはしたくない」

「その医者を呼ぶために自分の命を預けるの?」

「人一人救えるのなら、賭ける価値はあるだろう」

 現実にはそうふるまうことはできず、何度も見捨ててきた。自分に何がしかの言い訳をして罪の意識を軽減させたとしても、それは間接的に人を殺すのと変わらない。そう思うことがある。

「思っていたよりも、理想主義者なんだ」

 青年の表情がゆがんだ。そこに宿る感情の色がイチカには理解できない。侮蔑か、哀れみか、それとも他の何かか。

「よく言われる。どう見えているのか知らんが、多少なりともよしみを持った人間の死を回避したいと願うくらいには人並みだぞ」

 表情豊かなほうではないという自覚はあったが、感情まで捨てた覚えはない。

「一度契約をしてしまったら、死ぬ以外に逃れる方法はないんだよ」

「それはもう聞いた」

「きっと嫌な思いだってする」

「人間生きていれば理不尽なんてごろごろ転がっている」

「俺のため、とかそういうのだったら、いらないから」

「言っただろう。俺にも救える命があると思いたいと。これは俺の都合でもある」

 青年は言い返す言葉を探しているようだ。イチカは長く息を吐き出す。わかった、と言って面を上げた。

「お前の意思を聞きたかったが、仕方ない。ここからは理想でなく現実の話をしよう。──正直な話、元々俺たちに選択肢なんてものはないんだ」

 灰色の瞳がイチカに理由を尋ねるようだった。

「契約をしなかったと判明すれば明日以降俺は拘束され、契約をするまで拷問にかけられるだろう。やり口は大体わかる」

 青年が瞠目する。

「契約をして人生を左右されるほうが、契約をしないで人生をめちゃくちゃにされるよりましだ。頼む」

 おそらくまだ中央政府は動いていない。エヴェリエと中央との折り合いの悪さを思えば今は老将の子飼いでいる方が安全だろう。

「拷問……? そんなこと……!」

「やるぞ。一級魔術師五人なら俺の腕の一本や二本平気で落とす。小指から順番にな。俺を傷つけられないのであれば近親者を使うまでだ」

 イチカの目は本気の色を宿していた。青年が気圧される。

「じゃあ、逃げてよ。俺手伝うよ。逃げようよ」

 契約をしていなくても転移魔術くらい使えると、青年は必死の形相だ。その表情の端々にやはり幼さが見え、イチカは場違いなことに少しだけほっとした。

「逃げてどうする。国家の重大機密を盗んで逃亡したと追い回されることになる。未開の地で行き当たりばったりに暮らしていけるような生活力はないぞ。逃げるにせよ何にせよ、準備がいる」

 間違いなく親族や友人に類が及ぶ。一人逃げるということは現実問題難しい。イチカは一市民でしかなく、人脈も金もない。わずかな蓄えは銀行だ。もし資産が凍結されていればそれすら引き出せない。

「とりあえずの日常を守って生き延びるか、いっそ殺してくれと思いながら生かされるか。二択だ」

 その二択ならイチカは自分の意思が残る前者を選びたい。そう言った。イチカの黒い双眸が青年を見る。

「俺はお前を虐げるようなふるまいはするつもりはない。ないが、もし十年後二十年後に俺が下衆な真似をするようなら、俺を殺して次の守人に賭けるという選択もあるだろう。そこはお前が決めていい」

 子供にする話ではないと承知しているが、言っておかなければならなかった。

「ないよそんな選択」

 即座に返される強いいらえ。今までの歯切れの悪さが嘘のような強い調子だ。

「俺は獣だもの。獣は守人を愛するためにいる。殺すわけがない」

 灰白色の双眸がまっすぐにイチカを見ていた。

 それは恋に似ている。獣は守人に焦がれ、世界を巡る。何年かかってでも見つけ出す。見出した主に虐げられたとしても、傍らにあり続けそしてまた次の主を求める。魂がすり切れてなくなるまでそうやって生きるのだと、そう続ける青年の言葉は不思議な響きを帯びていた。彼の向こう側に多くの感情が渦巻いているような、何人もの言葉が折り重なるような、そんな印象だった。

「……報われないな」

 青年はそういう生き物だからと、困ったように笑った。

「……契約しないでおしまいにすればあんたを苦しめないで済むと思ったんだ」

 青年が言った。何かを決意するには少し長い沈黙を、イチカはただ見守る。そうして顔を上げた青年は、青年ではなかった。イチカの気のせいではない。ちょうど十五か十六か、そのくらいの少年の顔。どこかあどけない中にまっすぐな意志をたたえている。

「でも、そうでないなら俺にできることをするよ」

 イチカの前に立つ少年は明らかにさきほどよりも小柄になっている。あるいはこれが彼本来の背格好なのかもしれない。少年はおずおずとイチカの手をとった。触れた瞬間に少しだけ肩が跳ね、おびえが顔をのぞかせたが、振り払うように首を振る。イチカを見上げる。臆することなく。

「引き返せないよ」

 イチカは浅くうなずいた。同時に少年の手のひらから温かな光が流れ込んでくる。瞳が人ならざる色をたたえているように見えた。凛と、声が響く。少年とイチカの髪がふわりと浮きあがる。少年のくちびるが言葉をつむぐ。まるで歌のように。

「汝が心臓を我が糧に。我が身のすべてを、汝がために。──あなたが世界を、望む限り」

 流れ込んだ光が、心臓に集約されていく錯覚。イチカの瞼の裏に光がまたたく。それは赤、黄、黒、紫と連なってやがて、真っ白にはじけた。意識に鮮明に焼きつくのは鳥の影。体が熱い。

「──イチカ・ラムダットファン・ロー。あなたが、俺の守人だ」

 澄白の光の中に、少年がいた。一瞬だけイチカの意識が暗転する。脳裏にぐるぐるとさまざまな風景がよぎった気がした。自分ではない誰かの記憶に翻弄されるような感覚。それはどこか懐かしく、喩えようがなく苦しい。自分が抱えた傷と痛みを人前にさらずようで、それでいて他人の絶望をのぞき見るようで息が詰まる。誰かがイチカの名を呼んだ気がした。

「……何というか、壮絶だな」

 どれほどの時間が経ったのかわからなかった。イチカは長い息をつく。魔術の才能はなく、幽霊のたぐいが見える体質でもなく、こういう非現実的な体験は初めてのことだった。

「魔術師の連中はこういう経験が日常なのか」

 何度か手を握ったり開いたりしてみる。自分の存在が一瞬揺らいだような、奇妙な感覚があった。確かに自分はここに存在するのだと無意識に確認したがっているらしい。

「ごめんなさい」

「何を謝る必要がある」

「俺が一人であんたに会いに来ていれば……」

「同じだな。ああいう連中を舐めない方がいい」

 イチカは肩をすくめた。

「さて、悪いが一度お開きにしよう」

 そろそろ疲労が頂点に達しつつある。明日はまだ平日だ。通常通り出勤し、今日残してしまった書類の処理を終わらせねばならない。加えてエヴェリエにことの次第を報告し、可能であれば今後の自分の生活について確認をしておきたい。非日常的な体験は確かに新鮮ではあったが、その感覚と自分の命の主導権を失ったことは直結して考えられず、頭に浮かぶのは明日のことばかりだ。

「ああ、そうだ。お前の名前」

 少年を呼ぼうとして、呼ぶ名を知らないことに今更に気がつく。

「何でもいいよ」

 与えられた名前は手放してしまったから呼びやすいように呼んでくれればいいと、当事者だというのに一向に執着がないらしい。言いたいことがないわけではないが、今その議論をするだけの頭が回らない。

「……わかった、何か考える」

 とりあえずそう言い置いて、イチカは眉間を指で押さえる。

「俺は明日仕事があるから昼間はいない。合鍵ができるまでは大人しくしていてくれ」

「わかった」

 イチカの長い一日がようやく終わった。




 遅刻すれすれのところを乗り合い馬車に無理やり体を押し込め、始業時間とほぼ同時にイチカは会計監査部の部屋に滑り込んだ。門からの全力疾走で体が熱い。荒い呼吸を繰り返しながら上着を脱いで椅子の背にかけ、タイをゆるめて大きなため息をついた。嫌な予感はしていたが、案の定寝坊だ。慌しく家を出てきてしまい、少年ともおざなりに一言二言をかわしただけだ。台所のものは好きに食べていいと言い置いたが、炉の使い方を教えるのを忘れてしまった。さすがに火事を起こすようなことはないと思いたいが、気にし始めると意識の片隅でちりちりと引っかき傷を作るようだ。すっきりしない頭をがしがしと乱暴に掻く。そのことといい、汗で張り付くシャツといい、不愉快な朝だ。

「ラムダットファン。中将閣下が今日もお前をお呼びだ。急いで行け。今日は特に急ぎの案件もない」

 そんなイチカの心情を知ってか知らずか、会計監査部部長のツヴェンが手元の書類から顔を上げずに言った。齢四十を越える男やもめの彼は基本的に人の顔を見て会話をしない。

「わかりました」

 イチカは呼吸を整えると、今しがた脱いだばかりの上着をもう一度羽織り、立ち上がる。汗がまだ引いていないが、構っていられない。

「行って来ます」

 ずいぶんと日差しが強くなってきた。中庭に面した柱廊を歩きながら、日向の影の濃さに夏が迫っていることを感じる。過ぎる風はかろうじて涼を感じるものの、いずれそうは言っていられなくなるだろう。

「エヴェリエ中将閣下。イチカ・ラムダットファン・ロー、参りました」

 昨日と同様、エヴェリエは窓際に立って営庭を眺めていた。紗のカーテンが風にゆらゆらと揺れている。愁いを帯びたまなざしが、イチカの来訪を知ってわずかに微笑んだ。

「すまないね。朝一番に呼び出して」

「いえ。問題ありません」

 老将はイチカに椅子を勧め、人払いをする。わざわざ冷茶をイチカの前に出してから退出していった男は副官だろうか。エヴェリエが、円卓に座すイチカのすぐ隣の椅子に腰を下ろした。極力声を張らないようにしているのが伺える。

「明朝からイプリツェへ出張でね。今日中に君に会っておきたかった」

 飲みたまえ、というエヴェリエの言葉に従ってイチカは茶を口にした。その冷たさに思わず長い息が漏れる。エヴェリエはそれをゆるりと眺めていた。そうして、口を開く。

「どうだったかね」

「すでに契約を済ませ、獣は自宅に待機しております」

「──君が賢明で、こちらも助かる」

「恐れ入ります」

 含みのある物言いだ。イチカは明確には答えなかったが、エヴェリエは満足げにうなずく。およそのことを察しているらしい。

「近いうちに彼の身分証の発行をするから手続きをしてくれ。レニシュチからの難民ということで、移民局から書類がいくと思う」

「レニシュチ、ですか」

「ああ。本国の書類が紛失していても不自然ではあるまい?」

 レニシュチは海向こうで十年前まで壮絶な内戦を繰り広げていた国だ。国内の民族同士が互いに互いを殲滅すべく虐殺合戦を繰り広げた。事なかれ主義の国際社会を動かしたほどのそれは、歴史上最悪の内戦と呼ばれて久しい。かろうじて停戦にこぎつけたとはいえ火種は数多くくすぶり、治安も経済もどうしようもなく疲弊しきっている。終わりの見えぬ混乱に各国は今なおレニシュチからの難民を抱えており、確かに身元を偽るには最適な国のように思えた。

「生活が落ち着いたら世帯変更届も出しておくといい。些末だが、補助金が出る」

 そう言ってから、会計監査部の人間に言うことではなかったなとエヴェリエが笑った。人懐こい好々爺の笑顔だ。イチカの心がほんの少しゆるんだ。

「お気遣い、痛み入ります」

「気楽にやりたまえ。今は他国との関係も落ち着いているし、君の仕事もそう忙しくなることもあるまい。慣れるまでは大変だろうが、あまり抱え込んだりしないようにな。何かあれば相談しておくれ」

 そう言ってエヴェリエはゆっくりと立ち上がる。そしてああそうだと声を上げてイチカの双眸をひたと見た。

「君たちのことは衛戍責任者の権限で特級機密に指定させてもらった。我々も慎重に動きたい。そこは理解してくれるかな」

 酷薄な光を宿した眼が有無を言わさぬ圧を放ち、すっと背筋が冷える心地だ。彼は救国の英雄であると同時に老獪な軍人なのだと突きつけられる。世代交代が進んだ中央政府との軋轢が増しているというのは本当らしい。イチカは無表情を保ちながら是と答え、師団長室を辞した。扉を閉め、歩きだすのと同時に無意識にため息が漏れる。まさかこんな形で鬼神のエヴェリエを目の当たりにするなどと思ってもいなかった。

 ユルハは建国からまだ四十年足らずの新しい国だ。独立を求めてユルハ独立将校団が蜂起、後年祖国防衛戦争と名づけられた長い戦いの末に領土をもぎ取った。だが、国境線はいまだ不安定で他国との小競り合いが絶えず、散発的に戦闘が起きる状態が何年か続いている。その対策として打ち出されたのが、魔術師の強化だった。人材発掘の手段さえ整えれば歩兵の育成よりも手っ取り早く、かつ効率よく他国を牽制できる。そういう方向に舵を切るなり守人の話が舞い込んだのだ。

 ──上からすれば願ったりかなったりだろう。

 イチカはおそらく、自分の立ち位置をかなり正確に把握しているのだろうと思う。今はまだ小康状態が続いているが、国境で戦闘が開始されれば前線に送られることすら覚悟せねばならないだろう。それは予想ではなく確信だった。やりきれない思いに、ため息がこぼれる。

「イチカ!」

 聞き覚えのある声がして首をめぐらせれば、廊下の向こう側に旧友の姿があった。

「ラーズ」

 イチカが足を向けるのと同時に相手も近づいてくる。黒髪を首に掛かるほどの長さで切りそろえた青年だ。痩せているわけではないが、イチカと並ぶと線が細く見える。

「やっぱりイチカは目立つな。はい、土産。砂漠名物、太陽の花だってさ」

 屈託なく笑って、青年が硝子瓶の中に入れられた一輪の花をイチカに差し出した。おとなしく受け取りながら尋ねる。

「今度はどこだ」

「アフタビーイェ。暑かったぜ」

 それは手のひらに乗るほどの大きさで、一見砂でできているように見える。実際は砂の中の鉱物が固まって花のような姿になったものらしい。

「どうして男の一人暮らしに不要なものを買ってくるんだお前は」

 イチカが呆れた声音を漏らす。イチカの家にあるかわいらしい雑貨のほとんどは彼が旅先で買ってきたものだ。

「いつもイチカに一番似合わないものを買うって決めてるから」

 満面の笑顔でそう言ってのける男は名をラズバスカという。中等学校時代からのイチカの友人で、今は小さな新聞社に勤めている。魔術職を志したものの夢破れ、今は魔術に関する記事の取材を中心に活動していた。仕事柄、国外へ赴くことも多い。

「今日はなぜ衛戍に?」

「アフタビーイェで色々仕入れたし、情報交換に」

「まだ諜報員まがいのことをやっているのか」

 イチカの表情が曇った。ラズバスカは答えることなくただ笑う。この国の魔術研究の中心は当然軍だ。ラズバスカは公式発表前の情報のおこぼれにあずかろうと頻繁に衛戍に出入りしていた。危ない橋を渡っているという自覚があるだけに一向にやめようとしない。

「ま、アフタビーイェは楽しかったぜ。さすが魔術立国。色々得るものがあったよ」

「そうか」

 それ以上興味を示そうとしないイチカにラズバスカは肩をすくめた。

「ていうか、イチカこそ注目すべきだと思うぜ? 術石の回路技術が進展すれば素養の有無にかかわらず魔術が使えるようになる」

 適性がないイチカでも、とラズバスカが笑った。彼はイチカが首府で精密検査を受けたことを知っている。

「どうだかな。あまりにも魔力が知覚できなくて笑われたばかりだ」

「本当、そこまで才能がないのむしろ才能だよな。魔術研究の被検体とか誘われなかった?」

「……勘弁してくれ。魔術に俺を巻き込むな。俺は昨日と同じ明日が来ればそれでいい」

「いやいや、絶対そうは思ってないでしょ。イチカ自分で言うほど安定志向じゃねえって」

 旧友の物言いにイチカは眉根を寄せる。

「大冒険なんかした記憶は無いが」

「向上心はあるだろ?」

「どうだか」

 それはお前のことだと思いながら、ふと思い当たることがあってイチカはラズバスカの名を呼んだ。

「ラーズ。もし子供の命名をすることになったら、どうやって決めればいいと思う」

「いきなりどうしたの。隠し子?」

「そんなわけあるか。事情があって身寄りのない子供を預かることになった。呼び名がいる」

 ぎりぎりで嘘は言っていないと思う。ラズバスカのことは大切な友人だと思っているが、それでも守人と獣のとについては到底口外できない。

「それでイチカが名親? 変なことに巻き込まれるなよ?」

 さすがにもう巻き込まれているとは言えず、イチカは曖昧に答える。ラズバスカはさして気にした様子も見せずに順繰りに指を折った。

「呼びやすさ、綴り、おまけで意味づけだろ。俺は守護聖人にあやかってラズバスカだけど、親も含めてだれも呼びやしねえ。綴りもよく間違えられるしな。イチカなんかいい名前じゃん」

「そういうものか」

「俺はそう思う、ってだけの話。でもひねりにひねった華麗な名前をイチカが真顔で子供につけてたらそれはそれで面白そうだけどな」

「お前は一言多い」

 どうもと言ってにっこりとラズバスカが笑い、イチカはため息をつく。

「……とりあえずは参考になった。礼を言う」

「それ絶対面白いからちゃんと今度話せよ」

「ああ」

 じゃあまたと言ってラズバスカはひらひらと手を振りながら歩いていった。イチカは心に小さなとげがささっているのを自覚しながら、それを見なかったことにして己の部署へと戻る。太陽がずいぶんと高くなっていた。

 サイスタの街はヘレ川の西のほとりにある。首府イプリツェには及ばぬものの、古くからある大都市だ。衛戍はヘレ川を挟んで街の東側に位置し、イチカは街中から乗合馬車で通っていた。衛戍の宿舎も考えなかったわけではないが、あまり人と交流するのが得意なたちでもない。少し離れたところにいる方が性に合っていた。執政府のある大通りから一本入った小路。こじんまりした二階建ての集合住宅だ。

 帰宅したのは日が傾く頃だった。商店は店じまいのしたくを始め、酒場などは客を入れようと街頭で呼び込みを始める頃合だ。ありがたいことに会計監査部は面倒な案件でも入らない限りは定時に帰れる。家では長椅子の上で白い少年が本を読んでおり、昨日からの一連の出来事がやはり夢ではないのだと改めて理解する。

「食べながら聞いてくれ」

 二人で使うには少し手狭な机の上に食事を並べ、イチカは衛戍でエヴェリエと話した内容を少年に聞かせる。

「レニシュチ?」

 身分証の話になって、少年はわずかに首をかしげた。今日はちゃんと食事に手をつけている。

「知らないか?」

「ずっと戦争をやっていた国だよね」

「そうだ。本国の記録が全滅しているから、旅券がなくてもお前の身分証が発行できる」

 イチカはパンに燻製を乗せ、ほおばる。

「身分証、もらえるんだ」

 噛みしめるような言葉を口にする。その表情にはかすかに喜色が滲んでいた。

「不思議だね。俺、ここにいていいんだって思える」

「前の守人のときはどうだったんだ」

「どうもなかったよ。近所には親戚の子供って言われてたし、働いていたわけでもないから何か手続きをした記憶はないな」

 少年がイチカの真似をして燻製とパンとを食べる。あまり褒められた作法ではないが、燻製の塩気がちょうどいいのだ。

「多分、ナナの親が拒否したんだと思う。契約自体、とても嫌がっていたから」

 獣の存在を周囲に気取られぬよう神経を使っていたという。

「十六だったか」

 確かにその年頃の娘を持つ親ならばそれなりにまっとうな判断と言えるだろう。だがイチカは子供ではない。軍属の男で、しかもユルハは多くの火種を抱えている。積極的に囲い込んで監視を強めようとしているのだろう。そのための身分証だ。それを無邪気に嬉しいと言われてイチカは身の置き場に困る心地がした。

「……もしかしたら、今後騒がしくなるかもしれん」

 かろうじて告げたイチカの言葉に少年は浅くうなずく。

「それから」

 ほんの少しだけ語気を強めたイチカに気づいて、少年が面を上げる。

「スノウ、でどうだ。名前」

 呼びやすい音を連ねただけの、特にこれといってひねったところのない短い名だ。

「イチカがそれでいいなら」

 じろりとイチカが少年を見る。

「お前はどうしたい」

 その言葉に男の意図を理解したようで少年は言い直した。

「ええと、文句ないです。スノウでお願いします」

「俺に任せるとか俺がいいならとか、そういうのはなしだ」

 自分の言葉で意思表示をすること。それをこの家で暮らすうえでの決まりごとにすることにした。意思表示がなければすりあわせることもできない。

「今はまだいい。追々慣れていってくれ」

「どうしてそう、難しいことを平気で言うかな」

「お前が楽なほうへ流れようとするからだ。自分で考えて自分で決めろ。悩むなら悩め。それが健全なありようだ」

 言いながらイチカは今しがたスノウという名になった少年の皿にパンを二切れ追加する。スノウはそれをじっと見て、そしてイチカを見た。何か言いたげであるが、イチカは聞いてやらない。

「獣は守人に絶対服従する生き物なんだけど」

 わずかに抗議めいた声音であったが、イチカは意に介さなかった。

「俺は貴族でも何でもない。忠誠心なんかいらん。お前なんてただの居候だ」

 ──居候。

 自分で言っておきながら、イチカはすとんと何かが納得した気がした。

「主だの服従だの小難しい言葉を弄するからややこしくなるんだ。お前は居候。俺が家主。協力して平穏な日常生活を守る関係。充分だろ」

「ただの居候に命を預けるの?」

「ずいぶんこだわるな」

 イチカは小さくつぶやき、食事を終える。スノウはまだもくもくと食事を続けていた。軍属の常でイチカは食事を迅速にとるよう習慣づけられているから余計に遅く感じられるのかもしれないが、どうやら食べるのが早くはないらしい。イチカが食事を終えたのを見て焦る様子を見せたのを押しとどめ、イチカは茶を淹れる。

「その話もできるだけなしにしてくれ。俺がお前に望むのは、まっとうな人間として普通に生きることだ。それだけでいい」

 スノウはイチカの黒い瞳を臆することなくまっすぐに見た。灰色の瞳に心のうちを見透かされるように思うのは、イチカ自身が抱えた負い目のせいだろうか。彼を虐げることなく、虐げさせることなく日々を重ねていくことで、誰かを救ったと思いたいのだ。

「がんばってみる」

 ゆっくりとつむがれた言葉に、イチカが笑んだようだった。

「そうしてくれ」




 今日は寝過ごすことなく起き出して、イチカは仕事に出かけて行った。紺色の軍服は折り返しが青で、金の縁取りはついていないもののエヴェリエが身につけていたものとほとんど同じだ。略式のタイを締め、いかめしい軍靴を履いたイチカは身長もあいまって、ずいぶんと威圧的な印象だった。

「子供が泣きそう」

「気にしているんだ。やめてくれ」

 日暮れには帰ると言い置いてイチカが出かけてしまえば、当然家の中にはスノウが一人で残される。

「懐かしい、気がする」

 思わずつぶやく。五門機関にいる間は常に傍らに誰かがいて寝台の中以外に一人になる場所はなく、誰かを一人待つなどということもない。留守番は久しぶりだった。前の主と暮らしていた頃は家のことをして彼女の帰りを待ち、二人で食事をしながらたくさんの話を聞いた。仕事のこと、魔術のこと、これからのこと。それが当たり前の日常だったのに、いつの間にか遠くなっていることがどうしようもなく寂しく思われた。

「……スノウ」

 ふと、昨日与えられたばかりの名を口にしてみる。飾らない名だ。それがイチカらしいといえばイチカらしいような気もする。

「スノウ」

 早く慣れようと何度も何度もその名を呼ぶ。自分のことだと認識できるように。それは同時に、新しい主を選んだのだと否応なく自分に言い聞かせる行為でもあった。拭いようのない罪悪感が膨らんでいくのを止められない。

「……ナナ」

 前の主はナナ・セシュカといった。蜂蜜色の髪と菫色の瞳の愛らしい少女で、両親にも友人にも恵まれたごく普通の、幸福な娘だった。努力家で人に優しく、公正で一途な、きらきらした少女だった。

 ──たくさん楽しいことをしよう。

 そう言って、色々なところへ行った。夏には避暑のために海に行き、冬は山を越えて星を見に行った。春の花も秋の日差しも、いつも彼女のまわりできらきらと光を放つようだった。だから、彼女のための自分であろうとした。彼女の隣にふさわしい自分でありたかった。

「星、きれいだったな」

 天文台が流星群が流れると発表したのだ。魔術に必要だからと秘されてきた空の事象がちょうど一般に開放され始めた頃で、冬の空に星が流れると聞いてナナははしゃいだ。両親の許可を得て二人、街外れの丘まで行って毛布にくるまり、スノウが用意した熱い茶を飲みながら星を見た。遠くに街の灯が見えてもっと遠くに山並みの影が黒々として、そうして深い深い藍色の空に銀の筋が幾重にも流れていった。ナナと過ごした時間はどれも大切に胸の内にあるが、あの夜の光景は特に鮮やかに残っているように思う。

 懐かしい思い出に手を引かれるように手のひらを天井に向ければ、ふわりふわりと蛍のように光がこぼれだして、ゆっくりと飛び立っていった。それは所在なげに部屋を漂いながら上っていき、ぱっとはじけていくつもの光の粒をばらまく。花火のような、星のような。青白い燐光をたなびきながら小さな光が降り注ぐ。そうして床に落ちるより先にかき消えていった。

 これはナナとスノウが作った遊びだった。魔術といえるほど精密なものではなく、手品のようなものだ。スノウの体内の魔力をあふれさせて可視化し、飛ばしている。尾を引く光を降らせた後は大気に紛れて霧散し、スノウの中に戻ることはない。ただ場の魔力圧を少しだけ上げることができ、ナナが複雑な術式を使うときの手助けくらいにはなった。

「俺は何を間違えたんだろう」

 ふわふわと星を飛ばしながらスノウはつぶやく。二人で見た星を部屋の中に作ろう、と言って構築式を組んだ。存在自体が魔術に近いスノウにはたやすくできることであってもナナには少し難しくて、どうすれば簡単に操作できるかを考えてああでもないこうでもないと時間を重ねた。そうしてナナの手から光が飛び上がった日は子供のように二人ではしゃいで、いつまでも光を飛ばしていた。その試行錯誤が決定打となり、ナナは魔術職を目指すと決めたのだ。今まで以上の努力を重ねるようになり、スノウもスノウなりにそれを応援したし手助けもした。スノウにナナのような知識はないが実践する力はある。仮組みの術式を起動しては修正を重ねて二人で魔術を作り上げたのだ。そうして、公的機関にも認められるような精度のものも生み出せるようになっていった。

 ──なのに。

 人差し指で線を描く。光がその方向へ誘導されて彗星のような尾を引いた。

 ナナは少しずつ何かを違えていった。少女を脱した彼女は大きな魔術師業所に務めるようになって、魔術開発に従事するようになった。夢を叶えたのだ。満ち足りた毎日のように見えた。けれどいつの間にかナナの表情から笑顔が消え、疲労困憊で帰宅してはスノウにすがりついて泣くようになった。スノウが涙の理由を尋ねても首を振るばかりで、翌朝には青ざめた顔のまま出勤する。同時にスノウの外出を嫌がるようになった。行かないでと泣きながらスノウを抱く腕を振り払ってまで、行きたいところなどなかった。

 ──お前の望みを言え。

 イチカの言葉がよみがえる。

 ──俺の望みだったよ。

 断言できる。だって彼女はそうしなければ立っていられなかった。家にスノウがいる。自分の味方が待っている。あの部屋で必ず自分を出迎えてくれる。彼女はきっとその事実を確認したかったのだ。ならばそれに応えるのが自分のありようだと、今なお確信している。自分は獣だ。守人を愛し、守るものだ。だから。

「ナナを、守りたかった……」

 やつれていくナナは取り乱すことが増え、休日は寝付いたまま起き上がれないことも珍しくなくなった。彼女の身に何が降りかかっていたのかをスノウは知らない。最後まで教えてくれなかった。心配しておろおろするスノウを見て淡く笑いながら、それでいいと繰り返した。そばにいてくれればいい。この心を埋めてくれればいい。そう繰り返した。ならばそうする、そばにいると何度も何度も繰り返してそうして、ある日ナナは帰ってこなかった。

「……俺は、何を間違えたんだろう」

 またつぶやく。何度も何度も口にした疑問。彼女を連れて遠くの街にでも行けば良かったのだろうか。魔術師のいない国へ行けば良かったのだろうか。わからない。どうすれば彼女を守れたのか、答えは出なかった。だが自分が契約しなければ、彼女を見つけなければこうはならなかった。それだけは理解した。だから、次の守人を選ぶことなく望むことなくこの生をおしまいにしようと思ったのに。

 ──イチカ。

 新しい主を、見つけてしまった。守人を見つけたら報告するようにと言われて馬鹿正直に五門機関に報告したのが間違いだったのかもしれない。イチカの口ぶりからするにわざわざことを大きくして逃げられなくしたのだろう。彼らは基本的に五門の安定が全てに優先する最重要事項で、そこにからむ人や獣の感情はどうでもいいのだと今更に理解する。

「間違えたんだな……」

 ナナのときと同じように。

 自分はイチカを死なせるのだろうか。失うのだろうか。視界が揺れる。感情の揺らぎにつられて浮かんだ星々が明滅を繰り返した。

「封印の要ならなんで人格なんか残したんだ。ただの獣でよかったのに」

 本当に獣なら、間違えなかった。傷つけなかった。

「ただいま。──スノウ?」

 ふいに声がして扉が開き、イチカが顔をのぞかせる。そしてわずか瞠目した。薄暗い居間の真ん中で光を漂わせながら立っているスノウが目に飛び込んできたからだろう。少年は何となく気まずくてへらりと笑った。

「おかえり。早いね」

「ああ。今日は急ぎの案件が入った代わりに早く上がってきた。これは……星か?」

「うん。ひまだったから」

 応える言葉に別の誰かの声が重なった。

「うわ何だこれすげえ!」

 聞いたことの無い声に目を白黒させていると、イチカが半歩身をずらす。するとスノウの知らない人物がそこにいた。イチカと同じ黒い髪と瞳の青年。身長はちょうどイチカと今のスノウの間くらいだろうか。軍服ではなく、生成りのシャツにしゃれたリボンを締め、編上靴を履いていた。夏が迫っているからか上着は持っておらず、身軽な出立ちだ。人好きのする笑みを浮かべている。

「十年来の友人でラズバスカという。たまたま行き会ってな。なりゆきで夕飯を一緒にと」

 イチカの言葉にスノウは愛想よく笑った。

「はじめまして。スノウです」

「よろしく。俺、ラズバスカ。ラーズでいいよ。ところでこれスノウくんがやってんの? どうやって?」

「何もしてないよ。魔力浮かしてるだけ」

 ぐいぐいと身を乗り出してくるラズバスカに少なからず困惑しながらスノウは答えた。

「いやいや、だけって言わないよこれ。結晶化してんじゃん。術石かよ」

「ううん、結晶じゃない。魔力を内側に収束回転させて圧縮してるだけだから離れると崩れちゃう。術石みたいな安定性はないよ」

 言って、手のひらの星を上げれば音もなく光は霧散して飛び散った。

「ちょっとコツはいるけど、指向性操作できればすぐ」

「へえ、面白いな。やり方教えて」

「いいよ」

 ラズバスカに乞われるままに始まった構築式の話にイチカが呆れた声を上げた。

「ラーズ、夕飯はどうした」

「うん、ここ終わったら行くからちょっと待って。──こう?」

 手のひらの上に青白い光を回転させながらラズバスカはこちらを見もしない。スノウの言葉をなぞりながら魔力の光を丸めている。イチカはため息をついた。こうなるような気はしていた。

「スノウくんさ、レニシュチの人だっけ」

「……うん」

「これじゃ今のレニシュチ大変だったでしょ。普通に迫害されるやつじゃん」

 言われて、スノウは曖昧に笑った。情勢を正確に知っているわけではない。思わずイチカを見た。その助けを求めるようなまなざしに気づいてイチカが口を開く。

「そこまでなのか」

「ああ。この操作精度と魔力量なら全然自前の師業所開けるだろうし、そうなると良くて財産没収、下手すると収容所行き。本当馬鹿げてるよな。時代に逆行してる」

 イチカも委細は知らないが、終わらない内戦の理由に魔術を持ち出して弾圧を加えているという。治水に土木、土壌改良などいくらでも魔術師の手が必要なはずだが、レニシュチの臨時政府は頑なだった。容赦のない仕打ちに魔術関係の人材が根こそぎ国外脱出を図り、結局荒れた国土の復興が遅れている。

「それだけ、抱えた傷が深いんだろう」

 何を憎めばいいのかわからぬほどに。

「いい加減腹が減った。もういいか」

 イチカに促されて、スノウが出かける支度をしに行く。その背中を見送りながらラズバスカが声をひそめてささやいた。

「何があったんだよイチカ。相当の訳ありだろあれ」

 付き合いの長い友人だがレニシュチに縁があったという話は聞いたことがなく、スノウの立ち振る舞いも難民と呼ぶにはあまりに陰がない。予想していたよりもずっと大ごとの気配がするとラズバスカは案じるそぶりを見せた。

「……悪いが、守秘義務だ」

 イチカの声が堅い。その表情に何かを察してか、ラズバスカは食い下がることなくそうかとだけ言って話題を変える。

「この部屋にしてよかったろ? 男の一人暮らしに客間がいるかとか言ってたけど役に立ってんじゃん」

「元々役には立っていた。酔い潰れた誰かさんを放り込んだりな」

「その節は大変お世話になりました」

 イチカが火元の確認をし、三人は家を出る。外はすっかり夕暮れに沈んでいて、黒々とした影が道に落ちていた。暑気も落ち着き、夕方の風が吹き抜ける。共同住宅の玄関を出て左に折れた。執政府通りに出ると今度は右に折れ、北の方へ向かう。石畳の道は馬車が通る道と人間が歩く道が敷石によって分けられていて、ずいぶんと歩きやすく整えられていた。

「スノウくんいるから市場のとこの魚料理屋とかいいんじゃねえかな」

 ヘレ川に沿った常設の市場には、訪れる多くの客のために料理屋が軒を連ねている。ほどほどににぎやかで安価で、治安がいい。

「そうしよう。魚は食べられるか?」

「問題ないよ」

 夕食時、通りのあちこちから食欲をそそる匂いがする。小さな押し車を即席の店舗とした屋台がそこここに出ているためだ。街路灯の明かりがぽつぽつと点き始めた時分は稼ぎ時らしく、時折大勢の人間に囲まれた屋台が見えた。

「屋台、珍しい?」

 興味深げに見ているスノウへ、頭の後ろで腕を組んだラズバスカが肩を並べる。

「珍しい、かな。前にいた街は屋台じゃなくてこう、道まで伸ばした庇をつなげてそこに飲食店を出しているような街だったから」

「ああ、雨の多い街でよくやるやつだな」

 イチカは二人の他愛もないやりとりを半歩後ろから聞きながら歩いていた。もともと人懐こいラズバスカのこと、スノウにいきなり会わせても問題ないだろうとは思っていたが、案の定それなりに楽しそうに会話をしている。スノウもまた親しい友人に対するようにラズバスカに対応しているようで、イチカは無意識に安堵の息を漏らした。

 三叉路を右に入ってヘレ川の方へと向かうと、やがて市場の大門が姿を現した。市場は大小さまざまな店舗が立ち並ぶ三つの大路と数多くの小路を擁する。それらの道はすべて硝子天井でもって覆われ、天井の終わりには門が据えられていた。門をくぐるなり香ばしい肉や魚の香りが漂い、否が応でも食欲を掻き立てられる。ラズバスカは勝手知ったる様子で人並みを分けて進んでいった。

「三人だけど空いてる?」

 恰幅のいい壮年の夫婦が営むこじんまりした店だ。イチカとスノウが数歩送れて到着した頃には三人分の席が確保されていた。窓辺の奥まった席からはすぐ裏の川面を臨め、店の喧騒から少しだけ距離を置ける。荷揚げ用の小桟橋があることから、朝と昼は魚を商い、夜には店先を片付けて定食屋にしているらしい。

「うちの編集長おすすめの店でさ。鮮度がいいんだって」

 上手に人をよけたラズバスカがさっさと椅子に陣取り、スノウもそれに続いた。体格のいいイチカにはなかなか真似のできない芸当だ。

「俺、麦酒飲むけど。イチカどうする?」

「もらおう」

 通行する人間の邪魔にならぬよう椅子の位置を調整しながらイチカが言った。

「スノウくん林檎水とかどう? 結構おいしいよ。泡の出るやつ」

 益体もない話をしながらもラズバスカが手早く飲み物と食べ物の注文をして、三人は待つ体勢に入る。鮭の炙り焼きや旗魚とハーブを揚げたものなど、確かに魚料理が名物らしい。

「そういや、注目されないね。イチカとスノウくんの取り合わせめちゃくちゃ目立つのに」

 麦酒をあおりながらラズバスカが言った。全身が真っ白のスノウと扉より上背のあるイチカだ。目立つなという方が無理がある。にも関わらず店内は皆自分の話に忙しいらしかった。

「知覚錯誤の結界張ってる。普通の人に見えてると思うよ。イチカ、目立つの嫌いでしょう?」

 揚げた白身魚と芋を自分の皿に取りながらスノウが答えた。イチカが眉を持ち上げ、ラズバスカが瞠目する。

「あれ、もしかして余計だった……?」

「むしろ助かるが」

「いやいやいや、それ夕飯食べに行くだけのときに使うやつじゃなくない? 偽装遮断膜でしょ?」

 魔術で物の本質を変容させることはできない。ゆえに他人の認識に干渉する類いの術式だ。効果範囲の広さによるが、こんな人でごった返した場所で機能させるのはそう容易なことではない。

「ラーズは詳しいんだね。偽装遮断膜ではないんだ。あれより循環効率のいい術式があって、何ていうんだろう。存在感を薄めるみたいな」

 すらすらと述べられる構築式にラズバスカがうなった。

「スノウくんもしかして魔術開発の経験者?」

「手伝ってたよ」

 なるほどと納得をしたラズバスカがここぞとばかりにまた魔術の話を始めて、到底口を挟むことができないイチカはただ見守るばかりだ。

「そうそう、この間アフタビーイェに行ったんだけどさ。術石の産地だけあってあそこは魔術の発展も導入も桁違いに早い。砂漠の緑化に着手したんだとさ」

 鱈とチーズをまとめてほおばりながらラズバスカが言う。スノウは術石、と復唱するようにつぶやいた。特殊な鉱物だ。水晶の何百倍もの魔力容量を誇るそれの発見によって魔術は目覚しい発展を遂げている。

「スノウくん術石使ったことは?」

「さすがに希少品だし現物はないよ。あれ構築式じゃなくて回路式なんだよね。試作品はいくつか組んだことあるけど実践はしてない」

「試作はしたんだ?」

 ラズバスカが感嘆の声を上げた。

 そこへ魚料理が数点まとめて運ばれてきた。鮭や鱈、 鰈などここが内陸部であることを忘れさせるような海の魚ばかりだ。酢漬けの生魚まである。

「もう夏だぞ。生はまずくないか」

 眉をひそめたイチカにラズバスカが得意げに言う。

「大丈夫だって。魚を凍らせて運んでくるんだ」

「どうやって」

「聞きたい?」

 にやりと笑ったラズバスカにイチカは首を振る。

「いや、遠慮しておく」

 スノウとやってくれとげんなりした声にけらけらとラズバスカが笑った。

「イチカは昔から魔術嫌いだよな」

「お前は好きだな」

「まあね。でなきゃこんな仕事してないって」

 ふとラズバスカがスノウを見る。スノウは熱心に鮭の小骨をとっているところで、ラズバスカの視線に気づいてわずかに首をかしげた。

「正直、羨ましいよ」

「何が?」

「才能がないのに諦めきれないって、つらいぜ?」

 その翳りのある表情に既視感を覚え、耳の奥によみがえる少女の声を封じ込めるように小さく頭を振った。

「スノウ」

 声をかけたのはイチカだった。スノウの皿にパンを乗せる。

「あのさ、イチカ。昨日から思ってたんだけど、どうしてそんなに食べさせようとするの」

「お前、俺がいないと食べないだろう」

 彼はイチカが留守のときに食べ物に手をつけていたことがない。

「一人で食べてもつまらないだけだよ」

「どうだか」

 しれっとそう言ってイチカは烏貝を剥き始めた。

「スノウくん細いもんねー。ちゃんと食べないとイチカみたいになれないぞ」

 同じ皿から海老を奪い取りながらラズバスカがからかうように言う。

「イチカのことは好きだけどなりたくはないかな」

「あはは熱烈」

 笑って、酒にわずか上気した顔でラズバスカがスノウを見る。

「スノウくんさ、読み書きできる?」

「できる、けど」

 スノウは学校へ行ったことがない。それでも記された文字列の情報を正確に読み取ることができ、そして同様に綴ることもできた。聞いたり話したりする方も同様で、言葉で困ったことはなかった。どうやらスノウの中の魔力がそうさせているらしい。

「じゃあさ、うちで働いてみない?」

 灰色の瞳が大きくまたたく。すぐ隣でイチカも似たような表情を浮かべていた。

「俺、新聞社で働いているんだけど、魔術関係の記事の校正をやって欲しい。それだけ知識があって術石の回路式までわかってる人材、貴重なんだ」

 まぁ大した金額は出せないがと言いながらラズバスカがスノウに向かって笑って見せる。

「どう?」

 スノウはどうしていいのかわからず、縋るようにイチカを見た。

「イチカ。どうしよう」

「俺に聞くな。お前がしたいようにすればいい」

 常と同じ調子で言ってイチカは店員を呼びとめ、パンの追加をする。

「冷たくない? あ、もしかして学校行かせるつもりだったとか?」

「それも俺が決めることじゃない。スノウが働くなり学校に行くなり決めればいい」

 やりたいことがあるなら反対はしないし必要な金なら出すとイチカが言った。

「お前が保護者なんだろ? もっと真剣に聞けって」

「本人がやりたくもないことをさせてどうする。自分で考えて決める。おかしなことは言っていないぞ」

「イチカってそうだよな。優しいんだか突き放してるんだか。とりあえず、考えておいてくれる?」

「……わか、った」

 スノウは何度もまばたきを繰り返す。不思議な感覚だった。この感情の名前も理由もわからない。遠い記憶のどこかで似た感覚を知っているような気がするが思い出せない。ただ、負の感情ではないように感じた。

 イチカとスノウが帰宅したのは夜半も近くなってのことだった。居酒屋などはまだまだにぎやかで宵っ張りの客を抱え込んでいたが、住宅街のほうはずいぶんと静まり返っている。二人は音を立てぬよう注意をしながら共同玄関を入った。イチカは郵便受けに白い封筒の姿があるのを見てとって、スノウを先に行かせる。取り出した封筒は魔術による最速達便。イチカの名前が記され、深い緑の封蝋の色には五角形に二本鍵の紋章が推されていた。思わず眉をひそめる。

「スノウ。さっそく何か来ているぞ」

 ひらひらと封筒を振ってみせ、居間の長椅子に腰を下ろした。封を切って中を見る間にスノウが台所へ行って焜炉に火をかける。茶を淹れようとしているらしい。その容貌から受ける印象以上に彼は細々とした家の中のことに気づく。

「青い缶の茶葉にしてくれ」

「わかった。そっち何か深刻な話?」

「いや……」

 スノウから茶の入ったカップを受け取りながら、イチカはスノウに封筒ごとそれを渡す。

「五門機関本部で他の守人と対面してみないかとのことだ」

 対面をして何をするのかなど具体的なことは書かれておらず、日にちとおおよその時間の目安だけが記されているだけだ。少年は書面に目を通しながら首をかしげた。

「定期的に集まっているらしいのは知ってるけど、俺は行ったことないんだ。行く?」

「行くも何もどこにあると思っている。往復で七月かかるんだぞ」

 ユルハから東方へ陸路と海路を乗り継いだ隣の大陸、ベーメンドーサという小国だ。ユルハとは直接の国交すらなく、時間と金がどれほどかかるのか想像もつかないような遠国である。五門機関の本拠地ということ以外実際にどのような国なのかは知らない。そんな遠くへスノウを連れての出国など上層部が認めはしないだろう。

「距離は気にしないで大丈夫だよ。日帰りできるから」

 スノウは封筒をイチカに返しながらこともなげに言った。

「五門機関本部には転移魔術の門陣が敷いてあるんだ。もともと俺もあそこで生まれたし、行って帰ってくるだけなら今すぐにでも行ける」

 言ってからイチカが難しい顔をしていることに気づいて、スノウはきょとんとイチカを見つめる。おかしなことを言っただろうか。

「本当に、とんでもないことが平気で起こるな」

 彼は長いため息をついて、頭をがしがしと掻いた。七月行程をこともなげになかったことにしてみせる。

「転移使ったことない?」

「ないな。起動する魔力がない」

「そういえばそうだったね」

 ならば自分が起動して同伴すると少年はうなずいてみせた。

「わざわざ送りつけてくるということは来いということだろうな。面倒だが仕方ない。スノウ、悪いが頼む」

「問題ないよ。任せて」

 イチカはカップを台所に片付け、あくびをかみ殺す。酒に弱いたちではないが、今日は急の案件もあって少し疲れているためか酔いがまわってきた。

「これで明日も続きか」

「嫌な仕事なの?」

 イチカの物言いに気がついたらしく、スノウが尋ねる。

「ああ最悪のやつだ」

「そっか。もし遠くに行くなら協力するからね」

「お前はそればかりだな。まぁ最終手段として覚えておく」

 あえて明るい声音でつむがれた言葉にイチカもまた笑って答え、それ以上は互いに語らなかった。

「ねえ、イチカ。ラーズの仕事の話なんだけど、俺、行ってもいいかな」

 灰色の瞳は伏せられ、どこか探るようなうかがうような様子だった。

「お前はどうしたい?」

 いつもと同じイチカの声。スノウの望みを尋ねる言葉。今日まで何度も彼はそう口にした。少しだけ緊張しながらスノウは口を開く。

「……やってみたい」

「ならやればいい。俺がどうこう言うことじゃない」

 少年の顔がぱっと華やいでイチカを見た。そのまぶしくさえ感じられる表情にイチカは少し気圧される。

「ありがとう」

「いや。じゃあ俺は寝る」

「おやすみなさい」

 スノウはイチカの背を見送って、右手を振った。焜炉の残り火が消え、ランプの明かりも徐々に薄れていく。その光景をぼうと眺めながら、この数日のできごとを反芻する。

 新しい守人を選ぶのは嫌だった。つらい思いをするのもさせるのも嫌で、考えることも選ぶこともせずにこの二年間、煙に巻き続けた。意識の片隅では確かにイチカのことを認識しながら、抗い続けたのだ。体が弱っているのは知っていた。それでもいいと、このまま死んでしまえばいいと思っていたはずなのに、ある日突然強烈な思慕に塗りつぶされた。またたく間に本能は理性を上回り、飛び出したのだ。呼ばれている感覚にそれ以上抗えなかった。ナナを見つけたときと同じどうしようもない慕わしさに引き寄せられて、そうしてスノウはイチカを見つけた。

 不思議な男だった。

 長身で体格が良く、笑わない。声は低く響いて無駄を言わず、そして自分の望みなど考えたこともなかったスノウに一人の人間としてまっとうに生きろと、己の足で立てと、そう言ってくれた。獣と守人でなはく、スノウとイチカとして生きていく。そう明言されたことが、どうしてか嬉しかった。ナナとの関係も主従というよりは年の近い姉弟のようなもので、決して束縛された主従関係ではなかったのに、イチカの引いた線はスノウの中に鮮やかだった。自分の存在を、個としてのありようを、無条件に肯定してもらえたような気がした。

 イチカに報いたいと願う。けれど魔術を必要としないイチカに自分ができることなどわからない。魔術以外の能力も知識もなく、イチカに言わせればただの子供でしかない。それでもいつか彼に何かを返すために、今の自分の精一杯をやってみようとそう思ったのだ。

「……がんばろう」

 確かな決意をはらんで、ふわりと少年は笑った。

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