獣は遠き約束を胸に抱く
夜渦
序
序章
確かに愛された記憶がある。
初めて降り立った世界で目を奪われたのは金色。彼女の髪が夕さりの中で風にあおられ、光を放つようだった。自分を見下ろす顔が蕩けるように笑んで、双眸がゆがむ。それは暮れ始めの空の紫。
「初めまして、私の獣」
なだらかな声。しなやかな腕がいまだうまく人の姿をとれぬこの身を抱く。あたたかい、と思った。どうしてか眼の奥が痛くて、どうしていいかわからず何度もまばたきを繰り返す。行き場のない手が空を泳いだ。
「ずっと、待っていたんだ」
切実な色を帯びた声が彼女の体を通って自分の中に響く。
「おれの、ことを?」
紡ぎ出した声はかすれて、かろうじて言葉を成せるかどうか。それでも彼女は自分の言葉を拾い上げてまた、笑った。
「そうだ。ずっと、ずっと待っていた」
ともにいてくれる誰かを。一緒に歩んでくれるおまえを。
その言葉の意味を拾い上げることができず、小さく首をかしげるのへ彼女は笑ってみせる。
「とりあえず腹ごしらえだな。その体は魔力で出来ているからまぁ食事は必要ないんだが、おいしいことは楽しいことだからな」
ほがらかな調子でそう言って、彼女は伸びをする。複雑な術式を組んだから少しばかりくたびれたと言って、言われてみれば確かに目の下に疲労の色が見える気がした。だがそんなことが気にならぬほどその目は期待に満ちて自分を見て、ことあるごとに喜色を浮かべて笑った。
「買い物に行って服をそろえて、せっかくだから海でも見に行くか。楽しいぞ、海は。今は泳げる季節じゃないが見るだけでも楽しい。来年は泳ごうな。そっちまで行くなら魚市場をのぞいて揚げ物でも買うか。烏賊とか鰯とかうまいんだ。それから南の船が妙な動物を連れ帰ったとか言っていたな。それから……」
いくつもいくつも言葉があふれる。大きな街が抱える喧噪はやかましく、慕わしく、心が躍る。あるいは街を出て静かなところに行くのもいい。北の山を越えれば遊牧民の野営地があって羊が見られるとか、湯の湧く谷があるらしいだとか、もはや彼の頭では追いつかないような「楽しい」を山のように積み上げて彼女は笑っていた。
「全部、一緒に行こう。そのために待っていた。お前とたくさん楽しいことがしたいんだ」
ぐいと額を付き合わせて笑う双眸はきらきらと輝いて、まぶしかった。返す言葉をうまく見つけられずに口をつぐむ姿に少しばかり冷静になったのか、一度息をつく。そうして、喉の奥で笑った。
「ふふ、まぁ要するに私は」
──さみしかったんだ。
その表情を形容できるだけの言葉をまだ持っていなかった。だからただ見上げていた。夕映えの中で笑う彼女の姿は美しかった。ただただ、美しかった。
「そうだ、まずは名前を決めよう」
それは始まりの記憶。この体が、この心が、この世界で初めて目にした美しいもの。
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