16
恋心は日に日に
溺れる一歩手前。
彼女は自分の恋をそんなふうに思っていた。
惹かれて当然だった。充生は多くの点で父親と似ていた。そして似ていない部分も含めて、彼がそなえているものの多くが、真帆にはこのうえなく魅力的に映った。
彼女は育てる人間で、充生は育て甲斐のある人間だった。
真帆はまったくその点を自覚していなかったが、彼の覚束ない仕草が、彼女の胸を締め付けるのには十分な理由があった。
だからなのかもしれないが、彼女は構えることなく自分の恋心と向き合うことができた。康生に恋したから充生に恋しているのではなく、おそらくそれより以前に出会っても、真帆は彼に惹かれていただろう。彼女の欲求は、成熟のとばくちに足を掛けたときからずっと一貫していた。彼に恋するのはごく自然なことだった。
真帆は彼の控え目な態度や、相対的な物の見方が好きだった。熱中しているときの横顔が好きだった。鳩尾から臍に向かって走る、一筋の真っ直ぐな溝が好きだった。
ふたりの関係に含まれるいくつかの要素は、性的な引力となって働いていたが、それ以外の要素はおおむね斥力となって接触を妨げていた。その均衡の中で、真帆と充生は月と地球のように、互いの距離を周期的に変えながら暮らしていた。
この頃の充生は少年の時代を終え、大人の男になろうとしていた。彼は輝きを増し、向心力はかつてないほど強くなっていた。彼女は充生に引き寄せられた。かつて康生にしていたように、彼の頬や額にキスがしたかった。手の甲に浮かぶすみれ色の静脈に触れたかった。長い髪に指を差し入れ、その柔らかな感触を味わいたかった。
暖かい季節には、充生が家の中で裸に近い格好でいることもあった。トランクス一枚でソファーに座る彼は、くつろいだ若い獣のようでもあった。
アンテローブという言葉を彼女は思い出した。彼はまるでインパラやガゼルのように細くしなやかな体躯をしていた。
なんでこんなに細いんだろう。二十六の彼女は、いつの間にか思わしくない場所に、パテでもったような厚みが現れるようになっていた。信じられないくらいたくさん食べる充生が、いともやすやすとあの細身をキープしているのを見ると、少し妬ましく感じることもあった。
同棲を始めた頃は、真帆のほうが優位に立っていたはずだ。充生の素肌を見ても、さほど戸惑わなかったし、逆に彼のほうが真帆の薄着にどきまぎしていた。その関係が変わり始めたのは、いつの頃からだったのだろう。
充生は無関心を装っていたが、そうでないことは真帆もちゃんと知っていた。彼の視線が自分の素肌に注がれていることに真帆はたびたび気付いていた。向かい合ってドミノゲームをしているとき、充生がカットソーの衿の隙間を通して下着に包まれた胸の膨らみをじっと見ていることも知っていた。町のミニチュアづくりをしているとき(ふたりでつくった作品は、この頃すでに十を超えていた)、熱中するあまりフレアスカートの裾がめくれて腿が露わになり、ふと気付くと彼の視線がじっとそこに向いていることもあった。
いずれの場合も真帆は気付かぬ振りをした。彼女が気付いたことを知れば、充生は恥ずかしく思うだろうし、そういった感情のさざ波は彼女も得意ではなかった。意図的であったり、わざとらしい行為は苦手だった。自然な振る舞いを望むあまり、不自然になってしまうことが彼女にはよくあった。
自分が何を望んでいるのか彼女はよく分かっていたが、複雑な道義心がそれを抑えていた。彼があからさまにそれを望んでくれるのなら、小さなくびきはすぐにでも外れるはずだった。
夏の宵。綿のキャミソールとショートパンツでソファーに座る真帆の隣には、Tシャツ姿の充生がいる。下はトランクス一枚。Tシャツは洗濯を繰り返して、いまでは肩が落ち掛けている。真帆は彼のことが気になる。そして彼も真帆のことを意識しているはずだ。平静を装いながらも、その綻びからは、なにやら熱を帯びた蒸気のようなものが吹き出ている。
部屋に漂う甘い有機分子のせいで、真帆は胸苦しさを感じている。彼女はたかぶり、それを気取られまいとして、ひどく緊張している。
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