お嬢さんの妖怪絵巻

武神凰我

第1話 その男、天狛俊

 天狛俊(あまこましゅん)。その男について語る時、彼女の口は重い。

「天狛さんは・・ずっとおばあ様が言っていた様な方だと思います」


 少し前からテーブルに置かれていたアイスティーの氷が崩れて、あめ色の中に游いだ音の後にそう話し出した。黒く長い髪は美しく肩にもたれて落ちて、俯いたようにその視線は記憶を眺めてか、何処を見つめるわけでなくさまよう。


「そう・・」 

 

 聞き手である女性は、年齢からしてそう呼ばれているわけではない。眼前の孫娘の事を誰よりも知っている人間だ。そして、件の男の事も、深く理解していた。

 であればこそ、この二人から聴こえてくる不協和音にイタズラ心が擽られる。あの日彼を初めて見た日、孫娘である詩織もつい重ね見たであろう父、自分にとっての息子の在りし日の面差し。

 野良犬と言う言葉では収まらない野性味と、孤独。その眼は常に死に場所を探していた。彼は今でも変わらないが、当初嫌悪していた彼に対する詩織の考えはまったく変わってしまった。


「今さら、私を許してはくれないかも知れませんが・・遠野の仕事はしてくれるそうですから」


 詩織は祖母の眼から見て、人付き合いは酷く奥手で不器用だ。こと男性に関しては尚更でもある、と思う。今時の他の娘と比べたらメも当てられない、だからこそ楽しみ甲斐があろうと言う物だ。

 一時期、彼に仕事を与えなかった。それは代を譲られた詩織の最初の仕事だ。その事を引き摺り、延々一人ギクシャクしている。


「そんな事、あのコはもう気にしてないでしょうに・・」


 その時々、それに応じた報酬で苛烈な仕事しか引き受けない彼は、その類いの人間にありがちな気難しさを内包していた。

 増長しているのでなく、それはある種の矜持を支えに生きる人種だ。それを理解するには詩織は経験不足であった。

 それらの要素はお互いを反発させて、流れるまま小舟が岸を離れるが如く遠くなっていく。


「俺は、婆さんの孫にまで借りはないさ」


 以来、なんとか手元に置いておこうともしたが彼はそう言って姿を消した。


 いつだったか自分が彼を拾って多少、面倒は見たかもしれないが、その些細な恩を平然と身を切る様にして返す彼を知っていれば、あの日の後ろ姿はやるせなかった。





「それに、私は彼に救われました。もう一人で危険な事はさせません・・」


 その時の事は、何度も幾度でもなんなら今も詩織の心でリフレインしている。彼が職を追われ、その穴を自分達で埋めて行こうと決意した詩織であったが、この家業に危険は常に付きまとう。

 天狛はそれをこなせた人であったが、自分も他の者もそれに代われる力量はなかった。そして遂にその危険に身を掴まれてしまう時が来てしまった。結果として、天狛に祖母が助力を頼み込み事なきを得た。しかし、自分が彼を遠ざけた事がブランクを生み、使い慣れた道具すらも取り上げた代償は、深い傷として天狛の肉体に残ってしまった。


 


 かくして自分を庇って負傷し生死をさまよった天狛も、後に無事に目が覚める。その場で謝罪し、何故冷たく当たった自分を助けてくれたのかと問うと、単に彼は仕事だとだけ答えた。久しぶりの、と付け加えて。だから金で折り合いが付いた仕事に感謝などしてほしいと思っていない。

 そんな男を祖母は動かして見せたのだが、自分はまだ警戒され続けている。その理由がまったくわからないでいる。その様子には祖母も見かねてはいるが、そんな誰にも悟られてはいまいと詩織本人だけは思っている恋も、決して打ち明けようとしないままだ。


「おばあちゃんがセコンド、やりましょうか?」


 焦れったい孫娘にわきを閉めた腕を突きだして冗談めかしてそう告げると、詩織は瞬時に真っ赤に変色させて否定したので、自分は後何年頑張ればいいか不安になった。もう還暦を過ぎた自分に何を待てと言うのか?気の長い話だ。

 きっと詩織は自分が救われた事を大義名分にして一人、天狛に愛の戦いを挑むつもりだろうが眼を閉じたら彼からの苦情の叫びが聴こえてくるようだった。


「あの、それでこの間の件ですけど・・」


 話しはやっと本題に入ろうとしていた。二人と店主だけの店内は祖母の贔屓にしている、昔ながらの喫茶店だ。カフェと言った今風な雰囲気は微塵もないが、どうしても人が出入りする自宅よりは語り合いに気兼ねがない。それもその筈で【open】と書かれたプレートがこちらを向いていて、今は日差しだけがガラスのドアから入ってくる。



 一週間ほど前になる。それは初めて、二人きり現場に向かった時の話だ。

 待ち合わせギリギリに現れた天狛は、詩織と同伴とは聴いていないとゴネた。単に連絡係、と考えていた。または聞かされていたようだ。

 なんとか彼を宥めて、現地に向かう事になる。しかし、たったこれだけの間で牽制し合う有り様で行きの特急列車では会話すらなかったし、少しばかりウトウトとしたら彼は車内に置き去りにしようとすらした。


「なんで起こしてくれないんですか!?」


 県境の温泉地、そこが目的地だった。問い詰めても天狛は無言で歩いて立ち止まった。自分に視線も向けず一人で出来ないならのこのこと出て来るな、とでも言いたげだ。

 彼がそこに立っているのはこの駅前のロータリーに迎えが来る段取りだからだ。自分の仕事を遂行すると言う事以外、頭に無いし詩織と協調するつもりもない。

 田舎景色に静寂しか無い中、二人に迎えのバスが来た、旅館の名前が書かれた少し小さな送迎車だ。


「いやぁ、どうもどうも!遠野さんですね?はるばるご苦労様です。」


 天狛に近いであろう年齢の男性、とは言っても少し不気味なぐらい若見えするこの無口な男とは違い、年相応で客商売の年季が入った愛想良い人物が運転席から降りてそう言いながら荷物を預かろうとしてくれた。


「はい。私は遠野詩織と申します、よろしくお願いいたします」


 詩織は道中、自分と天狛の緩衝となり得そうな人物で内心ほっとした。挨拶に返事がわりに髪で片方隠した様な眼を伏せて、無言のままのあの男はさっさと乗り込んでいる。


「・・それで、山に入った客や、地元の者も見たんですよ。幸い、転んで怪我したってだけなんですがね、今のところ!」


 自分達の様な者が呼ばれた以上、奇怪な事件に違いない。だがそんな話は、それを扱う人間にすらいささか話し辛い物だ。詩織は誠心誠意彼の話を聞いて、出来る限り現状を聞き出したかったが、隣の男は黙ったまま腕を組んで俯いたままだ。

 天狛は付き合い難い男だ。自分の眼に留まらない人間にはすこぶる冷淡で愛想の欠片もない。反面、自分の祖母やごく一部の人間には眼差しが優しい。彼が遠野に出入りする様ななった時は祖母の若い燕と勘ぐった物だ。しかし事が過ぎた今思えば、彼は〈仕事〉に臨んで意識を集中していたのかもしれない。




「現場、どこだい?」


 そのホテルに着くなり、天狛は仕事に掛かろうとした。現地には依頼してきた観光組合の責任者や、地元所轄の人間もいたが彼はお構い無しだ。


「お部屋のご用意もございますから、どうぞ今日はごゆっくりされて・・陽も後少しですし」


 そうですよ。と支配人の言葉に賛同する詩織だが、彼はさっさと片付ければ帰りの便はまだある。とばかりに振り向きもしなかった。


「ちょっと待ってください、天狛さん!・・すいません、お送りした私の荷物は?」


 詩織は慌ててカウンターから荷物を受け取り、着替えに部屋へ向かった。玄関口では山道に至る入り口を聞き出し天狛はさっさと一人山に入って行った。

 山の中を歩いていると、異様な寒さを感じる。あの支配人が言った様に、それほど日が長い時期では無いにせよ冬にはまだ早い。肌にまとわりつく寒気は確かに、ここには何かが潜んでいる事を告げていた。

 ロビーにいた連中の話しでは、女の姿の亡霊を何人も見たという。真偽を確かめに山に入った消防団の若者はそれにしがみつかれ、引き摺り込まれすらしたと言う。以来立ち入りは禁じられたが、集客に支障が出る事から霊感のある者が呼ばれた。


「天狛さん!どうして一人で行くんですか?」


 やっと追い付いたなり、詩織は勝手を責め立てる。ここには道一本、天狛が立ち止まっていたならば当然追い付く。だが彼は詩織を待っていたワケではない。


「お嬢さん、何か見えんのか?」


 詩織は装束を替えて、髪を括り眼鏡をしている。手には視力の弱い者が持つには不釣り合いに弓を待ち、腰には矢を携えていた。


「いえ、あ!はい・・何も」


 彼女は目が悪いのでなく霊の類いが見えていないのだ。それを補う道具としてのこの眼鏡、である。


「そうか・・お嬢さん、もう戻れ。後は俺が始末する」


 その声色には責める様子はなかった。しかし、彼を置き去りには出来ない。反論しようとした時、さっと天狛の腕が自分を制止した。

 彼は眼を閉ざして、何かを聴いているようだ。そして、それは自分の耳にも微かに聞こえて来た。


 タスケテ、タスケテ・・


 それは道を進めば更に大きくなった、まるでこの世の者ではない声が導く様に。少し山道を歩くと木々が開けた。少し傾きかけた黄色い光がそこを囲む森を深く緑に見せていた。


 タスケテ・・タスケテ・・!


「天狛・・さん!」


 詩織は恐ろしくなって、天狛の腕を掴み視線を促した。その先には人間の物らしき腕が見えた。


「構えといてくれ」


 彼がそう指図したのは弓の事だ、それは眼に見え触れば感触があるほどに実体化した妖しには効果的で特別な武器だ。そう言った後、天狛自身はゆっくりとそこに歩いて行った。


 タスケテ、タスケテ!


 土から手が覗いている。蒼白のか細い腕、女の物だ。そして、覗き込んだ瞬間土の下から上半身が飛び出した。


「タスケテ!」


 屈み込んだ天狛に、土まみれの腐乱死体のような化け物が飛び付いた。しかし、彼は別段驚く事も無く言った。


「なぁ、アンタ成仏したほうがイイよ・・」


 そして、引き込まれてしまわないよう下半身に力を入れて腕ではなく胴を捻って懐からなにか取り出した。

 それは仏像等が手に持つ短い神具に見えた。


「なに、痛かないさ。もう辛いだろ?ここに居るのは」


 天狛がこちらに向ける片腕を見て、詩織は弦を緩めて弓を下げた。けれど油断ではない、自分が射つ必要がないと感じた。そして、彼が有無を言わさず消し去る事をよしとしなかった事への安堵もあった。


 矢に指を添えながらも、そう安心した直後!


「うわあぁぁぁぁっ!」


 天狛は珍しく叫んだ。土が競り上がり、女の背後にまるで大木が瞬時に生えたように見えたのだ。それがかなりの高さまでそそり立ち一瞬制止した時、その姿がやっと確認出来た。


 


 それは巨大なムカデ、大百足と言うべきか。そしてそれは人間の女の屍を尾に取り込でいるかの様に、上半身だけを同化せていた。


「この野郎!・・うわ!」


 しがみついた手を振り払い、頭上から来たハサミのような牙を寸ででかわす。それを何度繰り返しながら天狛は理解した。この女も犠牲者であり他の餌、すなわち人間を呼び寄せる為の罠なのだ。

 逆効果にも思えるが、人間の感覚とズレが生じるのは良くあった事だ。とにかく今は完全に虚を突かれた、挙げ句詩織は驚いたか硬直して援護もない。


「バカ!なんで射たねーんだ!!」

「だって、私!」


 呆れてしまうが最初に射つなと合図したかららしく、詩織も動転して判断力を欠いた様子だ。


「ああ、もう!・・お嬢さん、逃げるぞ!」


 そう言って自分を天狛が抱き抱えた時、こんな時だが彼女は全身が火照った。血眼になって駆ける天狛はそんな詩織の満たされた心を余所に、今は戦いにならないと必死に両足を動かした。


 湯煙が所々に立ち上る川の畔に出た、少し道を逸れたがあの温泉旅館が見えていた。自分が人心地ついて安堵のため息を漏らしても、まだ詩織は首に手を回してしがみついていた。


「あ、あの・・すいません。」


 詩織の身体を投げて、天狛は表情をキッと締めた。いつまでぶら下がってんだと言う意思表示らしい。怪我でもされたら顔が立たないのもあるが、詩織は危機的状況において判断力が鈍い。命のやり取りをした場数の差だろうか。

 ホテルの前にはまだ幾人か関係者が残っていて、二人を待っていた。そしてやはり成果を聴きたがる。


「今日の所は偵察だ、続きは明日する!・・悪いが部屋、使わせて貰うぞ」


 天狛は動じる様子は見せなかったが、二人を囲んだ人々は明らかに落胆していた。会釈をしながら人の輪を潜り、詩織はそう感じた。彼等が霊能者を呼び寄せたのはこれで3回目だからだ。

 以前失敗した人間から、数々の荒事を始末して来た遠野を紹介されていた経緯もある為に、もうあのハイキングコースは閉鎖して商売の妨げになる気味悪い噂も流れるままかも知れない。


「ええ、はいご予約もいただいて居ましたから」


 うん、と返事をした天狛は、あんな大立ち回りをした後もその時まで平静であったがやっと今狼狽した。手渡されたキーが一つだったからだ。


「おい、なんだ?別にしろよ、どうなってンだ!」

「ご予約は二名様、一部屋でしたし・・うわ!ちょっと・・当ホテルはお一人のお客様は!」


 カウンターで支配人達に掴み寄る天狛と、祖母のからかい半分の悪戯に赤面しつつも天狛を叱って言った。


「・・経費節約です!ホテルの方に迷惑を掛けてはなりません」


 育ちの良さは、説得に力を与えるのだろうか。引き下がった彼は考えてみれば、彼女に確認しておきたい事もあるし、宿を共にするのはとりあえず一晩耐えて、帰ったらあの婆さんにこの三蔵法師みたいにな説教を垂れる生意気な孫娘を二度と寄越さないようきっちり言うと決意した。



「・・冷めない内に食べたらどうなんです?」

 

 山の幸を主役に豪華な料理が部屋に用意されていた。挨拶やら料理の説明やらが終わり仲居が席を外れると、天狛は明日どうするかうるさかった。

 仕事熱心はいいが、詩織としたら安心したら腹部が空腹感を強く訴えていたし、和食は好物だしせっかくだから料理を楽しみたかった。


「あの女は、あの女もヤツの餌食になった犠牲者だ・・出来るなら化け物から切り離して弔ってやりたい」


 だから「何故」と聞く自分に、手を出すなと彼は言う。


「もう助かりませんよ、無意味だと私は思います。それに危険過ぎます、賛成出来ません!」


 話しは平行線のままで、大好きな茶碗蒸しの蓋をいつ開けようか?今は食べるに忙しい。料理は温かさより、二人の邪魔にならない様早めに全て揃えられたからだ。

 明日は自分が餌として現れるだろうあの女をまず射抜く、妖しの類いは不思議と同じ事ばかりする。だからあの女は必ず現れる、矢が刺されば女の身体越しにダメージが通る。弱った所でトドメ。詩織は箸を触る前からそう言っている。



「どこに行くんです!?」

「風呂だ、風呂。あんたと飯なんか食ってられるかよ!」


 料理に手も付けず、天狛は部屋から出て行った。意見は食い違っても、安全を最優先するのは自分の責務だ。彼の気持ちは分かるが、言う事は聞いて貰わなければいけない。

 さっきだって危ない所だった、そう考えながらフロントに電話してなにか弁当箱になりそうな物を頼み、それが届けられる間にデザートまで平らげて行く。華奢な印象とは裏腹に、良く食べる口であった。


「さて、と・・」


 器を下げに来た係の者から、温泉の効能を聞かされて詩織の心は踊った。まだ帰って来ない天狛の分を折りに詰め、浴衣を手に取った。

 彼が部屋に入れないと困るだろうからキーをフロントに預け、そのまま浴場に歩けば湯気の香りが誘うように強くなって行く。実際見て触れば、湯は蕎麦湯の様に白くとろけて指先から伝い落ちて行く。ああ、早く身体を綺麗にして浸かりたいという衝動に駈られる。騒ぎが無ければ本当に素晴らしい宿だ。



「ああ、いいお湯だった・・」


 つい口に出して、後は寝るだけと廊下を斜めに曲がったその時、部屋の前に呆然と立ち尽くす天狛がいた。


「どうしたんですか?」


 返事が無いまま、詩織はドアを開けた。畳の部屋に大きな布団が一枚だけ。部屋を共にする事にも勇気が必要だったが、流石にこれは無い。


「旅館の人、呼びますね」


これが誰の仕業かすぐに分かる。おばあ様に違いない、予約ついでにそう仕向けたに決まっている。あの人は昔からそうだ、故意的に引っ掻き回すのが大好きなのだ。もう何かに打ちのめされたの様に、天狛は何も言わず部屋に入り、布団から一番遠い壁に座布団をかき集めて寝転がった。


「あ、あの・・お料理、取って置きましたから、お腹空いたら食べてください」


彼は何も話さなかったし、折り詰めにも手をつけない。彼女も自分に自信が無いわけでなく、何もそんなに嫌がらなくても!と思ったが、 天狛の背中は自分以外のなにもかもすべてを遮断している様に見えた。


一人には大きい布団に入り、疲れからか予想に反して少し眠った。目が開いてまだ月夜、枕元に置いたスマホで見れば時間は既に深夜だ。生まれて初めて男性と同じ夜を二人きり過ごしても、緊張より睡眠は勝る。


「天狛さん、寒くないのかな?」


詩織は、また眠気が来るまでと、丸まった背中を見つめていた。自分がまだ高校生だったあの日、出会った時から今までを思い返しながら。

人を避ける様に生き、まるで死に急ぐ様に戦い、何かを欲するワケでなく。今でも彼がわからない、ただ自分の心は把握出来ていた。


「やっぱり、私は天狛さんが・・」


心中で何かを確信した時、不意に彼は言葉を発した。それに驚いた詩織は硬直してしまった。


「なぁお嬢さん、明日は俺にやらせてくれよ・・あの女、あの女が最後に俺に逃げろと言ったんだ、だからかわせたんだよ、なあ頼むよ・・」


布団が勢い、はね除けられた。あの女の骸にはまだ微かに意志が残っていた。間近にいた天狛にはそれがわかっていたのだ。


「天狛さん・・分かりました、だから決して一人で無理はしないで。あなたの気持ちは良く分かりました、私にも手伝わせてください」


布団に背筋をピンとして座り、深く呼吸して詩織は静かに、そして嬉しそうにそう答えた。


「ありがとうよ、お嬢さん・・」


その言葉は、詩織の胸に深く染み込んで行く。口は下手でも、生き方は不器用でも

天狛の心は本来男らしい温もりに溢れていた。

それに今触れて、自分も胸が顔が熱くなった。その後、明日は私が天狛さんを守ります、と言ったが彼は再び眠ったのだろうか?返事はなかった。




「・・あ、天狛さん!?」


翌朝、打ち合わせの時刻より少し前に目覚めた。時刻の感覚は良くいつも目覚ましは必要のない詩織だが、相方は既にいなかった。

トイレや何かしらでは無い、座布団は重ねてあり、手荷物がなにも無いのだ。


「まさか・・あれは寝言!?」


昨夜、初めて心が通じたと感動したが、あれは彼の無意識的な部分だったのだ!だから自分に対する心の結界は解かれていないし、やっと芽生えた絆らしい物も彼の中では認知されてもいない。当然、約束もなかった事になる。現に置いてきぼりにされた。


「もうっ!」


珍しく大声で、彼女は急いで支度をした。




一方、天狛はまだ薄暗い山中にいた。日はまだ地平に近い、森の木々が横から射す朝日を絶っていた。


「さあ、出てこいよ・・!腹が減ってんだろうが?朝飯から歩いて来てやったぞ」


そう一人呟くと声が聞こえて来た、あの声だ。天狛は懐から得物を取り出し走る。


「オオオォーーッ!!」


森深くからの雄叫びが、鳥たちを羽ばたかせた。天狛はヴァジュラと呼ばれる武器を伸ばして、女の骸の背後に突き立てた。

土は盛り上がり、あの百足が現れた。尾に取り込んだ女の骸を切り離され、自らの末端とは言え肉体を損傷した。傷みはすぐに怒りに変わり、身体を丸めて天狛を捕まえようとする。


「喰らうかよ!」


槍の様に伸ばしたそれを支えに後ろに飛ぶ、そこに追撃の頭が来た。

その速さは着地の硬直を逃さない、顎の牙の様な肢を開いて天狛を捉えた。


「簡単に食えるとは言って無いぜ、ゲテモノ野郎!」


牙を防ぐ両腕には魔除けの札、すなわち結界を張るための呪符が巻かれていた。これは天狛が現場で培って来た知恵だ。しかし、その場しのぎに過ぎず、胴体が攻めてくる。あれに絡め取られれば一貫の終わりだ、生態は詳しく知らないが毒もあるかもしれない。


「チィッ!」


将棋でも指すように、天狛の脳裏に次の手がいくつか描かれる。しかし今回は条件の不利と準備が不足しているのだ、それを舌打ちで表現された。ままよ、とヴァジュラの角度を喉に向けた時、ヤツの身体に何かドスッと突き刺さった。


「お嬢さん・・」


詩織の放った矢であった。一瞬、自分を確認しようとした天狛に詩織は叫んだ。


「今です、天狛さん!!」


同時に詩織の矢は二本目が放たれた、ここまで巨大だとある程度の範囲が崩れるだけで致命的とはなり得ない。故に大百足の妖しはまだもがいている。


「オオ、伸びろォ!」


天狛の叫びに呼応する様に槍は伸びて、大百足の全身を串刺しにした。ところどころ、黒い霧を吹き出して瞬く間に消滅した。




「天狛さん・・」


そして朝日が木々の上に昇る頃、そのまばゆい光に照らされ、女の身体もまたボロボロと崩れ落ちていく。妖力の供給を失えば、光に弱い妖しの肉体は維持出来なくなるからだ。それを哀れみ、天狛はただ手を合わせていた。

彼女もまた、被害者だった・・せめて魂は人間として成仏して安らかに眠ってほしい、と。そんな彼の姿は朝日のせいか、神々しくすら詩織には見えた。



「お嬢さん、助かったよ・・」


天狛はこちらをまっすぐ見つめて、そう言ってくれた。


「私は当たり前の事をしたまでですよ、だってあなたの仲間ですから・・!」


そう、詩織は笑った。すると、天狛は急にハッと差し出そうとした手を引っ込めて、自分を通り過ぎて行った。捨て台詞を残して。


「次は俺一人で行く、お嬢さんが現場なんか来るモンじゃねぇぜ・・」


二人には気がつかなかったが、そんな彼の背中を見つめている視線は実は二つあった。寂し気な詩織の瞳と、木々に隠れて毬を持った、和装の少女の不気味な視線であった。


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