第十七話:別離の詩

 ドクリ。


 吸血鬼の本能をむき出しにし、その自我を失ったように見える彼女だが、その実自身とそれを取り巻く環境を客観的に俯瞰していた。吸血鬼の本能は彼女の心の表層部分のみを支配し、その根底は未だ確りとカーミラがコントロールしている、ということだ。


 であるからして、カーミラは目の前の光景をただただ驚愕によって見つめていた。


 アレクシアがゆっくりと倒れる姿がカーミラの脳裏に焼き付く。


 最初は殺し合った。それから、謝罪された。そして、少しずつ距離が縮まり、時に離れ、気まずくなったり、怒りをぶつけたり。それでも、あの女性は私を守る、その使命を常に彼女の中心に置いてくれていた。そんなこと、カーミラにもとっくに分かっていた。


 たまにだ。本当に稀に見せる柔らかな笑顔が綺麗だと思った。その研ぎ澄まされたナイフのような在り方に憧れた。一方的に、貴方なんて嫌いです、というポーズを取ってはいたが、心の底では大人として尊敬し、そして頼りにしていた。


 その女性が、今倒れてしまった。その大柄な身体を痙攣させ、目から、耳から、鼻から、少なくない量の血を垂れ流している。目はぐるりと上を向き、元々三白眼気味だったそれが今はもう完全に白目を剥いている。口からは血混じりの泡を吹き、今にも死んでしまいそうだ。そう思った。


 ドクリ。


 カーミラの心臓が脈打つ。


 ドクリ。


 私はこいつを殺さなければならない。考えられる限りの残忍な方法で、だ。


 ドクリ。


 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。


 瞳は既にどす黒い赤に染まっている。カーミラの吸血鬼としての能力。それが遂に真なる覚醒を迎えようとしていた。それに伴い、彼女の白目までもが侵食されるように真っ黒に染まっていった。






「待たせたな。お二人さん」


 そう言って笑うビリーに、ロビンはもはや動くことができずにいた。あのアレクシアがいとも簡単にやられてしまった。もう敵うはずがない。ともすれば、自身の師をあの様な状態にせしめた目の前の男に対する憎悪が吹き出しそうになるが、それを客観的に観察する自分も居た。そして彼はまだ諦めてはいなかった。


 勝てなくとも良い。負けなければ良い。死なずに、アレクシアを連れて、カーミラも連れてこの場を逃げ切る。そうすれば自分たちの勝利なのである。強化した脳で考える。考える。考える。だが、現状、ロビンだけの力でどうにかできそうな策は、どうにも思いつかなかった。


 ビリーはロビンを次のターゲットに決めたらしく、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。約数十歩ほどの距離。その距離を詰められたらお終いだ。なんとなくではない。確定した未来としてそのように予測した。


 そんな時、ちらりとカーミラの姿が目に入った。いや、感じたという方が正しいかもしれない。


 彼女は先程までとは比べ物にならないほどに、邪悪なマナを纏っていた。そのマナの気配に嫌でも気付かされる。彼女は今、吸血鬼として真に覚醒しようとしているのだ、ということに。


 ロビンが気づいたのである。彼以上の筋力強化の使い手であるビリーが気づかない道理はない。そのマナの密度に、好敵手を見つけたとばかりにニヤリと笑う。


「へぇ。それが嬢ちゃんの本気、ってことか?」


 男の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ただただカーミラは右脚に尋常ではない程の力を込める。ギリギリギリと音が聞こえてきそうなほどに。ストッキング越しでも、太い、人間離れした血管が浮き出ていくのがありありと分かる。そして、彼女は溜めに溜めた力を開放した。


 ロビンは爆発が起こったのかと錯覚した。それほどまでの衝撃を以ってカーミラは地面を蹴ったのである。地面はひび割れ、砕かれ、えぐられ、見るも無残な状態となった。そして、その力を証明するようにアレクシアよりも、ともすればビリーよりも速いスピードで真横に跳躍する。


 ビリーが驚きに目を見開く。これほどまでのスピードは彼でも出せるかどうか怪しい。だが、そんな具体的な驚きは彼には出来なかった。左頬にカーミラの右拳が突き刺さったからである。尋常じゃない威力に、首がぐるりと曲がり、そしてそれに合わせて身体も回転する。ぐるぐるぐる、と浮かび上がりながら回る。そして着地し、ビリーは地面に倒れ伏した。


 あれ? 俺今、立ってるんだっけか? 寝てるんだっけか? 頭がグラグラと揺れる。殴られた左頬がじんじんと痛み、右頬は地面の冷たい感触を感じる。目の前の景色がぐるぐると回るのを感じた。身体には力が入らない。典型的な脳震盪、その症状である。


 カーミラが倒れ伏したビリーに止めを刺そうとゆっくりと近づく。


「カーミラ! ダメだ! 殺しちゃいけない!」


 ロビンの声が、すごく遠くから聞こえた気がした。


 いや、この男は殺さなければいけない。そうあらなければいけない。死ぬべきだ。死ぬべきなのだ、こんな奴。


「まだ! まだ先生は生きてる! 魔法だ! 魔法を使って!」


「マ……ホウ?」


「僕たち三人を、帝都の外に転移させるんだ! 君のマナならできる!」


「……マホ…う。魔法」


 そうだ。私は魔術師だ。それに吸血鬼だ。魔術を、魔法を使わなくてはどうする。脳の、いや心の一部を僅かに占める彼女の理性がそうさせた。あるいはロビンの必死の叫びが届いたのかもしれない。


 イメージするのは高速。亜空間を通る転移ではない。ただただ、高速に移動するだけでいい。それならば、三人同時に転移することが可能だ。音の速さを超える。光の速さを超える。それぐらい速いぐらいで丁度いい。


「ま、待て……」


 未だに立ち上がることのできないビリーが、絞り出すように待ったをかける。その言葉にはロビンが答えた。


「待たないよ。お前は僕に殺されろ」


 ロビンがそう言って、術式を展開する。残り少ないマナを利用した全力全開だ。十本の氷の槍がビリーを囲むように作られ、そして高速で回転し始める。訓練の賜であった。少し前までは五本までしか作れなかった。だが、毎日続けた筋力強化の鍛錬のおかげで、こうしてマナの量も増え、今では十本まで一度に槍を作れるまでに至っていた。


 ロビンには、カーミラの一撃によって彼の強化が解けたことが分かっていた。今ならダメージを与えられる。


「や、やめろ……」


「やめない。お前はロドリゲス先生がやめてって言ったらやめたの?」


 酷く冷たい声を出している自覚があった。遂に槍は高速でビリーの全身に突き刺さり、少なくない量の血が吹き出る。地面に血溜まりを作りながら、彼はビクリビクリと何度も痙攣した。


 流石にここまでやれば死んだだろう。ロビンは小さくため息を吐く。アレクシアの様子が気になる。ロビンは未だ倒れ伏し痙攣しているアレクシアのもとに走り寄ろうとした。だが、それは叶わなかった。


 次の瞬間、カーミラの魔法が発動したのである。三人の身体が真っ白な光に包まれ、猛スピードで上空に飛んでいく。目的地は帝都からとにかく離れたどこかだ。


 こうして三人はようやく帝都からの脱出を果たしたのであった。






 夢のような光景を見ていた。幸せな光景だ。アレクシアはぼんやりとその情景を眺めた。


 姉さんだ。姉さんが笑っている。あぁ、なんだ。こんなところにいたんだ、とアレクシアは思った。


 笑っている隣に、誰かがいる。カーミラだ。それにロビンもいた。その他にも、グラムも、アリッサも、ヘイリーも、エイミーも居た。皆楽しそうに笑っている。


 そうか。アレクシアは思う。こういう風景を幸せと呼ぶんだろうな、と。私も混ぜてくれ。そう思い近づこうとする。だけど何故だろう。歩いても、歩いても、その距離は一向に縮まらない。


 その歩みは段々と足早になり、遂には走り出すに至った。でも、距離は一向に変わる気配が無い。なんで? どうして?


 そして、気づいた。立ち止まった。あぁ、あの光景は現実じゃない。私の最期の幻覚なのだ、と。


 ――せい!


 酷く懐かしい声が聞こえる。白銀の少女の声だ。いや、懐かしくはない。さっきまで聞いていたはずだ。だが、それでもその声が酷く懐かしく感じた。


 ――リゲス先生!


 あぁ、分かっている。起きる、起きるから。心配するな。


「ロドリゲス先生!!!」


 白銀の少女の悲鳴じみた声に、ゆっくりとその切れ長の目を開く。


「……む、こ、ここは……」


 ロビンとカーミラが今にも泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいた。いや、泣きそうな顔、ではなかった。二人共既に泣いていた。涙がポロポロと落ち、そしてアレクシアの顔にその熱い雫がぽたりぽたりと落ちる。誰だ、この二人にこんな顔をさせた奴は、と憤慨する。あぁ、違う。そうか、それは私だ。


「ロビン! 治癒の魔術が! 効かない! 効かないの!」


 カーミラが杖をめちゃくちゃに振り回しながら叫ぶ。


「……こ、この傷は、魔術では癒せない。じ、自身のマナによって……」


 ゴホッと咳がでた。口の中いっぱいに血の味がするのを感じる。


「……ぐ、ぐちゃぐちゃに傷つけられたものだ。ま、魔傷(ましょう)とでも呼ぶべきだろう……。に、肉体的な傷が一つも付いていないのだから。ち、治癒の魔術が効かないのは、当然……だ」


「嫌だ! 嫌よ! 三人で生きて帰るって言ったじゃない!」


 カーミラがその長い髪を振り乱しながら悲鳴じみた叫び声を上げる。


「……ジギルヴィッツ。あ、貴方は、私のことを嫌っていたのでは……」


「嫌いよ! 嫌い! 大っ嫌い! 今死んじゃったりとかしたら! 本当に大っ嫌いになるんだから!」


「……ふふ。な、なんとも優しい『大嫌い』だな。そんな優しい言葉を私は聞いたことがない……」


 自然に、本当に自然に微笑む事ができた。こうまで自然に微笑みを浮かべることができたのは何年ぶりだろうか。この少女は吸血鬼という怪物でありながら、そう、泣いてしまいそうな程に人間らしい。人をいたわることができる娘だ。正義を分かっている娘だ。私には終ぞ、正義などなんなのかはわからなかったな、と嘆息する。


「ロドリゲス先生……」


 ボロボロと男のくせに涙を流しながら、アレクシアの名前をつぶやくロビン。あぁ、こいつもなんて気持ちのいい男なんだろうか。空っぽだったアレクシアに、生きる意味、幸せの意味、人を守ることの意味。それらを思い出させたのは、間違いなくロビンだ。二人で行った数々の訓練を思い出す。ロビンが彼女のしごきに着いてこれたのは、奇跡に近い。自分は手加減を知らない女だ。そんなこと、アレクシアにもわかっていた。


「……ウィンチェスター。そ、そんな顔をするな。思えば貴君には色々と大変な思いをさせた。い、いくら訓練だからと言ってもな……。や、やりすぎるのが私の、わ、悪い癖だ」


 すまない、と小さくつぶやく。アレクシアのそんな言葉に、ロビンは増々涙が止まらなくなってしまうのだ。


「い、いいか? 帝国式の転移魔術が使えたな? それで王都に転移しろ。わ、私はあと数分で死ぬ。亡骸は放っておけ。どうせ魔獣や野獣が食い散らかす。ほ、骨一つ残らない」


「嫌だって言ってるじゃない! 三人で帰るのよ! 生きて! そんでエリーに、やってやったって笑ってやるのよ!」


 嗚咽しながら叫ぶカーミラの言葉に、あぁ、それもいいかもな、と呟く。でも、もうだめなのだ。自分の身体のことは自分が一番良く分かっているものだ。アレクシアはもう助からない。


 仮に王都に今すぐ戻れば十分な治療を受けられるかもしれない。九死に一生を得て、生きながらえるかもしれない。だが、アレクシアは杖を捨てた魔術師だ。全てがかもしれない、それ以上でも以下でもない話なのだ。ペルモンテでロビンが買った新型の転移魔術は一人用。自分自身を転移させるものだ。アレクシアを王都まで一瞬で運ぶ手段は無い。カーミラのマナもビリーとの戦闘と、先程の魔法のせいでほとんど空っぽだ。


「……二人共。聞いてくれ……」


「聞きたくない!」


 カーミラが嫌々と頭を振りながら叫ぶ。だが、聞いてもらわなければならない。アレクシアはもはや痛みすら感じなくなってきた身体に鞭を打つ。


「良いから聞け!!!」


 大声を出したことで、また数度咳き込む。次から次へと、胃から、肺から血が溢れてくる。その鉄臭い味にアレクシアは心底辟易とした。だがそんなことはどうでもよい。伝えたいことがある。伝えなければならないことがある。


「……貴君らといた、数ヶ月。悪くなかった」


「そんな、遺言みたいなこと言わないでよ……」


「馬鹿者。遺言みたいな、ではない。遺言だ……」


 ニコリと笑う。なんで私が珍しく笑っているのに、こいつらは泣き顔なんだろう、と疑問に思うが、やはり先程の結論にたどり着くのだった。原因は、私だ。


「学院長に感謝を。王女殿下にも感謝を。ありがとうございました、とそう伝えてくれ」


「そ、そんなの、自分で伝えなさいよぉ……」


 カーミラが泣き叫びながら、地面に膝をつく。その茶色に染まった長い長い髪を、アレクシアが慈しむように手で梳く。もう右腕を動かすのが精一杯だった。右腕すら動かすのに大層苦労した。だが、涙を流す目の前の少女に、アレクシアはそうしたいと、そう思ったのだ。


「……そう泣くな。いつ死んでもおかしくない人生だった。それが今来た。それだけの話だ」


「そんな、そんな悲しいこと言わないでよぉ」


 二人のやり取りにロビンはただただ涙を流すばかりで、何も口を挟めない。


「……ジギルヴィッツ。ウィンチェスター。私は貴君らといた数ヶ月。この数ヶ月が、本当に流れ星のようにあっという間で、大切で、楽しくて、嬉しくて、今この瞬間だって鮮やかに思い出せる。ありがとう……」


 それが、彼女が絞り出せた最後の言葉だった。ゆっくりと目を閉じ、浅く短かった呼吸が、増々短くなっていく。呼吸のその間隔がどんどん狭くなっていき、そして最後にふーっと大きく深呼吸をした。そして、その後アレクシアが呼吸をすることは二度となかった。


 カーミラがすすり泣く。ロビンが涙を流す。


「大嫌いなんて嘘……。嘘よ……。何が『ありがとう』よ……。大好きに決まってるじゃない! 大好きって言わせてよ……。訂正させてよぉ……。嘘だって言わせてよ! 聞いてよ! 嘘なんだって!! 大好きなの! 私、先生のこと大好きなの! ……大好きなのに……」


 アレクシアの亡骸に、カーミラが覆いかぶさる。まだほのかに温かい。これが死んでしまっているなんて嘘みたいだ、と誰もが思うだろう。彼女の顔、その死に顔は、心の底から満足そうな微笑みであった。


 アレクシア・ロドリゲス。帝国出身の王国貴族。爵位は男爵。職務は怪物処理人と魔術学院教諭。享年二十三歳。闘争に生き、闘争を好み、闘争の末に死んだ。波乱に満ちた人生の幕引きだった。

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