世界一幸せになる男の話~やさぐれ少年は死ぬまで彼女の傍にいる~
木鳥
序章 アリス
第1話 アリスとの出会い
高校二年生。春。
俺の目の前で車に人がはねられた。
薄暗い夜の交差点で信号待ちをしていた時、トラックが横断中の少女を轢いたのだ。
「――っあ」
喉から肺に溜まっていた息が一気に吐き出される。間抜けな声が一緒に漏れた。
その状況をあざ笑うように夜風が、肌を冷たくなでている。
相反して心臓がドクドクと音を鳴らし血液を巡らすので、額からは汗が漏れた。
呆然と立ち尽くす自分への警告かもしれない。
正義のヒーローのように、困っている人を見て瞬時に動ける人間なんて極稀だ。特にそれが、命の危険を伴うともなれば。
なぜなら、人間は所詮自分の損得でしかものを考えない。世間一般の良い奴っていうのは、相手を助けたときの自己肯定感に酔っているだけだ。
恵まれた環境で育てられ、欲求階層の最上位、自己実現の欲求を叶えるくらいしかすることの無い人間の道楽。それが人助け。
本当に他人のために命をかけられる人間なんて存在しない。どんな麻薬よりも強力な偽善という思考が脳を麻痺させているだけなのだから。
――だから。俺の行動は仕方の無いことだ。俺はその善人ではないから。
何故かその光景を見て最初に浮かんだのが自分への擁護だったことに我ながら驚愕する。
交差点で、スマホを見ながらトラックを運転していた人に同年代くらいの女子がはねられた後、俺が行動を起こすまでに数秒のラグを作ってしまった。
「とりあえず、き、救急車だよな!」
学生服のポケットからスマホを取り出し、緊急通報をしようと試みる。
驚いたのはトラックがそのまま通りすぎていったことだ。
――轢き逃げ。
「ふっざけんなよおい!」
そう思い慌てて後を追おうとするも、追い付けるわけ無くすぐにトラックは角を曲がり姿が見えなくなる。
悪人。いや、どんな人間でも同じ行動をとる可能性はあるだろう。
家族や恋人とか、自分の守りたい幸せになって欲しい人に迷惑をかけたくないから。だから、誰かに迷惑をかけたくなかったからという理由で気づいたらアクセルを全開、全力逃走なんて話もよく聞く。
善意とは、本当に響きの良い。あらとあらゆる物事の免罪符になり得る狂気の思考だ。
「……ど、どうすれば。今から追っても遅いし、人間の足で追いつけるわけがない! そ、それよりもあの女の子が先か!?」
周囲を見渡すが、何も案は出てこないし頼れる人もいない。軽いパニック状態になってしまいそうだ。
普通は救急車を呼ぶ、その一択しかないというのに。実際に人が死ぬ瞬間を目にしたら、ドラマのような冷静な行動はできないもんだ。
「……? なんで慌てるの?」
疑問符を独り言にのせて、誰かの声が聞こえる。
一人で慌てていた俺の耳をツンと突くように、聞こえるはずのない声が夜の闇の中で背後から発せられた。
そう。聞こえるはずがない声。
だって、おかしい。俺以外の何者かの存在があるはずない。さっき確認したように周囲には誰もいなかったのだから。
声色からして落ち着いた女性といった印象を受けた。女性だ。後ろにいるのは。
奇遇にもこの場にもう一人。俺が数として認識していなかった人がいる。だってそいつを今の状況で頼れる人間の一人としてカウントするのは、あまりにも突拍子のない発想だからだ。
悩んでも話は進まないので意を決して振り返る。
「――な!?」
言葉が詰まった。息が正常に吐き出せない程、きゅっと喉が締め付けられる感覚に陥る。
だって、そこには立っていたんだ。今目の前で車に轢かれた少女が。
絹のように綺麗な珍しい銀色の長髪に、雪のように白い肌。透き通るような空を思わせる蒼眼、春の桜のような淡い薄紅色の唇と、顔全体のバランスがまるで黄金比だと感じてしまうような目と鼻の位置。百人いや万人が見てもその全てが思わず二度見してしまうだろう。
そう考えても誇張でない程に目の前の少女は、大方この世のものとは思えない絵本のお姫様のような儚くも愛嬌のある美しい容姿をしていた。
「後ろに何かいる?」
少女が後ろを振り向く。そして、何もない歩道を見て首をかしげた。こいつ俺が何で困っているのかを理解していないな……。
俺は状況への困惑と相手の容姿、それらに二重の意味で呆気にとられている。心拍数は相変わらず普段よりも多い。
「いや……あんたを、見てた」
やっとの思いで振り絞った声は、なんというかまあ、ひどいナンパの口上みたいなもんだった。
しかし、少女は俺の言葉に鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり、それまでクールという言葉が似合いそうだった目を大きく見開く。
「み、見えてるの……?」
疑い八割、期待二割の感情を俺に向けてくる。改めて視線を合わせると少女の非現実感が強まる。本当に人形みたいだ。
「あ、ああ。見てた、車が通っていくところからな――、藪から棒になんだがもしかしてあれか? 不可思議なオカルト的なやつか……?」
「ひゅー。どろどろ~、のやつ?」
「多分それのことだ」
「かきーん。ころころ~、のやつ?」
「野球じゃない」
「ざぁー。ゴロゴロ~?」
「雷か」
「じゅー、はふはふ、もぐもぐのやつ?」
「焼き肉か。って話をそらすな! 真面目に聞いてるんだ!」
俺よりも背の低い少女は、何を考えているのかわからない程の無表情でジェスチャークイズのようなものをしていた。
ますます訳がわからん。
「ふう、冗談はここまで。聞きたいことあるの」
「この状況でよく冗談言ってたな」
なんて、俺の軽口をよそに少女はその清らかな腕を伸ばしてきた。
突然俺の肩に手を置き顔を近づけてくる。
な、何をするだ! と、その腕を振り払えば良かったが俺はどうしてか動揺するだけでその行動を拒絶できなかった。
既に目と鼻の先にある少女の顔。互いの吐息が一定のリズムで交差する。
一瞬か数秒か、視線を合わせる。聞こえているのはもはや釣れた魚のようにバタバタと暴れる自分の心音だけだ。
そして、少女はおもむろに俺の耳元に口を近づけ――、
「私の、過去を知らない?」
はっきりとそう口にした。生暖かい息が耳に入ってくる。
幽霊のくせに呼吸には生きているかのような温度が籠っていた。
しかし、俺にはその息が脳髄まで響いたかのような感覚があり全身が凍り付く。筋肉が強張って直立で立ち尽くしたまま咄嗟に動かなかった。
「ざ、残念だが知らない! もっと博識そうな奴に聞いてくれ! それじゃ達者でな!」
その時、恐怖が爆弾のように破裂した。
目の前で人が轢かれた時は電柱のように微動だにしなかった足が、情けないことに幽霊女の囁き一つで堰を切ったように躍動したのだ。
徒歩三分ほどの我が家まで、止まること無く俺は逃げる。
「……やっぱり、駄目だった」
動き出し幽霊女に背を向けた瞬間。背後からそんな声が聞こえた気がしたけれど、構っている余裕は無かった。
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