ファースト・アット・バット
『横島』
その表札がかかるドアの前で、俺は深く息を吸った。
換気口から漏れ出る何か美味しそうな匂いが肺に流れ込む。きっと俺が家に来るからと、ひぃが用意してくれたんだと思う。嬉しくて、つい頬が緩みそうになるが、同時に「絶対に引き下がれないところまで来てしまった」という緊張感に襲われる。
左胸に収まる心臓の鼓動が、周りの蝉の声よりもうるさい。背中に汗が伝うのが分かる。ダンベルでも持ち上げるみたいに、ゆっくりと震える指先を横島家のインターホンの上に乗せながら、俺はつい先程の職場でのやり取りを反芻していた。
◇
「ええっ!友先生、今日初めて彼女ん家行くんですか?」
「しっ!こ、声が大きいですって!」
午後十八時半頃、退勤前に寄った男子更衣室にて。偶然会った同僚の「吉田先生」と俺はちょっとした世間話をしていたつもりだった。
まさか「友先生は夏休み、何か予定とかあるんですか?」「えー、まだ何も……」「噂の彼女とどっか行かないんですか?泊まりとか」「あ、それなら今日……」とうっかり口を滑らせる羽目になるとは思わなかったけど。(ていうか噂になっていたんだ)
そう。俺は今日、この後。一人暮らしをしている恋人──「ひぃ」こと「横島 仁」の家に、初めて泊まりに行く。
家に行くのは初めてじゃないけど、今日はいつもとは違う。「お泊まり」なのだ。つまり、一晩を共に過ごすということ。恋人とそうなるということはまあ、多少はそういう「予感」が、どうしてもあるわけで──。
「やだなー友先生。昨日、終業式で生徒に『夏休みだからって羽目を外しすぎないように』って、僕言ったばっかりなのに。やることやってるんですね」
「や、やってませんよ!まだ!」
「でもご予定はあるんですよね」
吉田先生がくすくす笑っている。なんだか恥ずかしい。これ以上、余計なことを言ってしまう前に早くここを出よう。ひぃも待ってるし。
「じゃあお先に」と足早に更衣室を出ようとして、誰かに前を塞がれる。顔を上げるとそこにいたのは──。
「おーっす。友先生、今帰り?」
「げ。大沢先生」
俺よりもずっと先輩の体育主任「大沢先生」だ。一見チャラそうだが、めちゃくちゃ頭が切れるので、捕まったら最後、洗いざらい喋らされるに違いない。面倒だからさっさと帰りたいところだけど……。
「げ、って何だよ。げって。やましいことでもあんの?」
「いえ、何も……」
「友先生、今日初めて彼女さん家に泊まるんですって」
「マジで!?え?今から?やっば、超面白いじゃん。頑張れ、友先生~」
「はーい、頑張ります!ではお先に失礼……」
「いや、ちょっと待ってよ。友先生」
さらっと切り抜けようとしたが、大沢先生は前をどかない。それどころか、その顔は悪戯を思いついた子どもみたいにニヤニヤしている。ほら、こうなった。俺は、半ば諦めつつ、口を開く。
「まだ何か……?」
「友先生、頑張るって何を頑張るの?」
「えっと……楽しむことを、頑張ります」
「何を?」
「それは……」
「せっ」
こほん!とわざと咳払いをして、吉田先生の発言を遮る。危ない危ない。
大沢先生は切れ者だけど、吉田先生は天然でとんでもないことを言ってしまうので、それはそれで気をつけなければならない。
前門の大沢、後門の吉田だ。はあ、一体どうしようか。
そんなことをぐるぐると考えていると、大沢先生が頭を掻きながら言った。
「はー、なんかもういいや」
「え?」
俺が呆気に取られている様子を見て、大沢先生は笑う。
「そんな怒られる前の子どもみたいな顔されたら、さすがにこれ以上聞く気しねえって。冗談だよ、冗談」
「えーいつも、イキイキと子どもに雷落としてるくせに」
「吉田、マジ黙っとけ」
大沢先生が吉田先生を小突く。それから俺に「彼女待ってんだろ?早く帰れよー」とひらひらと手を振る。たぶん、俺はもう解放されたってことなんだろう。助かった……。
二人に挨拶して更衣室を出ようとした時、俺は少し考えた。
さっきまではピンチだと思ってたけど、二人は俺よりも人生の先輩である。折角の機会だから、やっぱり何かアドバイス……貰っておこうかな。
「あの、ちょっといいですか?」
「何?やっぱり根掘り葉掘り聞かれたい?」
「いや、それは遠慮しますけど。その……お二人に相談したいことがあって」
うん、と頷き、二人とも俺の方に向き直る。俺は意を決して口に出した。
「こういう時って、どうやって、その、『そういうことをする』流れになるんですか?」
「えっ友先生ってもしかして、ど」
「あー、何。そういう相談?」
大沢先生に手で口を塞がれた吉田先生がぱちくりと瞬きしている。……皆まで言われたわけじゃないけど、何故か少し胸が痛い。
大沢先生が腰に手を当て、頷きながら言った。
「そっか、そっか。これはちょっと真面目にアドバイスしないといけないな、な?吉田」
「そうですね。誰でも最初は一年生ですもんね」
「そうだ。ドキドキしてもドンといった方がいいぞ」
「えっと、もうちょっと具体的にください」
大沢先生と吉田先生は宙を見つめ、暫し考え込む。それからこう答えてくれた。
「あとはノリだな」
「流れ、じゃないですかね」
「あ……なるほど……分かりました。ありがとうございました」
俺は今度こそ「お疲れしたー」と言って更衣室を出ようとするが、「まあちょっと待て」と大沢先生に呼び止められた。
「友先生、最後に一個だけ。いい?」
「は、はい……?」
「こういうのはさ、結局、自分だけで抱えない方がいいと思うわ。そりゃ、カッコつけたいって気持ちもあるだろうけど……一人ですることじゃないだろ?二人のことなんだからさ、恥ずかしがんないで腹割って話し合えよ。こんなことでって思うかもしれないけど、一緒にいる上では結構大事なことだぞ」
「はい、早く行った行った」と大沢先生に背中を押されるように、俺は学校を出る。それからひぃの家に着くまで、俺は大沢先生の言ったことをぐるぐると考えていた。
◇
「何してんの?」
「うわ」
ガチャ、と突然ドアが開き、中からひぃが顔を出す。驚きのあまり、俺は一歩後ろに退がってしまった。そんな俺にひぃが笑いながら言う。
「台所の窓越しに人影見えたから、友かなって。早く上がんなよ」
「あ、うん。ごめん、なんか緊張しちゃって」
「緊張?」
不思議そうに首を傾げるひぃ。それから、俺の首筋を手の甲でさらりと撫で、ふっと笑った。
「だからこんなに汗かいてるの?」
からかうようなひぃの笑顔に、俺はますます、ドキドキしてしまう。やばい。これは何か、やばいぞ。
ひぃは俺にとって九年来の親友ではあるが、やっぱり恋人でもあるし、「そういう対象」になるのだ。そのことを改めて意識させられる。
俺がいつまでもその場から動けないでいると、「おいで」と手を引いて、ひぃが家の中に招き入れてくれた。
座布団半分くらいの小さな玄関で、靴を脱ぎ、いよいよひぃの家へと足を踏み入れる。
「友」
先に部屋に入っていたひぃは、俺の方を振り向いて言った。
「おかえり」
柔らかく微笑むひぃ。その言葉で、俺は全身にぱあっと温かいエネルギーが満ちていくような気がした。俺も笑顔でひぃに返す。
「ただいま!」
顔を見合わせて、どちらからともなく笑いだす。ふと、台所から漂うその匂いに気づき、尋ねた。
「もしかして……これウインナー?」
すると、ひぃが得意げに答える。
「シャウだよ」
「えっ?!マジで!?」
「うん。あと、唐揚げもあるし、卵焼きも焼いたよ。あとね、味噌汁もある」
「うわー!ひぃ大好き!」
俺はテンションが上がり、思わずひぃをぎゅうっと抱きしめる。少し驚きながらも、ひぃは俺の背中に手を回して受け入れてくれた。
くすくす笑いながら、ひぃが言う。
「ふふ。友が好きなのはご飯の方なんでしょ?俺のことはついでのくせに」
「違うよ。どっちも好きだし」
「どっちかにして」
「ご飯」
ぷくっとひぃが頬を膨らます。でも怒ってないってすぐに分かる。だって目が笑ってるから。
「嘘だよ」
そう言って、腕を解き、ひぃの体を離そうとする。すると、今度はひぃにぐいっと抱き寄せられ、驚く間もなく、唇に軽くキスされた。
唇が離れた後、ひぃが笑って言った。
「……友、めっちゃ汗の匂いする。早くお風呂入っといで」
背中をぽん、と叩かれ、俺はひぃから解放された。「へい」と自分でもよく分かるくらい、気の抜けた返事が口から漏れる。それになんだか頭がポーっとする。
今からこんな調子でどうするんだ、この後。
手で口元を抑えながら、俺はふらふらと風呂場に向かった。
◇
「うーん……早く入れてほしいんだけどなー……友」
「えっ!へ……?!そ、そうなの?」
『さあ三連戦初日のマンダリンドーム。ドリアンズ対アップルズ。現在九回表までを終えて、0対0。互いに得点を許さない展開が続いております』
「うん。点……入れてほしいよね」
「……そうだな」
夕食と片付けを終え、ひぃと並んでテレビを見る。野球中継だ。俺もひぃも熱心なファン……というわけではないが、試合を見るのは好きなので、シーズン中はこうして中継を見ていることが多い。
ちなみに二人とも特に贔屓の球団があるわけではなく、何となく地元に近いチームを応援している……という程度だ。
しかし、今日は全く試合の内容が頭に入ってこない。こうして肩と肩をぴたりとくっつけて並んで座るなんて、別にいつも通りなのに……ひぃの体温が妙にはっきり感じられるのだ。緊張でお腹のあたりがぎゅっとなる。
ちらりとひぃの横顔を見る。
これまたいつも通りだ。何も変わらない。俺を部屋に入れるのは初めてじゃないけど「お泊まりは初めて」という状況は俺と全く同じはずなのに。意識しないんだろうか?
いやまあ、そもそも「泊まりにきてよ」と誘ってきたのはひぃの方だ。ひぃが「そういうつもり」で俺を家に呼んだのかは分からないけど……そりゃ緊張なんかするわけないか……。
そうでなくても、ひぃは焦ったり、余裕をなくしたりするところなんてほとんど見せないのだ。俺とは違う。
大沢先生の言葉が頭をよぎる。
『自分だけで抱えない方がいい』
でも、一体どうすれば。
「友?」
ぼんやりしている俺に気づいたのか、ひぃが顔を覗きこんでくる。う、顔が近い。直視できず、つい目線を逸らしてしまう。そんな俺に、ひぃが言った。
「……友、何かあった?」
「え、その。いや、何もないよ。まだ」
「まだ?」
「あー、なんていうか、大丈夫!ちょっと考えてただけだから。ひぃ、可愛いなあって」
「何だそれ」
すると、こてん、と俺の肩にひぃが頭を乗せてきた。
「ひぃこそ、何?急に」
「んー。なんでもー」
にこにこと何やら楽しそうなひぃ。
か、可愛い!さっきのは正直、適当に言ってしまったことだが、これは本当に可愛い。
一瞬、不安が吹き飛んでしまう程だ。
おまけに何だかいい香りがする。ひぃの髪からかな。風呂場で借りたシャンプ──の香りだ。ということは、俺も今ひぃと同じ香りがするってこと?やっば……。
「お、次の子、初めて見るね」
悶々とする俺を他所に、ひぃがそう言うと、画面の中では、先日から一軍に合流したばかりと紹介された、若手選手がバッターボックスへと入っていく。
九回の裏、ツーアウト満塁。サヨナラのチャンス。
この場面を託されたチームの若き希望は今、バットを構え、まっすぐに前を見据える。その姿は、気負いなどは微塵も感じさせず、とても勇ましい。
俺なんかとは大違いだ──でも。
スタンドからは「迷わず振り抜け」と鼓舞する歌が聞こえてくる。そのエールは選手に向けられたものであるはずなのに、不思議と俺も勇気が湧いてきた。
「ひぃ」
俺は意を決して、ひぃに切り出す。よし、俺も勝負だ!
「何?友」
「その、ひぃはさ……」
「うん」
「今なんか、やりたいこととかある?」
「えー?うーん……梅酒作りとか?」
『ファウル!』
テレビの中で、バットに当たったその一球はネット裏に吸い込まれていく。
「一発」に足らないその一打は何かが違うみたいだ。ちょうど今の俺の切り出し方みたいに。
俺は気を取り直して、もう一度ひぃに尋ねた。
「いや、そういうのじゃなくて……」
「ん?違うの?」
「何ていうか、その」
「うん」
「今、俺としてみたいこと、とかない?」
「深めのちゅー」
『ストライク!』
とんでもない豪速球にバットを出すこともできない。ひぃ、恐るべし。
「ふ、深めのちゅー……って何?」
「俺達っていつも唇をちゅっちゅっ、て軽く合わせるだけじゃん?もっと……深めのがしたいなって」
「ヘ……?そ、そんなの、どうやって…….」
「友もしてみたい?」
「う、それは……」
「どっち?」
また、ひぃの顔が近づく。互いの鼻先が触れ合い、唇までの距離はほんの数センチほどだ。
このまま流れに身を任せれば、俺はひぃと「深めのちゅー」をするのだろうか。
だけど、やられっぱなしなのは何となく嫌だ。バクバクと鳴る心音に思考を乱されながらも、俺は微かな抵抗を試みる。
「そ、そんなこと言うけど、ひぃはさ」
「ん?」
「したことあるの?深めのちゅー」
目をすっと細めて、ひぃが答える。
「ない」
「ふ、ふーん……」
「えー、何その反応」
ひぃに俺の両頬をむぎゅむぎゅともみくちゃにされた。頬をさすりながら俺は言った。
「したことないのに、余裕ぶってるんだ?」
「ぶってないし。余裕ないよ」
そう言うと、ひぃは俺の首に手を回して耳元で囁いた。
「ちゅーしたい、友」
「さ、さっきしたのに?」
「あんなのノーカンだから」
ひぃが指先を滑らせて、俺の背中にぐるぐると小さな輪を描く。そわそわして、ちょっとくすぐったい。
「あるじゃん……余裕」
ふと目に入ったテレビには、先程打席に入った若手選手がバットを構えている姿がまだ映っている。
『さて、この打席いきなり追い詰められましたが、その後はしっかり球を見極め、粘り強くチャンスを窺っています。カウントはスリーボール・ツーストライク。一発出ればサヨナラのチャンス……』
ピンチだ。俺も、彼も。
俺の場合は、このままひぃに全部委ねてしまえばそれでいいのかもしれないけど。でも、そうじゃなくて。
ちゃんと自分の意思で、この先に進みたいから。
俺は、ふう、と一度深呼吸する。それから、ひぃの両頬に手を伸ばし、その瞳をまっすぐに見て言った。
「ひぃ」
「……何?」
「あのさ……ちゅーじゃなくて」
「うん」
「決めろ」と声援が響く。
「男になれ」と書かれたタオルがスタンドで掲げられているのが視界の端に見えた。
今だ。
「ひぃの手で俺のバットを男にしてくれないか……?」
『デッドボール!』
『まさか、このような結末を迎えるとは……。かなり強烈な一球。下腹部を抑え、立ち上がれないようですが……大丈夫でしょうか……?しかしながら、ドリアンズ、押し出しでサヨナラ勝利です!』
ひぃは目をぱちくりさせ、明らかに困惑していた。そのうちに、見たことがないくらい顔を真っ赤にして、首に回していた手をそっと解く。
俺は頭を抱え、床に突っ伏した。
奇しくも、画面の中の彼と同じポーズで。
◇
「ふふ……あはははっ!バットって……!俺の!バットって……!しかも、男、男にして……!ははは……あははははっ!」
「もう!ひぃ、笑いすぎ!」
ベッドの上、隣で笑い転げるひぃの脇腹をぺちぺちと叩く。ちなみにまだやってない。
あの後、お互いに少しクールダウンしたところで、ひぃが「ちょっと横になろ」とベッドに誘ってきたのだ。
しかし、冷静になるとツボにハマってしまったのか、ひぃはこうしてずっと笑っている。くそー……。
ぜえぜえ、と息を整えながらひぃは、俺に尋ねる。
「……何であんなこと言ったの?」
「分かんないよ……なんか、いろんなことが頭の中でわあーっとなって、行くしかない!と思ったら言っちゃったの」
「素直に俺の誘いに乗ってればよかったのに」
「う、ううー……そうなんだけど、でも」
俺は天井を見上げる。言おうか、言うまいか。
少し迷ったが、もう駆け引きはこりごりだ。腹を割って話そう。じっと俺の言葉を待つひぃに、俺は言った。
「……ひぃだけじゃないって分かってほしくて」
「俺だけじゃないって?」
「いつも、キス、とかするの、ひぃからじゃん?俺、そういうの自分からするの苦手だし。でも、別に流されてるわけじゃなくて……したい、とは思ってて。それで、もしここから先に進むなら、ひぃだけがそういうの、抱えてるみたいなのは、嫌だなって。俺も、ちゃんと自分から誘いたいって考えたんだけど……まあ、ああなったな……」
「友ってさ」
ひぃは手を伸ばし、俺の頭を撫でながら言った。
「ほんと……めちゃくちゃ、いっぱい考えてくれてるよね。俺なんかすげー適当なのに」
「適当?」
「さっきも『深めのちゅー』とか言ったけど、ほんとはそれ以上するつもりだったし、ちゅーしたら後はノリでいけないかなって。そんなんだよ」
「うわあ……」
「はい。これで友も俺に引いたから、あいこね」
ひぃが、にっと笑う。俺もつられて笑い、なんとなくお互い「いぇーい」とグータッチした。
それで、とひぃが言う。
「ここからどうする?一応、必要なものは用意したんだけど」
「あ、俺も……」
ひぃがベッド下の収納スペースを指差すので覗いてみると、封の開いていない「それら」があった。俺もリュックの中からドラッグストアの袋を取り出し、ひぃに見せる。
考えていることがこうも同じなのだと分かり、二人でげらげら笑い合う。
「あとは、どうやるか、って感じ?」
「ひぃ、やったことないの?」
「友、怒られたい?」
「ごめん」
「まあどうせ友もないだろうし……調べながらやってみよっか」
「あ、あるかもしれないじゃん」
「ある人はあんなひどい誘い方しないから」
「それはもう勘弁してー……」
くすくすと笑いつつ、ひぃがスマホを持ってきた。そして、再びベッドにごろりと転がって、何やら検索している。その様子に俺は思わず呟く。
「こんなスマホで調べながらやってるカップル、普通いないよな……」
「あはは、まあそうかもね。でもさ」
スマホの画面から顔を上げ、ひぃが言った。
「普通とか、考えるのやめよ。俺は友とこんな風にゆっくり何かを始めていくの、好きだよ」
「ひぃ……」
──思い切って話してよかったかもしれない。
大沢先生の言う通りだと思った。一人で抱えてるより、こうやって、ひぃと一緒に進んでいく方がずっといい。
「ほら、このサイトにも『お互いリラックスして心を開くのが大切です』って書いてある」
ひぃが画面を見せてきた。……本当だな。
しかし、俺としてはつい、その下に続く「手順」の項が気になってしまう。と、ここで気づく。
「ひぃ、これさ……」
「うん。何?」
「俺達って……『どっちがどっち』やるんだ……?」
「それは……」
俺もひぃも、宙を見つめてしばらく考える。やがて顔を見合わせると、声を揃えてこう言った。
「「じゃんけん、ぽん」」
◇
「負けちゃったなー……」
薄暗い室内で、ひぃが天井に向かってピースサインを掲げながらそう呟く。
「……嫌だった?」
布団の中でもぞもぞと体を捻って、ひぃの顔を見る。ひぃは首を振って言った。
「全然。むしろ代わってって言われても代わる気ないくらい」
「そんなに?」
「そうだよ」
ひぃが体をこっちに寄せてきたかと思うと、こつん、と額に額を当ててきた。ひぃのさらりとした前髪が鼻筋を撫でる。俺はひぃの肩を抱いて引き寄せると、上唇に軽くキスした。ひぃがふにゃっと笑って言った。
「負けたのに、こっちの方が得してるかも……」
「大したことじゃないじゃん、こんなの」
「でも友にとってはそうじゃなかったでしょ」
「『かった』っていうか……今もだよ。こんなこと明日朝起きたら絶対できないし……」
「えー……じゃあもう一回もらっとこ」
ひぃが目を閉じて唇を突き出してくる。俺はそれを手で制すると、不満そうにしているひぃの額にキスした。
「はい、もうおしまい!いい加減寝よう、ひぃ」
これ以上、ひぃのにこにこしたご機嫌な、可愛い顔を直視できない。俺はごろんと寝返りを打ってひぃに背中を向ける。すると、ひぃが話しかけてきた。
「友」
「んー?」
「友が流されてるわけじゃないって、俺、分かってたよ」
「へ?」
思わず、ひぃの方を振り向く。
「友から見て、今日の俺、全然嫌がってるように見えなかったでしょ」
「……うん。でも」
「本当は嫌がってたら、とか。そんなのないから。嫌だったら、友の前では普通に顔に出すし。友が見たまんまなんだよ、俺。だから、もっと友が見て思った俺を信じてほしい」
「ひぃ……」
「俺も見たまんまの友のこと、結構何も考えず信じてるしね。いや、もうちょっと考えた方がいっか……?」
「ううん。そのままでいい」
首を振ってそう言うと、俺はひぃをぎゅっと抱きしめた。そうしたくなってしまった。ひぃも背中に手を回してくる。
やっぱり、ひぃが好きだ。
そう噛み締めていると、ひぃが言った。
「じゃあ、これからもっと友のこと積極的に誘ってみるね。『したいと思ってる』って言質とれたし。あー同棲楽しみだなー」
「えっと……お手柔らかにお願いします」
<ファースト・アット・バット 完>
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