武装宣教師ヒカリノ
甘木智彬
彼岸のユートピア
第1話
" Le soleil luit pour tout le monde. "
― 太陽は万人に照る。― フランスの諺
†††
「みんな逃げ切れたかなー」
茜色に染まる空の下、鉄塔に登った少女は、ひとり黄昏れていた。
いや――『ひとり』と言うには、語弊があるかもしれない。
「アアアー」「ヴウウー」という無数のうめき声が、そこら中に響き渡っている。
鉄塔を取り囲む、人、人、人――だったものたち。どす黒く変色した肉、でろんと剥げた顔の皮、白く濁った瞳。歯並びがむちゃくちゃになった口からは、得体の知れない体液が滴り落ちている。
俗に、ゾンビだとかアンデッドだとか呼ばれる存在。それが生者を――つまり少女を求めて、眼下にひしめき合っていた。
「これが袋のネズミってヤツかー」
まるで他人事のように。
ひーふーみー、と数えようとして、あまりの不毛さにやる気をなくす。この密集具合を見ていて、ふと高校の文化祭を思い出した。バンドを組んでステージに上がったとき、すし詰めになった観客たちに圧倒されたものだ。
世界がまだ平和だった頃は、歌手に憧れていた。世界が滅んで、将来の夢も崩れ去ったが、拠点では小さな子供たちによく歌を聴かせていた――消音器をつけたギターを弾きながら――
少女は頭を振る。脳裏によみがえった子供たちの笑顔をかき消すように。
「……イエエエイ! みんなノッてる~!?」
ふざけて叫んでも、返ってくるのはうめき声だけ。さすがにテンションが下がる。空元気もそろそろ品切れだった。
「……痛いなぁ」
柵にもたれかかりながら、左腕を押さえる少女。ジャケットの袖ごと、肉が食いちぎられていた。紫色に変色した傷からはじわじわと血が滲む。
それほど深くはないが、致命傷だった。
噛まれた者は、『感染』する。生きながらにして肉が腐り始め、凄まじい苦痛に苛まれた挙句、発狂して最後には、ゾンビに成り果てる。死すら許されぬ、生者を襲うだけの、動く屍に成り果てる――
原因はわからない。未知のウイルスなのか、どこかの国の生物兵器なのか。原因が判明する前に世界が滅んでしまった。いずれにせよ、治す術が見つかっていないことだけは確かだ。
だからこそ、少女は、仲間を逃がすための囮役を買って出たのだ。もう助からないと、皆も自分もわかっていたから。
「でも……ああなりたくはないよなぁー」
眼下にひしめくゾンビの群れを眺めながら、少女は消え入りそうな声で呟いた。力なく鉄塔に背を預け、ずるずると座り込む。
そしておもむろに腰のホルスターに手を伸ばした。
抜き出す、拳銃。
かつてこの国の警察で制式採用されていた、五連発のモデル。ここまで逃げ延びるのに何度か使ったが、レンコン型の弾倉を確認すると、一発だけ残っていた。
「……わたし、ベストは尽くした。うん、よくやったよ! ホントに。……本当に」
拳銃を手にしたまま、うんうんと頷く少女。
あとは――きれいに終わらせるだけだ。
ふっ、ふっ、と少女の呼吸が荒くなる。これからしようとすること。それに対する恐れ。
ゾンビは死してなお動き続けるが、頭部――つまり脳、あるいは脳幹――を破壊すれば活動を停止する。裏を返せば、頭部を破壊すれば、ああならずに済む。
手の中の拳銃が、ずっしりと重たい。
「はぁっ、はぁっ」
心を落ち着けようと青空を見上げる。思い出す。これまでのこと。突然崩壊した日常。次々に『感染』していく人々。知人友人がゾンビになり、それでも逃げて、生き延びて――
「……みっちー、ごめん。帰れなくなっちゃった」
拠点で留守番している親友の顔を思い浮かべ、独り言。今日、少女が探索についていくことに最後まで反対していた。
きっと悲しむだろう。そして生き残ったメンバーを責めるだろう。想像するだけで胸が痛む。
それに子供たちも。泣いてしまうかもしれない。拠点の仲間たちの顔が、走馬灯のように浮かび上がる。
「うぅっ……」
腕から全身に広がる痛みに少女はうめく。傷が冷たい。どんどん体が冷えていく。まるで全身の体温が吸い取られていくかのように。
傷口を見れば、紫色が広がりつつあった。もう、それほど時間が残されてないことを悟る。
「わたしは……人として、死ぬんだ」
この尊厳だけは、汚させない。
「パパ、ママ……」
つぶやき、深呼吸して、少女は銃身を口にくわえた。脳幹を破壊する、最も確実な方法。
「……うっ、……ふうぅぅぅ」
手が震える。死にたくない。でも時間がない。撃鉄を起こす。
……いやだ。怖い。涙がにじむ。
「うぅっ……うぅぅ……んうううううぅぅっ!」
悲鳴のように叫びながら、少女は――
引き金を引いた。
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