第42話 葛藤
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このこともあって平松高志はわたしに精神的にも肉体的にも(かなりの)恋心を抱いていたことも、もちろん分かっているつもりだった。これは正式に付き合いを始める前より明らかだったので、わたしもおぼろげにセックスについて考えていた。
わたしもありがたいことに健康体で生まれ、色欲がないわけでもない。しかし思春期から聖書に触れていただけあって、形無しのクリスチャンとはいえ抵抗がないわけでもなかった。
聖書の上では婚前交渉は禁止されていたし、カトリックではより厳格な解釈と節制が求められる。旧約聖書の創世記という箇所に記された、オナニーの語源たるオナンという人物の例によって、避妊も認められていない。さらに聖書のどこを読んでも、離縁を許している箇所はなく、反対にページを幾度か開けばそのうち一回くらいは離縁を禁止している箇所にぶつかる。
カトリック教会において高位聖職者の妻帯が禁じられていることから、たとえばローマ法王も、信仰心の篤い――つまり未経験――者しかその地位に就けないなど、ことセックスへのタブー視は明らかで、相応の自由意思や性欲を持つ者以外、禁欲の教えを守るはずだった。
プロテスタント教会で洗礼を受けたわたしもしかし、揺れる思いではあった。
本当に、一〇〇%、教え通りの者であれば預貯金などせずに、ただちに全財産を献金――つまり喜捨しているだろうし、婚前交渉に及ぼうなら姦淫の罪を着ることになる。
ただし、与えれば与えられ、許せば許され、祈れば祈られる。またどんな罪を重ねようと信仰によって深く悔い改めるのなら、その罪を負う者にさえもよき報いがある。キリスト教において因果律の概念は部分的にしかない。信仰はルールではなく、信念だからだ。よって、信心ある者には、その者が教えから逃れたとしても、無条件で無限大に恵みもあるし、許しもある。信仰を持たないか、もしくは以前に捨てた者へも、キリストへ立ち返るよう常に救いの手を差し伸ばしているとされる。
そのような懐の広い信仰だからこそ、むしろ人はより正しくあろうとする。許されるのであれば悪くあってもよいなどというその浅はかな思いから道をそれても、やはり(思惑通りというべきかどうかは人には決め得ない)正しい道へ立ち直らせるよう、見えざる手がとりなすのだ。
たしかに禁止事項は多い。それらを遵守することもだが、よりよき信仰を求めて善を行なうことが主にあって喜ばれるとされる、とわたしを含め多くのクリスチャンは解釈しているだろう。
形無しとはいえ、そうした教えがひっかかるところも、なきにしもあらずであった。一方で、あまりにも長く――つまりは未婚のあいだ、我慢を強いることが現実的でないことも自明であった。
思えば人知れず葛藤を重ねた夏だった。しかしこの数週間後、わたしは安らかな決着を見ることになる。
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