第38話 善処
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練習が終わり、わたしは団員のだれとも話すこともなく掃除をしていた。オレンジの色がかなりくすんだリースのモップを倉庫へ片付ける。大講堂にいるのはわたしと平松、吉川の三人だけだと気づく。平松と吉川はステージのへりに腰かけ、静かに話し合っていた。おそらく逃げられないのだろうな、と半ば諦めつつ、飲み残したミネラルウォーターをバッグにしまう。やはり吉川は手招きし、「ねえ、時間ある?」と訊いてきた。心のどこかで嫌だな、と思いながらふたりに近づく。
「おつかれ。まだ噂の段階なんだけど」と吉川。
噂? ステージに登って三人並んで腰かけ、なんのことだろうと訝しんでいると「あの統計学の先生な、ゼミの子に聞いたんだけど、どうも研究室、解散かもしれないってさ」と続けた。わたしの心臓がとくん、と一回強く打つ。「本当に?」
「不明。というか、現時点、伏せられてるのかも。なんであれ、きょう発作が起きたんだから、すぐにすぐには、ね」と吉川。
「でもただ、聞く限りこいつの救命法に間違いはなかったからな」それを聞いても平松は相変わらず表情を硬くしたままだ。夜の大講堂に人影はわたしたちだけで、空調を止めているというのにうすら寒い。汗が冷えてきた。
「できる限りはした。多分だけど講習通りにやった。AEDも救急も早く着いたけど、なんというか、もっと早くできたはずなのにっていうか(尻つぼみのその声はだんだん涙声になっていった)」
吉川は金髪の頭を思い切り強く引っぱたいた(大きな音にわたしはびっくりして顔をそらす)。
「アホ。やれるだけやったんなら泣くな、気色悪い。男だろ!」
かれは深く沈み込むような息を吐いて、うなだれる。
「初めて実際に蘇生術した。車の免許取るときに人形で一回やっただけなんだよ。多分、先生の肋骨折った。きょう、なんか、もうほんと、帰りたかった。でもな、ほんとは呼吸あったのかもしれない。過呼吸っていうか、しゃっくりみたいな呼吸。とにかく、どうしたらいいのかわからなくて、ドクターが来た時にはほっとして失神しそうだった」
「もう、こいつは、ねえショウちゃん?(目配せをするが同意は求められていなかった)あのなあ、それは死戦期呼吸っていう確実にやばい呼吸だよ。さらにいえば胸骨圧迫ではとにかく心臓動かしてりゃいいんだ。どこの骨が折れても、それが肺や肝に刺さろうと、一秒でも胸骨圧迫やめたらな、いいか、せっかく循環させてる血流が一気に遅くなるんだ。つまりは死を意味する。ガイドラインでも呼吸とか脈拍とか、素人は判断できないだろうからって、意識なくて倒れてるやつにはすぐに胸骨圧迫、って書いてある。だからお前は正しいってさっきからいってんだよ」
わたしは吉川の発言の、そのどれもが正しく、そのどれもがこの状況に即していることに驚いた。
「そうだよ、平松。あの何十人もいる中で一番早く動いたじゃない。あのときもし平松がいなかったらあの先生、絶対に助からない――し(わたしはネガティブな表現を避けようとする)、とにかく、平松はすごいよ」と、慰めてから「だってわたし見てただけでも疲れたんだから。平松はものすごく疲れて当然よ」と続けて「緊急事務管理。最善の。表彰されるかもよ」と結ぶ。
「物知りだねえ、ショウちゃん」と吉川が呑気な口調で感想を述べる。
「なんだよ、おれがなにも知らないみたいじゃん」
「だからそういうのがガキくせえっていうんだよ、あんたは。堂々としていろ」といい終わる前に吉川はまたも平松を引っぱたく。
「あのなあ」と文句をいいかけた平松を「あんたも痛いけどあんたを叩くあたしの手はもっと痛い!」と笑い声をあげながら吉川は肩を叩く。「いや、ぜんぜん痛くないでしょ」とかれはようやく笑みを見せる。
わたしはこのやり取りを見て、やはり吉川という人は相当な人物だと思いいたった。わたしならここまで元気づけられないだろうな、と少なからぬ嫉妬を覚えながら。
「あ、ガードさん来た」と平松が顔をあげる。懐中電灯を持った警備員が階段型教室の上の方(つまり外からは二階にあたる)から「おい、いま何時だと思ってるんだ」と声を飛ばした。「今帰るところです!」と吉川が叫ぶ。「早くしなよ。おじさん、ここにいるから。鍵もらっとく」と、警備員は椅子に掛け、机に制帽を置く。あくび交じりに胡麻塩頭を掻く。
わたしたち三人は手早く支度し、楽器庫や各扉の施錠と空調のスイッチをすべて確認し、「終わりました」と平松が鍵束を警備員に渡しに駆け上がる。
「あんたらも帰るよ。聖子はあたしの後ろに乗れ。高志は健康のために走れ」
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