第37話 狼狽

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 照り付ける太陽がようやく傾く六時半ごろ、図書館を後にする(最終時限に講義はなく、自習に励んでいたためだ)。大講堂に来たわたしは自分の間の悪さを恨む。

 ステージの近く、よく目立つ黒いロングヘアの吉川と、汗でしなびた金髪の平松がふたりで話し合っていた。おおよその見当はついた。わたしは気配を殺す努力を試みる。

「高志もそこまで軽いとは思ってなかったなあ。ああ、あほくさ。あたしも馬鹿だったってことだけどさ。正直になりなよ、童貞捨てたかっただけなんでしょ?」平松は無言のままだ。吉川は舌打ちして、

「なにもいわないなら否定してないってことでいいの? あたしはよくない。あんたと仲違いみたいに別れたくない。好きでいるのはやめるけど、嫌ってしまえるようなやつじゃないもん、あんたは」と少し声を落としていった。

 大講堂内からふたりを避けて外に出ていた団員の練習の音が流れて来た。フルートは音階を半音ずつ駆け上がっては下降するクロマチックスケールをしていたし、外の二階の階段付近ではバイオリンが弦の上で跳ねるように弓を動かすスピッカートを、広場でスペースを広く取り、バストロンボーンやユーフォニアム、テューバなど低音金管群が俊敏に音を高下させるインターバルを仕上げていた。

 平松と目が合う。遠くを見るかれの目線に気づいて、わたしに背を向けていた吉川も振り返り、「朝野」と切れ味のよいナイフのような声音で呼ぶ。「平松は煙草吸いたいみたい。女子同士でちょっと話そう。あとのことは気にしないで」

 平松は一切の言葉も発さず、わたしの脇をすり抜けて出て行った。

 吉川と並んでステージ裾にもたれ、こうして近くで見るとこの人はほんとうに美人なのだな、と一日の疲れで鈍くなった思路が感想を述べた。

「あたしさ、これから演習も実習もあるし、忙しくなるの。オケにしても、学指揮降りないといけないかもしれないんだ。でも、あたしの主軸は救命医になることにあるから。オケでも高志でもなく、ね。だから聖子、今はあんたに譲る」

 暗がりにあまり視力も利かないが、向こうを向く吉川の目元は光が反射しまたたいて見える。

「吉川先輩、まだわたしなにも――」

「いい、オッケー。もういいから。いいの、もうやめよう。これ以上あたしのプライド傷つけないで。傷ついてるって状況にしないで。高志をあんたに譲る。これでオッケー。あたしはさばさばしてるってこと。だからいいの」

 吉川はしゃがみ込んで、髪をざらりと垂らしてうつむく。わたしは咄嗟にハンカチを渡そうとし、統計学の講義のことを思い出す。いずれにせよわたしの立場からいって、おかしいのだ。右手をジーンズのポケットに手を突っ込んだままの姿勢になる。吉川は首にかけているタオルで目元を拭いて、「リセット」と短く宣言する。両膝に手をつき、よいしょ、と立ちあがる。「じゃあ、練習しようか」といった。

 その後の吉川は別段の不自然さはなく、わたしへも平松へもほかの団員へも分け隔てなく文句を飛ばし、譜面台を何度も何度も叩く菜箸も、そろそろ空中分解してもおかしくない傷み具合となっていた。

 いつも通りの吉川に、事情を知っている団員(かれらの持つ情報量にばらつきはあれど)はなんらかの解決か終息にいたったのだと推測したであろう。しかし、わたしは自分の混乱を抑えきれなかった。

 なぜあの話の直後に音楽ができるのだろう。チューニングの音も安定しなければ、オーボエの出番でもうっかり入りそびれる。吉川がここまで平静を保てるのか理解できないなら、平松がなぜこうもミスなく吹けるのも不思議だった。

 わたしの初舞台となるサマーコンサートも近い。それなのになにも集中できず、譜面のどこを追いかけたらよいのかわからなくなる始末だった。こんな簡単な曲は読譜どころか、すぐに暗譜できて当たり前なのに。


 サマーコンサートで演奏される曲目のうち、ほとんどが子どもの喜びそうな選曲であった。世間一般でも夏休みであり、ファミリー層の集客を狙ったプログラムとなるからだ。さらに、ふだん組み入れない遊び――指揮者体験や、休憩時間も飽きさせないよう、ロビーでの団所有の楽器での演奏体験――などの体験型の演奏会となるのがサマーコンサート――サマコンの常だそうだ。

 そのため楽曲的に解釈も平易で、かつ演奏時間も短い曲が好まれ、今わたしがミスした子ども向けアニメ映画の曲もそうだった。それなのになぜこんな易しい曲でミスをするのかと考えているうちにミスを重ねていった。期日までのあと一か月でよもや、と焦燥感を覚えた。

 しまいに目で譜面を追うことができなくなって、わたしはなににも抗えないことを知った。


 こんな失敗、今日だけ、今日だけのことだ。今日のわたしはわたしじゃない。だから、いい。

人と関わるということは、その他者へ自分の心の空きスペースを譲るということだ。それも親しくなればなるほど、その者への思いが強ければ強いほど。心に名前を付けるなら、その名前すべてが「朝野聖子」でよかった。しかし今は「平松のための朝野」、「吉川のための朝野」といったふうに、わたしの所有する心も、わたしだけのものではなくなったのだ。

 平松も、吉川も、ファーストクラリネットの鈴谷も、ほかの団員だってそうだ。思うにこの者たちは慣れているからだ。心が靱性に富み、少々の動揺は吸収できるようになっているのだ。対人関係そのものに慣れ、そのためにぶれも疲労も少ない。わたしの、高校二年生の時に閉ざした硬く脆い心では自分だけのことで手一杯なのだ。ひとり分しか背負わず身軽なまま、受験や学生生活を送っていた。気づいてみれば、ただ強気でいるだけの、孤独で寂しい人間になっていた。

 たしかに高校二年生のときのアンサンブルコンテストより前には友達もいた。学校生活も楽しめていた。だが裏切られた。父も亡くなった。その後、わたしは机に向かって何時間も何時間も問題を解く機械として過ごした。機械として過ごした三年の年月に急激に血を通わせ、喜怒哀楽を命じ、生き物のような疲労を与えた。すべてのきっかけは平松だった。いま平松にまつわることがらで、わたしの心は過積載となっていた。


「オッケー、やめ。やめやめ。ちょっと、オーボエ。今日はもう休もうか。一〇分休憩挟んであとは自主練にしよう。ほかのみんなも一〇分休憩、そのあと通すよ」と吉川はかぶりをふって手の指をほぐすように揉む。

 わたしはステージを降り、ミネラルウォーターをひと口飲んで大講堂の外へ出、扉をゆっくり、しっかり閉める。

 日没で気温は下がったものの、いまだ生ぬるい夜の空気にため息をつく。オーボエを構え、通常のオーケストラのチューニングで使う第二オクターブのラを発音し、難度の高い指使いを駆使して最高音の第三オクターブのラまで一気に駆け上がる。めちゃくちゃな音程で力任せに何度も何度も最高音を吹き続ける。楽器がきぃ、きぃと鳴く。

カシオの腕時計を見る。ステージを降りて合計一〇分が経った。「こんな風に使っちゃだめだね、父さん」

 わたしは扉が内側から開かれるまで、通常どおりの自主練習を始めた。

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