第12話 演繹

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 そのころは勉強だけが自分の取り柄で、すべてのプライドの根拠であった。高校二年生の時、わたしが理系に転向した理由はこうだ。

 ひとつの演繹法だった。


 その少し前、メディアで取り沙汰されていたのは、ES細胞(胚性幹細胞)やiPS細胞(人工多能性幹細胞)などの、いわゆる万能細胞のニュースであった。とりわけiPS細胞の分化万能性は、その可能性と同等か、それ以上の危険をはらみ、テレビなどでも識者(と称する者)や一言居士たちは警句を発し続けた。

 しかし医療開発分野では重要視され、希望でもあった。これまでに大勢のレシピエントがドナーを待ち切れずにその命を終えたが、もはや臓器移植の必要がなくなる可能性さえあったのだ。

 さらに、倫理上の手段を選ばなければ同性カップル間で卵子も精子も、もとの人物の性別に無関係に作ることができ、資産ある同性愛者などのカップルたちには朗報ともいえた。また、やろうと思えば既存の体外受精や、借り腹の技術と併用すれば単一の、つまりひとりの人間から作った卵子と精子での生殖でさえ可能となりえた。

 それら可能性には倫理的に敏感な団体――市民の集まり、政党、宗教家からの大きな反発もあった。ローマ教皇庁も早期のうちに(とくにES細胞は受精卵破壊なので当然という意見が大勢を占めていたが)神の領域である、と警鐘を鳴らし、世界的にも倫理委員会が置かれ、幹細胞研究の進捗のたびに、禁止事項や問題提起が上がった。


 つまり、神の領域なのだ。神が為した創造の業を、人がその手で行う。それがわたしの進む道で、結果を出すべき領域だと当時は考えた。わたしが神の手を、神になり代わって用いるのだ。つまるところ、人がヒトを人為的に作る。当時からも技術的には可能だったが、倫理的に不可能だった。人間がヒトを作ることは最悪ともいえるタブーだった。その可能性もマスメディア上でひらめいてはすぐに消えており、数々の倫理上の問題が可能性自体にストップをかけていた。

 それは、技術的には可能だから。それも、今すぐにでも。

 もちろんそれは神の業であり、人間の行うべき所業ではない。倫理とか、正義とか、そういった意識が人自身に自制を強いている。

 神の所業をなせたらその時点で、わたしはあることがこの身をもって証明できるはずった。


 技術面以外の問題をクリアしたと仮定する。もしくは秘密裏に行うことも想定してよい。もしヒトが作れたら、人間は自身を超越する。ヒトは神の被造物であって、人には自身の数を生殖で殖やせても、ゼロから造ることはできない。この真理が崩れるということは、すなわち聖書にある神の業が大きく揺れるのだ。これは聖書の部分否定のみならず、聖書の大前提を覆し、神そのものの存在意義も疑わざるを得ない、そうわたしは思えた。ただし研究中途にして神の逆鱗に触れたのなら――その時は神がわたしに制裁を加えるはずだ。

 iPS細胞の操作なり研究なりのさなか、わたしに神の鉄槌が落ちる。自らの絶命をもって神の存在を確信し、すべてを了解したのち地獄へ落ちるのだ。

 ただ、ヒトを造ることで神の存在、そしてその意義を覆すことが証明できたら、すなわち神の不在をわたしは存命中に知ることになる。もはや神は神ではなく、その業も神業ではない。それらの行いは学術的な研究施設によって為されるのだから。神は人間でもなれる。


 高校二年生の夏の夜だった。ニュートンの日本語電子版を読んでいるなかでスパークのようにひらめいた、神を疑う日々に決着をつける演繹的方法だった。研究成果が先か、わたしの死が先か、それだけのことだ。

 遅かれ早かれ、わたしは神を試す。しかしいずれにせよ、その目指した先にあるものは同じだった。神を試したのち、どんなの結果が出ようがわたしは死ぬ。

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