第五章 恋人たちの逃避行 ~彼は答えず~

「駆け落ちが、失敗したら……?」

「もし仮に私どもの言葉が妄想だったとしても――あなたがたがこのまま駆け落ちなされば、フィレンツ氏のご実家であるバンクロフト家は、ドートリッシュ家からきついおとがめを受けるでしょう。すでに彼はあなたに近づくなと警告まで受けていたようですし、それを無視して駆け落ちまで計画したとなれば、あなたのお父上は絶対にバンクロフト家を許さないはずです」

「それは……は、はい。そうかもしれません」

「さらに、駆け落ちを手伝ったということでいえば、クリオドゥーナお嬢さまもまた、ドートリッシュ家から憎まれることになるでしょう。現在のバラウール家は旦那さまが亡くなったばかりで後ろ盾と呼べる存在がございません。ここでドートリッシュ家に睨まれればお嬢さまがどんな目に遭うか……」

「あ……」

 今になって気づいたのか、ミリアムは口もとをおおってクリオの顔を見やった。でも、クリオ自身、ユーリックに指摘されるまでそのことに気づいていなかったわけだから、ミリアムの考えの浅さを責めることはできない。

「無礼を承知で申し上げれば、あなたは世間というものをまだよくお判りではない。ただ、それはあなたがお父上から大切に育てられてきた結果であり、ゼクソールに入学した理由のひとつには、徐々に世の中というものを学ばせようというお考えがあったのかもしれません」

 ですが――と、ユーリックはやや語気を強めて続けた。

「フィレンツ氏は違います。彼はあなたより年上で、ゼクソールでは新入生とはいえ、それまで家業を手伝い、世の中というものをすでに理解していたはずです。仮にも商人の息子であるならば」

「…………」

「そのフィレンツ氏が、一世一代の駆け落ちに際して、残される者たちのことを一切考えていなかったのであれば、私は彼の人間性を疑います。自分たちさえよければほかの人間のことなどどうでもいいと考える、そんな男なわけですから」

「ち、違います! フィレンツはそんな人ではないわ! ――ねえ、あなたにはきっと、うまく駆け落ちを成功させる確信があったのでしょう、フィレンツ? 誰にも迷惑がかからないような――」

「ですから、ミリアムさまはそれを彼からお聞きになっているのですか? フィレンツ氏がもし本当にあなたのことを愛している誠実な男性ならば、危険な逃避行をともにするあなたに何も説明しないはずがないと思いますが?」

「そ、それは……」

 次から次に突きつけられるユーリックの言葉に、ミリアムはふたたびクリオたちとフィレンツとを見くらべている。でも、明らかにさっきよりも動揺しているし、不安にさらされているみたいだった。

 クリオにも経験があるから判るけど、こういう、誰かを真正面から論破してやろうとする時のユーリックは、容赦なく豪速球で正論を投げつけてくる。正論だから返す言葉がなくて黙っていると、さらにまた別の正論のつぶてが飛んでくるのだ。向こうっ気の強いクリオでさえなかなかいい返せないんだから、おっとりしたお嬢さまのミリアムじゃ、防戦一方になるのも仕方ない。

「ミリアムさま……もしやあなたは、駆け落ちしてどこに行くのかという肝心なことさえ聞かされていないのではありませんか?」

「い、行き先は――彼のおにいさまがどうにかしてくれると」

「そんな曖昧な説明であなたは納得したのですか? あなたがたの駆け落ちには、決して少なくない数の人間の将来がかかっているというのに?」

「……!」

 ミリアムは口もとをおおって静かに泣き始めた。

「フィレンツ……」

「…………」

「あなたは……わたくしをどこへ連れていってくれるの……?」

 途切れ途切れのミリアムの弱々しい問いに、フィレンツはようやくクリオたちから視線をはずし、ミリアムへと向けた。

「つい先ほどまでは、このような不安、感じたりはしなかったわ……。ただあなたにしたがっていれば、あなたのいうことを聞いていれば、それで未来は開けると思っていたのに……」

「今はそうじゃないとでも……?」

「考えてみれば、わたくしは確かに残していく人々のことを何も考えていなかった。あなたもそんなことは口にも出さなかった。誰も知らないところでふたりで楽しく暮らそうって、そういうふんわりとした話ばかりで……現実的なこと、具体的なことは何も語ってくれなかったし、わたくしも聞こうとしなかった」

「……だから、今はどうなんだい、ミリアム?」

 そう尋ねるフィレンツの声はとてもやさしげだったけど、クリオにはそれがなぜかひどく空恐ろしげに聞こえた。

「クリオさんたちの言葉を聞いているうちに、わたくし、本当にこれでいいのかと――早まったのではないかという気がしてきたの。最終的に父に認めてもらえなかったとしても、駆け落ちをするならするで、もっと念入りに、たがいが納得いくまでまずは話し合うべきだった……。それがなかったことに気づかされたからこそ、今わたくしはこうして震えが止まらなくなっているのよ、フィレンツ」

 恋に浮かれていた少女が、強烈な言葉の平手打ちを何発も食らって正気に立ち戻り、自分たちがいかに無計画だったかに気づかされた――みたいな感じだろうか。ミリアムは涙に濡れた瞳をフィレンツに向けてもう一度尋ねた。

「……ねえ、クリオさんたちがいっていたことは本当なの?」

「恋の魔法はいつかかならず醒めるものらしい。きみの目を見れば判るよ、ミリアム。……それはもう、恋する少女の目じゃない」

 軽い溜息とともに呟いたフィレンツは、ポケットから小さな小瓶を取り出した。

「……?」

 クリオたちがいぶかしげに見守る中、フィレンツは小瓶に入っていた丸薬のようなものをひと粒口に含むと、さりげない動きで右手をかかげた。


          ☆


 くわえタバコのまま剣を一閃させ、ミルチャ・レオノールは大きく首を回した。

「やれやれ……とっくに軍を辞めたってのに、いまさら命のやり取りをさせられるとは思わなかったぜ」

 足元に落ちて煙と化していく黒い怪鳥を一瞥し、レオノールは次の敵を捜して視線をさまよわせた。膝の矢傷のおかげで走るのは苦手だが、剣や槍をあつかう手腕はまだ錆びついていない。

 数十分前まで生徒たちの熱戦に沸いていた会場は、今では見る影もない乱戦の巷と化していた。突如現れた怪鳥と黒い獣の群れに対し、実力でいえば本職に迫るものを持つ五年生たちが教本通りの戦陣を組み、見事な戦いぶりを見せている。

「……まあ、相手の数がもっと多けりゃこううまくは戦えなかっただろうけどな」

 あらためてタバコに火をともし、レオノールは膝をかばうようにして壊れたベンチに腰を下ろした。

「レオノール先生!」

「これはこれはジュジュ先生」

 身体の一部をゆさゆさと揺らして駆けてくる同僚に気づき、レオノールは呑気に手を振った。

「――何してるんですか、こんな時に!」

「いやあ、あとは若人たちに任せておいても問題ないかなと思いましてね。何しろこっちは名誉の負傷で退役したおっさんですから」

「何を呑気な……そもそも校内は禁煙――」

 そういいかけたジュジュののどがひくっと鳴った。おそらくレオノールの背後に倒れている男たちに気づいたのだろう。

「……観客にまぎれてやがったんですよ」

 無数の死体を肩越しに指さし、レオノールは白い煙を吐き出した。

「妙に着ぶくれしてやがるなと思ってたんですがね、避難する観客たちの流れの中からいきなり飛び出してきやがりまして」

 すでにものいわぬ死体となった男たちは、オーバーサイズの上着の下に鎖帷子を着込んでいた。これがもう少し本格的な鎧だったら、レオノールもそう簡単には倒せなかっただろう。

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