第四章 優等生の真意 ~動き出したもの~
静かな睨み合いが続くうちに、蔵の外が騒がしくなってきた。
「おい! いつの間にか“ニナッタ”が出てるぞ!?」
「蔵に誰かが入り込んだのかもしれん! 見てこい!」
「親方を起こせ!」
南方訛りの強い男たちの声を聞いた瞬間、ユーリックは動いた。同時に獣も跳躍する。予想していた通り、ユーリックの弱点――首を目がけて襲いかかってきた。
「ルロイよりよほどいい反応だ」
ささやかな賛辞とともに、ユーリックは深く身を沈めて獣の爪と牙をかわすと、間髪入れず右の拳を獣の横腹へと打ち込む。その時初めて、この異様な獣が獣らしい苦痛の吠え声を発した。
「そのへんの仔犬じゃないんだ、このくらいで死ぬわけないよな?」
激しく壁に叩きつけられた獣が、それでもすぐに立ち上がったのを見て、ユーリックは小さく笑った。ふだんは抑えている自分の力を思う存分振るってもいいのだと考えると、ついつい笑いが込み上げてくる。
「遠慮なく叩き潰していい相手というのがなかなかいなくてな――」
ユーリックは獣が次の跳躍に入る前にみずから間合いを詰め、無造作に前蹴りを繰り出した。獣の頭部が脛当の靴底とその背後の壁との間にはさまれ、ぐしゃりと潰れる。それでも威力を殺しきれなかったユーリックの蹴りは、そのまま蔵の壁に大きな穴を開けてしまった。
「さすがに頭が潰れれば死ぬ……かな?」
動かなくなった獣と建材の煉瓦をまたぎ、身をかがめて蔵の外に出ようとしたユーリックは、たった今できたばかりの獣の骸がかすかな煙を発して消滅するのを目の当たりにした。
「ふつうの動物じゃないのは判ってたが――」
ユーリックはいぶかしげに目を細め、獣が倒れていたあたりをそっと探ってみたが、そこには小骨の一本はおろか、血の一滴さえ残っていなかった。
「おい、貴様!?」
「っと――」
屋敷の男たちがやってきたことに気づき、ユーリックはフードを深くかぶり直して立ち上がった。
「ここがまっとうなワイン問屋じゃないと判れば、ひとまずはそれで充分だ」
ほとんど助走なしに、ユーリックはまず蔵の屋根の上まで飛び上がった。
「ばっ……!?」
男たちの驚きの声を下に聞きながら、ユーリックはさらに跳躍し、塀の上まで一気に移動した。
得体の知れない獣の頭蓋骨を一撃で蹴り潰すユーリックの本気の脚力に、そのへんの人間が追いつくことなどできない。男たちが馬を持ち出してくる前に、ユーリックは屋敷の裏手の通りに降りると、マントをひるがえして走り出した。
盛り場を除けば、夜のフラダリスの大半は闇と静寂に包まれている。連中が多少なりとも人目を気にするのであれば、そう人手を使って追いかけてはこないだろう。こちらの素性が判らない以上、ひとたびまいてしまえば逃げ切るのは簡単だった。
「ふ~……」
街の門が見えるところまでやってきたユーリックは、そこでようやく足を止め、静かに深呼吸した。
「あの連中が何を考えて武器を貯め込んだりしてるのか知らないが……問題は、この材料をどう使ってお嬢さまを説得するかだな」
バンクロフト家が何か後ろめたいことをしているのはまず間違いない。ただ、それがクリオに直接的な害をおよぼさないかぎり、ユーリックにはどうでもいいことだった。重要なのは、クリオをフィレンツとミリアムから引き離すことなのである。
☆
根元からもぎ取られて草むらに投げ出されていた錠前をしげしげと見つめ、トーステン・バンクロフトは溜息をついた。
「……どうやるとこんなふうにもぎ取れるんだ?」
「判りません。侵入者はひとりだけのようでしたが、何か工具を持ち込んでいた様子もありませんでしたし……」
何者かの侵入を許したバンクロフト邸では、大騒ぎこそしていないものの、邸内の人間がすべて置き出し、敷地内のチェックに動いている。ここに別邸を構えて以来、こんなことは初めてだった。
「正面門も通用門も破られてないってことは、この塀を越えてきたのか」
トーステンは立ち上がり、敷地を取り囲む塀を見やった。この界隈には資産家や商人たちの屋敷がいくつも建ち並んでいるが、このバンクロフト邸が一番塀が高い。神妙な表情で腕組みしたトーステンは、蔵の横手に回って壁の大穴を確認した。
「……そしてその男が錠前をもぎ取り、蔵に侵入し、この大穴を開け、さらに“ニナッタ”をあっさり蹴り殺したというわけか」
「どうやらそうらしく――」
「……その男、本当に人間か?」
「は? いや、たぶん人間だと思いますが……」
「この国にはそんな人間離れした人間がいるのか。世界は広いな」
まぶたの上から眼球をマッサージし、トーステンは長い溜息をもらした。
「それが何者であれ、ただの盗人のはずがないな。……だが、王国の手の者とも思えんふしがある。いずれにしろ、悠長に構えている暇はなさそうだ。計画を前倒しにせねばならんだろうな」
「では――?」
「夜が明けたら、少しずつ蔵の中のものを運び出して例の場所に移せ。軍が踏み込んでこないともかぎらんからな」
「はい」
「それと、田舎の親父にも一報を入れておかんとならんだろう。……そろそろ腹をくくってもらう時期だ」
「判りました」
神妙にうなずいた家人が足早に去っていくのを見送り、トーステンは何とはなしに立派な顎髭を撫でた。
「我々の悲願を果たすまでは誰にも邪魔はさせん。すでに陛下には、我々の赤心をしたためた書状をお送りしているのだ。いまさらあとに退けるか」
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