第三章 乙女の秘密 ~あまりに唐突な……~
「――お嬢さま」
馬術の講義が終われば昼休みになる。昼食のために寮に戻る前のクリオを捕まえ、ユーリックは尋ねた。
「何かございましたでしょうか? 先ほど、急に不機嫌になられたご様子ですが」
「何かございました? 何かございましたかって、それユーくんが聞いちゃう? わたしに?」
クリオは小脇にかかえていた兜をいきなりユーリックに投げつけた。
「――――」
この少女が至近距離から何を投げつけてこようと、ユーリックならそれを咄嗟に掴み止めることなど造作もない。ユーリックが驚いたのはその唐突さにではなく、クリオがいつになく怒っているということにだった。ふだんのクリオなら、たとえ何かに怒っていたとしても、そんな暴力的な反応は見せないからである。
「お嬢さま――」
「あなたねえ!」
目立つことを嫌い、とにかくなだめようとするユーリックの努力を踏みにじって、クリオは従者の襟もとを掴んで引っ張り、大声でわめいた。
「わたし、見たんだから! ユーくん、夜中に――」
「お嬢さま、はしたない真似はおよしください。そのように大声を出されては、ご学友のみなさまにもご迷惑かと」
ふたりの周囲には寮に向かう生徒たちが数多くいる。ユーリックは軽くクリオの手首を押さえてその動きを封じると、一瞬鼻白んだ少女に第三者の目を意識させた。
「……とにかく、落ち着いていただかないと、お嬢さまのお話をお聞きすることもできませんので」
「…………」
クリオはユーリックの手を振りほどくと、無言のまま先に立って歩き始めた。
「……さっき、見たとおっしゃいましたが、何をご覧になったのです? どうしてそのようにお怒りになっていらっしゃるのです?」
クラスメイトたちから距離を取り、ユーリックはあらためて尋ねた。
「怒るに決まってるじゃん!」
「だから何にでしょう? 何を見たとおっしゃるのです?」
「ユーくん……夜中にこっそり寮から抜け出してない?」
「それは――」
ずいと詰め寄るクリオから視線を逸らし、ユーリックは内心、面倒なことになったと舌打ちした。
「いまさら! ごまかそうとしたって! 無駄だから! わたしははっきりと見たの! ユーくんが、え~と……何ていうか、その――こう、は、肌もあらわな、いかにもって感じの、みっ、水、みずぅ」
「水商売のおねえさん、でしょうか?」
「そ、そう、それ! そういう女の人たちに囲まれてにやにやしてるところ、わたしははっきり見たんだから!」
「すぐばれる嘘をつかないでくださいませ」
「むぶ」
ぐいぐい迫ってくる少女の顔に大きな手を当てて押しやり、ユーリックはかぶりを振った。
「お嬢さまに見えるのは私の目を通して目撃した光景だけでしょう? 真正面に鏡でもないかぎり、私自身の表情までは見えないはずです」
「そっ……み、見えなくても判るじゃん! だってユーくん、むん、む、胸の谷間とか凝視してたでしょ!?」
「……たとえ私の視界に胸の谷間が入ったとしても、それはたまたまです。凝視などしておりません」
「どっ、どっちにしても、ユーくんはそういうおねえさんたちがいるところに行ったんでしょ!?」
「確かに行くには行きましたが、それは――」
ユーリックが淡々と肯定すると、クリオは顔を真っ赤にして少年の腕を叩いた。
「こっ、子供のくせにどうしてそんなところに遊びにいくのよ!? ユーくんだってまだ一六でしょ!?」
「お待ちください、お嬢さま。別に私は、寮を抜け出して夜遊びをしていたわけではございませんよ? これには正当な理由が――」
「ほかにどんな理由があってそういう酒場に行くわけ!?」
「それをご説明するのも非常に面倒なのですが……そもそもの話、お嬢さまはどうしてそういう部分しか見ないのですか? もっとほかの部分まで見たのであれば、私が夜遊びに出かけたわけではないとご理解いただけたでしょうに……」
「知らないわよ! わたしに見えるのは、ユーくんの頭の中に強く残ってる記憶の断片なんでしょ? だったらユーくんにとっては、おねえさんの胸の谷間がそれだけキョーレツに印象に残ったってことじゃん!」
「……お嬢さまにしては珍しく筋が通った反論ですが、もし私がその先の大人の階段を登っていたとしたら、当然、胸の谷間よりもさらに強烈なモノが記憶に残っていたはずですが、お嬢さまには何かそのようなモノが見えたのでしょうか?」
「そ、それは……」
クリオの語気がややトーンダウンする。ユーリックはクリオの肩に手を置き、身をかがめてそっとささやいた。
「あれは何と申しますか……からかわれただけなのです。私のようなガキんちょがああしたところをうろついてるのが珍しかったのでしょう。それだけの話です」
「……そもそもの答えになってないじゃん」
「は?」
「だーかーらー! そもそも! ユーくんはどうして! 寮を抜け出してまでそんなとこに行ったの!? って聞いてるの! 夜遊び目的じゃないなら何なの!?」
「ですからそれは――」
「あともうひとつ!」
「まだ何か……?」
「ユーくん――」
クリオは唇を噛み締め、その先の言葉を続けようかどうか迷っているようだった。これ以上ユーリックを追求するのをためらっているのだとしたら、彼女はいったい何を聞こうとしているのか――ユーリックにも予想がつかず、いつにないような不安を覚えてしまった。
「何です、お嬢さま? はっきりおっしゃってください。私たちの間に隠しごとがあってはなりません」
「かっ……隠しごとをしてるのはユーくんでしょ!!」
クリオの眉間にぴきっとひときわ深いしわが走り、少女の手がオーバーアクションで飛んできた。
「――――」
ここで咄嗟にクリオの手を押さえて止めようとしたら、逆に手首の骨を砕きかねない――と躊躇した時には、ユーリックの頬に少女の平手が入っていた。乾いたいい音が響いたせいで、寮に向かっていた生徒たちの何人かが振り向いたが、ふたりの間にどんなやり取りがあったか気づいた者はいないだろう。
「…………」
音こそ派手だったが、人を叩いたことのない少女の平手にユーリックをたじろがせるほどの威力はない。せいぜいはたかれた頬がかすかに赤くなるだけで、実際、さほどの痛みも感じなかった。
ユーリックが平然としているのがまた癪に障ったのか、クリオはユーリックから兜を奪い返すと、少年の脛をごつんと蹴飛ばし、大股で去っていった。
「……蹴った足のほうが痛かっただろうに」
クリオは人の叩き方も知らなければ蹴り方も知らない。爪先を使った今の蹴り方だと、むしろクリオのほうが痛かっただろう。
「気が強いまではいいが、気が短いのはどうしかしてもらわないとな……込み入った話をする前に勝手な思い込みで激昂されるのは困る」
へそを曲げた少女にどのタイミングで何と説明すべきか――男子寮に向かうユーリックの足取りはいつになく重かった。
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