第二章 ばあちゃんのクッキー ~買収工作~


          ☆


 月に一度の外泊許可が出る週末だからといって、すべての生徒が寮を離れるわけではない。実家が遠方にあったり、素行不良でそもそも外泊許可が出なかったりと、それぞれに事情があって寮で休日をすごす生徒も少なからずいる。

 そして、ユーリックと同室のコルッチョもまた、諸事情あって実家には戻らない――いや、戻れない生徒のひとりだった。

「…………」

 ユーリックが男子寮に戻ってきた時、コルッチョは暗い部屋でひとりベッドに横になり、壁のほうを向いて何ごとかぶつぶつ呟いていた。

「……どうした、コルッチョ?」

「ああ……ユーリックくんか。お帰り……」

 首だけをねじってユーリックを一瞥したコルッチョは、ふたたび壁に向かうと、また何やら呟き始めた。

「一応聞くが、それは魔法の練習か何かか? 妙な呪文を唱えているように聞こえなくもないんだが」

 ランプの炎を大きくし、ユーリックが尋ねる。

「違うよ……早くあしたの朝が来ないかなって神さまにお願いしてるんだ……」

 そう答える小太りな少年の声にはまったくといっていいほど覇気がない。まるで病人のように弱々しいが、しかしその肌はぷりぷりつやつやとしている。日頃の不摂生のたまものだろう。

 ユーリックはコートを脱ぎ、自分の椅子に腰を下ろした。

「よく判らないが、あしたになると何かあるのか?」

「朝ごはん」

「は?」

「だって……あしたになれば朝ごはんが食べられるじゃないか」

「まさかおまえ、腹が空いてるのか? 夕食はどうした?」

 いつも通りなら、休日でも午後の六時前には夕食が用意される。その時にきちんと食べたのなら、まだ食事から三時間もたっていないはずだった。

「うん、きょうもおいしかったよ。シカ肉のピカタが出たんだ……」

「ちゃんと食ったんだろう? なのにどうしてもう腹が空いてるんだ?」

「盲点だったよ……」

 のろのろと寝返りを打ってユーリックのほうへと顔を向けたコルッチョは、静かに涙を流していた。腹が空いたくらいでさめざめと泣く人間の気持ちがユーリックには理解できなかったが、おそらくこの少年にとっては、それは泣くほど重要な問題だったのだろう。

「みんなが外泊してるこの二日間は、寮の食堂もそれに合わせてあんまりごはんを用意しないんだって……」

「だろうな。食材費だって無駄にはできないだろうし。……で、それが何なんだ?」

「用意する食事の量が少ないってことは、つまりは残り物も少なくて、ぼくの食べるぶんがいつもより減るんだよぉ……」

「何かと思えばそんなことか」

「ううっ……そうだよね、こんな気持ち、きみには判らないよね……どうせきみはこの二日間でおいしいものをたくさん食べてきたに決まってる。ぼくなんか、実家に戻ってくるなっていわれて、ろくに食べるものも食べられずに、こうして横になって枕を涙で濡らしてたっていうのに――」

 一日や二日、いつもより食事の量が少なかったからといって死ぬわけではない。そもそもコルッチョが実家に戻れないのは、この寮でなかば強制的に規則正しい生活を身につけ、少しでも痩せさせようという両親の意向あってのことなのである。

「別におれだってぜいたく三昧をしてきたわけじゃないが……しかしまあ、だったらちょうどいいものがある」

 ユーリックは外出時に持ち歩いているバッグを開け、錫製の大きな缶を取り出した。中身は、勉強の合間に食べるようにと、マウリンがユーリックとクリオにそれぞれ持たせてくれたクッキーである。

「――おれのばあちゃんの手作りクッキーだが、食うか?」

「!」

 それまで野生の草食動物のようにぐてっと横になっていたコルッチョは、クッキーと聞いた瞬間、転がるようにしてベッドを飛び出し、ユーリックの手からクッキーの缶を引ったくった。

「むほっ、これをぼくに!? ありがとうありがとう! 見た目ちょっと目つき悪くて怖そうだと思ってたけど、ホントはいい人だったんだね、ユーリックくん!」

 さりげなく失礼なセリフを吐いて、コルッチョはさっそくクッキーをぼりぼり頬張り始めた。

「おっ、おいしい! おいしいよ、ユーリックくん! 適度な甘さとナッツの香ばしさ、それにこの食感も楽しい! これは売り物にできるレベルだよ! もしここに牛乳があったらジョッキで飲み干してるところだって!」

「そうだな。ばあちゃんのクッキーと牛乳の組み合わせは、おれもガキの頃から大好きだった」

「んんんんん! きっ、きみのおばあちゃん、うちで雇えない!? こんなに完成度の高いお菓子を作れる料理人、うちにもいないよ!」

 さっきまでぐったりしていたことが嘘のように、コルッチョは興奮を隠そうともせずクッキーを頬張っている。日持ちするからとかなり持たせてくれたクッキーが、見る見るうちに減っていった。

「あいにく、ばあちゃんもバラウール家の使用人だからな。ルペルマイエル家の料理人にはなれないが、代わりにこれからも、外泊の時には土産をもらってきてやる」

「あっ、ありがとう、ユーリックくん! 正直きみと同室って聞いた時には最悪って思ったけど、こんなお菓子が食べられるなら最高だよ! 持つべきものはよき友人てやつだね!」

「おまえは正直者だな」

 少年の現金さに苦笑しつつ、ユーリックはクッキーをむさぼるコルッチョの肩に手を回した。

「その代わり……といっては何なんだが、ちょっとおまえに調べてほしいことがある」

「ぼくに……?」

「まあ、おまえに調べてもらうというか、おまえの親のつてで少しな」

 それが商機につながるからか、やり手の商売人ほど情報通と決まっている。特にコルッチョの父はルペルマイエル商会の会長であり、その人脈は広い。

「おまえの父親なら、バンクロフト家のことを何か知っているかもしれないだろう?」

「バンクロフト? 誰それ?」

「隣のクラスにフィレンツ・バンクロフトという生徒がいる。実家がどこだかの田舎でワインを作って商売をしていると聞いたが……何でもいいからその実家についての情報が欲しい」

「隣のクラスだったら本人に聞けば――」

 そういいかけたコルッチョの顎を下から押さえ、ユーリックはゆっくりと首を振った。

「あくまで本人には内密のうちに調べたいんだ。おまえも、間違っても本人に尋ねようとするなよ? 詳しくはいえないが、これはデリケートな問題なんだ。そして月に一度のおいしい焼き菓子がかかっている」

「う、うん、判った……」

 クッキーを咀嚼する動きは止めることなく、コルッチョはかくかくとうなずいた。

 ユーリックがなぜそんなことを知りたいのか、コルッチョには判るまい。ただ、この少年にとってはユーリックの真意などどうでもよく、重要なのはその報酬として得られるクッキーのほうなのである。

「あ、あのさ、ユーリックくん」

 あれだけあったクッキーをまたたく間にたいらげ、膝の上にこぼれたかけらまで拾って口に運んでいたコルッチョは、ベッドに上がったユーリックにいった。

「次はさ、ドライフルーツの入ったクッキーにしてもらえないかな?」

「判った。ばあちゃんに頼んでおく。その代わり、おまえもすぐに実家に手紙を書いてバンクロフト家のことを調べてもらえ」

「う、うん! 任せといてよ!」

 よほどクッキーがおいしかったと見えて、コルッチョはすぐさま机に張りつき、実家の父に向けての手紙を書き始めた。

「……あとはお嬢さまが余計なことをせずにおとなしくしていてくれればいいんだが、たぶん無理だろうな」

 あのクリオの性格だから、こればかりはどうしようもない。せめていっしょに行動できる日中だけでも自分が目を光らせておこうと、ユーリックは大きなあくびを噛み殺した。

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