小説「おっさん」
有原野分
おっさん
私はある日、おっさんを飼いはじめた。
――ことの経緯はこうだ。
家と会社の往復の毎日。私は、いつも通り商店街を抜け、川を渡り、会社へ向かう。定時を過ぎ、ほどよく体が疲れてくると、上司に頭を下げて退社する。そしてまた川を渡り、商店街をとぼとぼ。家に帰っても、一人身の私は晩ご飯の楽しみがない。テレビも飽きた。お酒も飲めない。
そんなことを考えて、商店街を歩いているときだった。ふと、声がした。
「あー、腰がゆるいよ。あー、腰が……」
見ると、ショーケースの中におっさんがいた。
ペットでも、奴隷でもない。ちゃんとしたおっさんだ。まあ、今の時代は珍しくない。仕事はできない、家事もできない、やる気もない、体力もない――、とにかく、なにもできないおっさんが増えていた。しかし、体はまあ健康。でも、なにもできない。
そこで数年前に、政府が新たな法律を作り出した。簡単にいえばある程度健康で、まだ寿命の来ないどうしようもないおっさんを介護ではなく、民間人が一応ボランティアという形で世話をする法律だ。一応、と付けたのは、本当はそこに金が絡んでいるからだ。つまり、飼うために、買わねばならない。
しかし、そのおかげか、野良おっさんは激減し、街は浄化されていった。
一体、どんな奴が買うのか、私は見当もつかなかったが、たまに近所で散歩している人を見かけた。若いカップルから、同じぐらいの中高年まで、飼い主の層は幅広かった。
バカげた話だ。しかし、私はその「腰のゆるい」おっさんを見ると、無性に――衝動的に――飼いたくなってしまった。一人身の寂しさか、単調な毎日に嫌気がさしていたのか、気がつけば私はおっさんを買っていた。
「おい、おっさん。名前は?」
しかし、おっさんは答えない。仕方がないので、しばらくは「おい、おっさん」と呼ぶことにした。
数日して分かったことだが、なるほど、おっさんを飼うのも悪くない。トイレも風呂も自分でできるし、ご飯を用意すれば一人で食らう。また、少しずつではあるが、会話もできるようになってきた。
「おい、おっさん。このテレビ、面白いか?」、と聞けば、
「あー、おもろいなー。テレビ、おもろいなー」とか言う。
それが意外と、楽しかったりする。世話もそれほど大変ではない。散歩もときどきで十分だ。おっさんは、あまり外に出たがらないので、その辺も楽なところだ。
毎日の平凡で退屈だった日が、徐々に変わってきた。考えることはおっさんのことばかり。今日はなにを食わせようか、たまには酒の一杯でも与えてみるか――。
気付けば、私は、おっさんに夢中だった。
大切に育てていくうちに、洗濯などの簡単な家事をこなせるようになった。会話もかなり上達した。買い物も頼めばできるようになりそうだし、料理だって作れるかもしれない。
心の充実は、人生の幸福だ。私は、毎日が楽しかった。
はじめておっさんが一人で買い物に行ったとき、私は思わず泣いてしまった。一人でできることが増えていくたびに、私は感動し、また、悲しくもあった。親の心境――とまでは言わないが、独り立ちしていくおっさんを見ているのが、私の生きがいになっていた。
しかし、ある日、おっさんがぼやきはじめた。
「あー、腰がゆるいよ。あー、腰が……」
私はとりあえず患部を温めて、寝かせることにした。
数週間、おっさんは寝ていた。ときどき、つぶやく。
「うー、腰が、うー、頭が……」
私は、どうしようもなかった。
数ヵ月たっても、おっさんは治らなかった。それどころか、日に日に衰弱していく。ああ、どうしよう。
もう、限界か――。
私は、早朝、おっさんをバックに詰め、川にやってきた。
「おい、おっさん。今まで、ありがとう」
ざぶん、としぶきが足に掛かった。朝日が、涙で滲んでしまう。
おっさんは、ゆっくりと、水の中に沈んでいった。気泡が立ちながら、徐々に、ゆっくりと、沈んでいく。――じゃあな。
バックがすべて浸かりそうになったとき、私は声を聞いた。
「お前もいつか、おっさんになるんだぞ?」
バカげた話だ。さあ、次はどんなおっさんを飼うとするか。
小説「おっさん」 有原野分 @yujiarihara
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