tomari〜私の時計は進まない〜
七瀬渚
プロローグ
簡単じゃないとわかってた
昼休みの教室にはほとんど人がいなかった。
季節はもう忘れたけどよく晴れた日。活発な子たちはみんなグラウンドに遊びに行き、残ったのは普段から口数の少ない大人しい子たちだった。しかもその子たちのほとんどは我関せずと全身で示すかのように黙々と本を読んだりノートに何か描いていたりとマイペース全開だったものだから私はいくらか救われていたのだ。
当時小学二年生だった私に女性の担任が向かい合っていた。いつも私が使っている机は担任の机にぴったりくっつけられていた。
お互い椅子に腰を下ろすと担任は柔らかく目を細めて切り出した。
「もう一度聞くけど
私はぼやけていた記憶を掻き集め、言葉として成り立つ形になるまで圧縮しようと試みた。しかし実際は
「えっと……」
「トイレかな?」
「…………」
多分それじゃない。でもあのとき何か気付いたんだと思う。
担任はいつも明るく口調も穏やかな人だった。頭ごなしに決めつけて怒ったりもしない。それでもこのときの私は確かに圧を感じて思考が一層こんがらがっていた。
ちら、と教室の後方を見るとこちらのことになど無関心だと思っていた女子生徒の一人が私をじっと見ていることに気が付いた。彼女はすぐに手元の本に視線を戻したけど私の焦燥はつのったように感じた。
ふう、と小さなため息を方を目で追ってみると担任はやれやれとでも言いたげな苦笑を浮かべていた。
「
担任が話を本題に戻したことで私の頭の中の
ともかく事の発端が私であることは事実だった。それははっきり理解していた。
「中島さんはさっき謝ってくれたよね。桂木さんも後でちゃんとごめんなさいできる?」
中島さんという同じクラスの女の子が、私よりもよほど切り替えが早かったことも覚えてる。
謝ること自体に抵抗はなかった。私は小さく頷いた。
よし! と短い声を上げた担任は、昼休みが終わって中島さんが戻ってきたら自分の立ち会いの元で謝りましょうとこの話を締め括った。
机を元の位置に戻してすぐにノートと鉛筆を机から取り出した。
まだ近くにいた担任が私の動作に気付いて歩み寄ってきた。
「あら、桂木さんもお絵描きするの?」
「硬筆の練習」
「お勉強ってこと? 偉いけど今は休み時間よ。いつも頑張ってばかりではなく好きなことをする時間も大事なのよ、桂木さん」
「字書くの、好き。絵も好きだけど」
「……そっか」
前のページにまだスペースの余っていたことを思い出してぺらりとめくった。
四字熟語に興味を持ってそれを練習の題材にしている頃だった。いくつか書かれた『平穏無事』の文字は担任の目にも止まったらしい。腰を屈めて覗き込んできた担任の声は少し興奮しているようだった。
「随分難しい言葉を知っているのね」
「私の好きな言葉」
「へえ! すごい。前から思ってたけど桂木さんは賢いわよね。国語のテストなんていつも満点だし、この間の作文も上手だったわぁ。きっと文才があるのね! 将来は作家さんになったりして!」
そこまで言ったところで担任ははっと素早く教室の中を見渡した。
その後は少し声のトーンを落としていた。今思うと私に嫉妬の目が向くことを避けようとしていたのかも知れない。
「先生、ぶんさいって?」
「ああ、言葉が上手というか才能かな」
「でも私、よく怒られるよ。今日もあかりちゃんが怒った。言い方がむかつくって」
あかりちゃんとはさっきまで話題にのぼっていた中島さんだ。彼女とは結局あまり仲良くなれなかったな。
「う〜ん、そうねぇ。文章とお喋りはまた違うのかしら」
困ったような笑みを浮かべたまま担任はしばらく何か考え込んでいた。
私がノートに視線を戻しえんぴつを手に持ったとき再び声をかけられた。
「あのね、桂木さん。あなたはいいところ沢山持ってるのよ。得意なことだってこれからもっと増えていく。勉強だって好きな方なんでしょ」
「うん、嫌いじゃない」
「なら大丈夫。それにあなたは女の子だもの。可愛いし将来はいいお嫁さんになるんじゃないかなぁ。大人しい子はね、そうやっておうちのことを頑張るって方法もあるの」
「…………?」
何か思わぬ方向に話が飛んだような気がしてぽかんとする私をよそに担任は満足気な表情。二十代後半くらいの先生だったけど、今思うと少し夢見がちな人だったんじゃないだろうか。
廊下の方から沢山の足音と話し声が聞こえてくると胸の奥がザワザワした。
昼休みに入る前に起こったことが蘇った。
給食の前にトイレに行こうと思って廊下を歩いてた。そこは担任の言った通り。でも急がなきゃ間に合わない程ではなくて至って通常の速度で歩いてた。
途中で壁の掲示物が一枚斜めに貼り付けられていることに気が付いた。私は正しい位置に直さなければと思った。
そのとき中島さんが急に目の前に現れたように見えて思わず息を飲んだ。幸いスレスレのところで止まった。彼女も気の強そうなつり目をまんまるに見開いていた。
そうだ、やっぱり私の方が走ったんだ。
問題が発生したのはこの後すぐ。
目の前で立ちすくんでいる彼女に何か言わなきゃと思って出てきたのが何故か「気をつけてね」だった。
その言葉を受けた中島さんが「はぁ!?」と不機嫌そうな声を上げたのだ。
「気をつけるのはそっちでしょ! 勝手に走ってきてぶつかりそうになったくせに! ねぇ、失礼だよね、今の言い方。偉そうだしむかつく」
彼女は両隣にいた友達に同意を求めた。一瞬戸惑ったように見えたその子たちもやがて「うん」「そうだよね」と頷き始めた。
「謝りなよ、トマリちゃん。危なかったんだから」
優等生タイプの
それでも何も言えずにいる私に対して、中島さんの怒りはいよいよ膨れ上がったのだろう。
「もうどいてよ、邪魔っ!」
そう怒鳴って私の肩を強く押した。同い年の子の力とは思えないくらいの勢いに私の身体は呆気なく傾いて思いっきり尻もちをついた。
「何をやってるの! 中島さん、どうしてそんなことするの!」
駆けつけた担任はまず先に中島さんを咎めたけど彼女は毅然とした態度で言い返した。
「トマリちゃんが急に走ってきて私にぶつかりそうになったんです。なのに謝らないし、私が悪いって言ったんですよ!」
悪いなんて言ってないのに。そう違和感を覚えても言葉は出てこなかった。
「そうです、先生。先に走ってきたのはトマリちゃんです」
「あかりちゃんに文句言ってたの聞きました!」
中島さんの肩を持つようなことをいう他の子たちを見ているうちに、自分の記憶そのものがパズルを崩すようにバラバラに散らばっていった。
「そうだとしても突き飛ばして転ばせるのはいけないことでしょう。桂木さん、大丈夫? 中島さんもついてきて。二人とも落ち着いて話を聞かせてちょうだい」
給食の準備中だったこともあり、中島さんと私は職員室に行くことになったんだけど、そこで詳細を聞かれても私はなかなか思い出せず説明することが出来なかった。
そうしているうちにいつの間にか中島さんの方は納得して、先に私に謝ったのだ。
「突き飛ばしてごめんなさい」
そうはっきり言われたのに私はなんのリアクションも取れなかった。中島さんはもう腹を立てる様子さえなく、ただ冷めた表情でふんとそっぽを向いた。
皆の話し声が再び鮮明になった。感覚が現在に戻っていった。
やっと思い出した、詳しいこと。
中島さんになんて言えばいいのか、もうわかる気がした。
でも私はやるせない思いだった。だってその場で言えなきゃ意味がない。
「ちゃんと謝ろうね、桂木さん。大丈夫よ、先生がついてるから」
「うん」
担任が手を握ってくれて温かさは確かに感じたけれど、私の気持ちは安心とは程遠く、むしろ以前からの予感を確信に近付けたような気がする。
――あなたは女の子だもの。可愛いし将来はいいお嫁さんになるんじゃないかなぁ――
きっと実際は、お嫁さんになって全てが解決するほど簡単な問題ではないだろうと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます