美女と少年
べぽ。
第1話
窓の隙間から流れる爽やかな風、暖かな日差し、数羽の小鳥によって奏でられる若干うるさい合唱。
床には数十分前までは爆音を出していたはずの、液晶画面がついたままのスマートフォン。それから蹴り飛ばされたのであろう布団。
それらの惨状を見た、布団を蹴り飛ばした張本人だろう少年は床に転がっていたスマートフォンを一瞥し、悟った。
「あぁ…寝坊だ…ふぁ…」
液晶画面には【4月8日 10:30】と映し出されていた。つまり今日は、高校の入学式であった。
しかし少年は焦る様子もなく、ボーっとベッドから降りると、寝ぐせでぼさぼさになっている髪をかきながら自室に備えられている冷蔵庫からエナジードリンクを取り出し、飲み始めた。決して少なくない量のそれを一気に飲み干した。
「うん、ちょっと目が覚めた…気がしなくもない」
少年は飲み終えた缶をゴミ箱に軽く投げ入れると、ベッドに戻り腰かけた。
そこで、床に転がったままだったスマートフォンから着信を知らせる爆音が部屋の中に鳴り響いた。少年は「…うるさ」と呟くと、だるそうにベッドから腰を上げ、ゆっくりとスマートフォンを拾いあげ、着信に応答した。
「…はい」
『ようチカ、やっと起きたのかよ。入学式終わっちまったぞ』
「うん」
『ったく入学式の日まで悠長に寝やがってよ』
「はは、うん……ちょー寝た」
『はぁ、まあいい。それで?学校来んのか?』
「…あー、どうしよう……どっちでもいいなぁ」
『だったら来いよ。今からクラス発表だのクラス会だのあるらしいしよ。』
「んー…じゃあ、準備するよ」
『おう、さっさと来やがれマイペース宇宙人め。俺も一人で暇なんだ』
「あははっ…龍、俺人間だよ?」
『だー!そういうところだ!例えだ例え!いいからさっさと来いっ』
「…うぃー」
悪友からの電話を切るとスマートフォンをベッドに放り投げ、一階にある洗面所へと向かい、顔を洗い、歯磨きを始めた。
鏡にはボーっとした童顔の少年、チカが映っている。髪の毛は黒髪に所々、金髪が混じっており、耳にはピアスが数個。
歯磨きを終えたチカは、寝ぐせでぼさぼさになっている髪を水で軽く整え、洗面所を後にした。
部屋に戻り、ハンガーにかかっている制服に着替えていく。ズボンを履き、シャツの袖に腕を通し、ボタンを留め、ネクタイを手にしたところでチカの動きは止まった。
「……んー、結び方わかんないや」
しばらくぼーっと考えた後、ネクタイを床に落とすとシャツも脱ぎハンガーに戻した。そしてクローゼットの中からパーカーを取りだし着ると、その上からブレザーを羽織った。
「…ん、これでいいや」
そうして、ようやく準備を終えたチカは机の上から鍵と取り、スマートフォンと財布をポケットにしまい、玄関へ向かった。
玄関を出ると、暖かな日光がチカを迎え、緩やかな風が春の香りと潮の香りを同時に運んでくる。チカは軽く鼻を鳴らした。
「……春の匂いの勝ち」
視線を右に向けると、少し遠くのほうには堤防が見え、その先には膨大な海が広がっている。
海のある町。生まれてからずっと過ごしている町。都会と言えるほど賑わってはいないが、都会まで遠くもない。そんな町の見慣れた光景ではあるがチカは好きだった。
しかし、今は駅に向かわなければならないので、海に背を向けて歩いていく。チカが今日から通う高校は、電車で少し行ったところにあるのだ。
駅までは、そこまで時間はかからずに到着した。が、そこでチカは一つ気が付いた。
「あー……かばん忘れた」
自宅まではそう遠くはないため、現時点でかなりの遅刻をしていることを鑑みても、取りに帰ることは可能であった。
「…まぁいっか」
少し、ほんの少しだけ悩むそぶりを見せたが結局チカは改札を通り抜けていった。
ほどなくして電車がやってきた。乗り込むと、人はいるもののごく少数で自由に座ることができるほどであった。これもこの町の魅力かもしれない。いつ何時であろうと基本的には電車はすいている状態でやってくるのだ。
チカは一番後ろの車両の端の席に腰かけ、窓越しに景色を見ていた。高校のある駅までは15分かからない程度ではあるが、電車が進むたびに、徐々に徐々に外の景色は大きく変わっていった。田舎から都会へ。海からビルへ。程なくして目的の駅へ到着した。
駅内は賑わっており、学生の姿こそ見えないが様々な人が行き来していた。チカは迷う様子はないまま改札を抜けると、高校に向かうために歩き始めた。
チカの通う高校は都会のど真ん中にあるわけではなく、少し歩いた先の郊外の高台に存在する。だからといって小さいわけではなく、むしろ膨大な土地を使っている、いわゆるマンモス学校というものであった。
【御門学園】
それがチカが通う高校の名前であった。小中高大が存在しているが、高等部以外の校舎は別の場所に建設されている。一貫して言えるのは、自由を重んじる校風であること、部活動が活発であること、生徒数が多いことである。学力は決して高いわけではないが人気の学園であった。
高等部の校舎は長く緩やかな坂の上にある。その坂の名は、桜坂。春になると校舎までの道のりを満開の桜並木が彩るのだ。その美しい光景を目で楽しみ、肌で感じながら、新入生たちはワクワクしながら登って行ったのだろう。
チカはそんな坂を一人ぽつんと上る。この美しく幻想的な光景を、大勢の中にぎやかに楽しめなかったのを悔いるのか、一人静かに楽しむことができて良かったのかは人それぞれだろうが、チカは間違いなく後者であった。
一人でのんびりと、遅刻しているなどと感じさせない足取りで桜並木の中を登っていくと、坂の頂上地点が見えてきた。奥のほうには壮大な校舎が見えており、もう間もなくゴールであった。
坂の終わりに到着し、あとは校門まで伸びている平坦な道を進むだけ。そんなときであった。
少し強めの風が吹いた。その風は桜の花びらとその花の香。それともうひとつ、爽やかな甘さの香りをチカのもとへと運んできた。
その桜並木に吹く風の中に彼女はいた。
風になびく栗色の髪をおさえ、少しくすぐったそうに片目を閉じ、笑っていた。
それはとても楽しそうで、幸せそうな笑顔であった。
その光景を見たとき、チカはわかってしまった。直感で。説明などできるはずもないその感覚、ただそうであるという確信。
風がやみ、やがて、彼女と目が合った。彼女はチカに気が付くと、目を細めにこっと微笑んだ。
「あぁ……この人と結婚するんだなぁ」
チカの口からはただそれだけがこぼれ落ちた。
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