18 その時の僕たちは-b
アカイシの話を他人から聞くのは奇妙だった。僕が知るアカイシは物静かで、小さく一口ずつパンを千切って食べるような控えめな女性だった。質素な部屋のCD棚には山下達郎やゴスペラーズが並んでいた。テレビよりもラジオを好み、僕が部屋で煙草を吸おうとすると嫌がった。
彼女が鏡の前でコンタクトを外し、眼鏡をゆっくりと掛ける瞬間が僕は好きだった。
「何? もう大きくなっちゃったの?」
「僕は眼鏡に発情するのかも知れない」
「男の人は気楽でいいわね」
スン、と彼女は一瞬で鼻を啜って、ガラスのコップで錠剤を喉に流し込んだ。
◆
アカイシが誰とでも寝る、という話を聞いたのは、学食で一番安い丼を食べている時だった。その時僕は珍しく二限に出席する事に成功し、四限まで時間を潰さなければならなかった。隣に陣取る顔も見た事がない学生らの会話で、アカイシという名前が偶然出てきたのだ。珍しい名前だから、僕はすぐにその名前を聞き取れた。その学生らは五名前後で席を陣取り、大学の名前をアルファベットであしらった大きな大きなスポーツバッグを足元に置いて、運動をする者たち特有の張りのある声で喋っていた。
「つまりさ、チューすれば良いって訳じゃねえんだよ。そこに至るまでのシチュエーションが大事って事でさ」
「それが初風俗の感想って訳か」
「シチュエーションが大事って、おまえか弱い女子かよ」
「マジで、出しゃ良いってもんじゃないんだって良く分かった。徒労感がすごい。行った日の行動全てに対して後悔しかない」
「長引く賢者タイム」
ひとしきり実りのない会話をした後、突然アカイシの名前が出た。
「そういえば、アカイシっているじゃん」
「え? 誰?」
「ほら、一年の。サークルの体験で来たやつ」
「あの大人しい眼鏡」
「バスケじゃないよな、雰囲気」
「ほら、あれじゃね? 漫画から入ったやつ」
「ありがち」
場にぱらぱらと失笑が降った。
「って思うじゃん? どうやらすげえらしい」
思わせぶりに誰かが言った。僕は駅前の古本屋で買ったばかりのカバーがない文庫本に目を通しながら、耳を傾けた。彼らは後ろのテーブルで喋っている。
「とっかえ引っ換え」
「マジ?」
「マジ、マジ。後輩から聞いたから」
「いや、淑女だろ雰囲気」
「熟女?」
「淑女。貞操観念著しい女子って事だよ」
「一度だけ飯行っただけでヤれたって」
「マジかよ」
「しかも、多数」
「そんな雰囲気、全然なかったけどな」
長引く賢者タイムの男が意外そうな声を上げた。
「好きでした、みたいな雰囲気じゃんお前」
「シチュエーションを大切にする人は好みが特殊か」
「そんなんじゃ無いけどさ」
「いや、もっと化粧すりゃイケそうな雰囲気はあったよ」
「お前失礼じゃね? マジで」
それから話題は別なものに移っていった。僕は混乱しながら文庫本のページを手繰っているふりをした。文字が浮遊し、全く頭に入ってこなかった。彼女が誰とでも寝る?
僕は同姓同名の別人を疑ったが、僕が覚えているアカイシとの思い出をリストアップし、検証をしようとしても、全く無駄で、意味が無い事に気が付いた。僕は彼女の事を何一つとして知らない。一緒に食事をしている時に、彼女が残した食べ物は知っている。何かが苦手だと言っていたが、その皿の上に、波打際に上がった枯れ木のように打ち捨てられたそれが何であったのか思い出せない。どうでも良かったのだろう。彼女の中に入った時、一番大きな声をあげる場所と、僕に強い快感をもたらす場所を知っている。背中に回された手が虚ろに彷徨う感覚を覚えている。だが、温もりが思い出せない。ページをめくる。僕は自分が手の平に汗をかいている事を知る。
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