2 通り雨

 僕が暮らすアパートは四階建てで、堅牢なコンクリートでできていた。エレベーターはもちろんない。僕は一階に住み、家賃は4万円程だった。大学生が住むにしては安くない家賃だ。狭い庭を挟み、都内と結ぶ私鉄がブレーキの鉄が軋む音を立て、大家が放った大型犬2匹が狭い庭を駆け回り、うまく曲がりきれなかった犬の体が鉄の柵を打つ間抜けな音が聞こえてきた。何故こんな狭い土地で大型犬を飼おうと思ったのか理解できない。同じ一階に住む人間は大家の他にもう一人いたが、一度も顔を合わせた事がなかった。隣駅の大学に通う女性という事だったが、不思議なほど生活感がなかった。時折、外出時にドアを閉める大きな音を立てて、僕が夜遅くまで窓を開けて音楽を鳴らしたりした抗議の意を表しているようにも思えたが、結局3年間ほどの一人暮らしをしていて、一度も隣人である、あるいは隣人である、と言われている女性の顔を見ることはなかった。もしかしたら一度、引っ越しの挨拶品を持っていった際に顔を見たのかも知れない。いや、恐らく見ただろう。きっと二、三の会話を交わしたはずだ。僕の社交性はそこまで死んでいない。だがその隣人の顔を思い出そうとすると、不思議なほど強い逆光が掛かり、声も思い出せなかった。


 僕は一浪し、何とか補欠合格で滑り込んだ大学に通っていたが、およそ順風満帆な学生生活を送っているとは言えなかった。実家の両親とは良い関係とも言えなかったし、そもそも大学生活を送るという環境に身を置くことも僕の本意ではなかった。かと言って、何かをしたい、やりたいという確固とした主体的な思いを持つこともなく、何となく、両親と教師が行けというから大学に入学をしただけの、およそ何者でもない人間が僕だった。かろうじて人間としてのテイをなしていたのは僕の努力ではなく、人間としてたまたま生まれてきたからだった。


 大学生活を早々にこぼれ落ちた僕はアパートに篭り、昼夜関係のない生活を送る事となった。ゼミで知り合った親切な友人からは時折電話が掛かってきたが、やがて僕が大学の講義に戻る気がない事を察すると疎遠になっていった。僕は町のレンタルビデオチェーン店、コンビニ、それとマクドナルド以外に行動範囲を広げなかった。誰とも会いたくなかったし、話もしたくなかった。稀に実家から電話が掛かってくる事もあった。実家からの電話の鳴り方は他の電話と違っていて、すぐにそれと分かった。不思議なものだと思う。電子ベルの音は設定を変えない限り、原理的に同じ音しか鳴らないはずなのではないか? しばらく鳴らしたまま放置する事もあったが、辛抱強く、粘り強くなり続ける場合は受話器を取る時もあった。


 単位不足で進級の要件を満たしていない、と大学から通知がきたが、一体そちらはどのような生活を送っているのか、父も大変心配している、というような電話がほとんどだった。僕は大体、うん、分かってる、多分大丈夫だと思う、ちゃんと講義へ行こうと思う、などと生返事をして電話を切った。大丈夫、体が悪い訳ではないから、いちいちこちらに来なくても良い。心配しないでいい。そうした心にも思っていない嘘をついた後は部屋がさらに暗く、シンと冷たくなった。本当の事はひとつしか言っていない。


 やればできる、という事は分かっていたが、どうしてもやりたくなかった。やらなければ損だという事も分かっていたが、別に損をしても構わないと思った。損得で純粋に動ける体であればどれほど良かっただろうか。それよりも、正当な努力を長年重ねたにも関わらず、将来不当な扱いを受ける恐怖の方が上回った。そうした事が簡単に起こりうる未来しか思い描けなかった。今までの価値観では推し量れない重大な転換点を迎えている。それは肌身に迫って感じられる。だから僕は何かをしなければならない。だが、何をすれば良いのか分からない。僕はただ、一歩もうごけずにいる。











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