第6話 失っていた気持ち


 テオの指示でアリオは街を一周し、颯爽と橋の下へ戻って来た。すでに3つ目のサンドイッチを頬張っていたが、テオは彼の方へ向き直る。


「ほうだ?」


 口をもごもごさせながら街の様子を尋ねたが、パンがごわごわして上手く声が出なかった。アリオはあからさまに舌打ちすると、その可愛いらしい顔を、これ以上ないくらい歪める。それでも報告をしてくれるところが、彼のまた可愛いところだ。


「テオの言う通りチャーム無しもみんな、なんか笑ったり、楽しそうにしてる。殺しもまだ起きてないし、死体を埋めたり、怪我人を介抱してるやつを何人か見た。騒ぎは朝1番に起きた、カーサスのとこだけだった」


「そうか。ついに、この日が……」


 サンドイッチを飲み込むと、汚らしい水路を見つめながら静かに呟く。どれだけ汚い水でも、日中はキラキラと光を反射していた。隣で不貞腐れている少年は、果たしてそれに気が付いているだろうか。


 隣に腰掛ける髭面の中年男が、言葉の続きを言うのを、アリオは大人しく待っていた。しかし、彼はどこか懐かしそうに遠くを見つめ続けるだけで、何も言わない。いつもなら説教でも始まるところだ。


 手持ち無沙汰になったアリオは、残りのサンドイッチを頬張ることにした。


 そして、不思議なことが起きた。


 一口かじると、心の中に暖かい気持ちが溢れるような気がした。ララのサンドイッチはいつも美味しかったが、今日は一味も二味も違う。ララやカーサス、テオのことを考えるとたまらなく嬉しくなる。こんなことは今までなかった。


――そうか?


 これは、この街に来る前に、知っていた気持ちではないだろうか。ここに来て3年、毎朝、悪臭の漂う水路を眺めながら、こんな世界が早く終われば良いと思っていた。


 目の前の水路は、相変わらず悪臭を放っていたが輝いて見える。いつもの景色が綺麗だ。この世界にこんな喜びがあることを、忘れていた気がした。


 この気持ちは、なんだろう。

 なんて素晴らしいものだろう。


 ふと、テオも同じことを考えているのだろうかと思い、アリオは彼の顔を覗き込んだが、彼の表情はよく読み取れない。しばらく黙り込んだ後、テオは再び真剣な眼差しを取り戻し、こう指示して来た。


「アリオ、ララをここへ連れておいで。市が開かれるまで宿屋よりは安全だ。今日という日は長く続かない。おそらくまた反動が現れるだろう」


 言っていることが、アリオにはよく分からなかった。よく分かってなさそうだな、とテオは思ったが、アリオの顔から、いつもの無表情は消えていた。


 宿を後にしてから、頭を覆うフードが外れていることにも気が付かず、キラキラした瞳で街の笑い声に耳を澄ませている。そんな少年らしい姿に気が付くと、微笑ましくなってしまう。テオは思わず吹き出してしまった。


「アリオ、その気持ちは魔力のある人間や、心の強い人間、チャームが良く効いている人間が、普段感じているものだ。お前には良いチャームを持たせているんだが、この街に来てからは、なかなか感情をあらわにしないので心配だった」


目の前の少年は理解しているのかどうか分からなかった。しかし、今日は幼い頃のように、しきりに頷き、その輝く瞳は先を促している。


「……その気持ちは、500年前まで、ほとんどの人間が待ち合わせていたものなんだ。絶対に忘れるな」


 忘れたくないと思った。


 いつもテオの言わんとしていたことが、アリオはなんとなく分かった気がした。

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