彼女の見た音

春成 源貴

 

 雨が降るとピアノの前に座る彼女の姿を思い出す。


 彼女は隣の家に住んでいたお姉さんで、僕が小学生になった頃、すでに音大でピアノを専攻していたらしい。らしい、というのは僕は彼女のことを知るには幼すぎて、後で人に聞いた話だからだ。

 彼女の両親と僕の両親は若い頃からの友人同士で、昔から家族ぐるみで付き合いがあった。だから、僕が生まれた時から僕と彼女は知り合いで、友達だった。年が近ければ幼なじみという関係になっていたのだと思う。

 僕は彼女のことが大好きだったし、彼女も僕をとても可愛がってくれた。

 小学校へ上がる前の幼い僕は、彼女が音楽を志す学生だとは知らなかったが、お隣さんでピアノを弾く優しいお姉さんだということはよく知っていた。共働きだった僕の両親に変わって、たびたび遊んでくれたものだ。

 受験やピアノのレッスンがありながら、彼女は実によく僕の面倒を見てくれた。ピアノを弾きながら、僕と遊んでくれていたことを覚えている。

 ある時、隣の家の居間にあるピアノの傍で、僕は椅子にもたれて彼女の演奏を聴いていた。彼女は一心不乱にヴェートーベンを弾いていた。もちろん、今だから曲が分かるだけであって、当時はなんだか激しい音楽だとしか思っていなかった。

 僕は足の付かない椅子に腰掛けたまま、両足をブラブラさせながら、ピアノを弾く彼女の姿を追っていた。

 真剣な面持ちの彼女は、白く長い十本の指を正確に走らせながら、白鍵と黒鍵を叩いていく。その細さからは信じられないような力で打鍵し、応えるようにピアノが鳴り響く。部屋中に音が渦となって巻いていた。

 やがて彼女はぴたりと指を動かすのを止めると、ピアノ椅子に座ったまま僕の方を向いた。渦の余韻は部屋に溶けて、打って変わって静けさがやってきた。

 窓の外では少し強い雨が降っていた。

 手を叩く音のように軒先を叩き続ける音だけが残った。

 高校のブレザー姿の彼女は、にこりと微笑むと言った。


「退屈じゃない?」


 僕は大きく首を振った。


「ピアノの音がぐるぐる回ってたよ。すごいねえ」

「ぐるぐるまわってた?」


 彼女は笑った。

 僕はその笑顔でとても楽しい気分になった。


「そっかあ、じゃあねぇ……」


 彼女は顎に手をやり、少し考えると鍵盤に手を置いた。


「ショパンっていう人の曲だけれど、どうかなぁ?」


 彼女はいたずらっぽく言うと、軽やかなタッチで鍵盤を叩きだした。

 それは幼い僕でもなんとなく聞いたことのある曲だったが、曲名なんかは知るよしもない。

 楽しそうに身体を揺らしながら右手と左手の跳ねる彼女を見ていると、気が付けば一緒に自分の身体が揺れていた。

 僕は堪らなくなって椅子から飛び降りると、音に合わせて飛び跳ねた。彼女の右手と左手が跳ね上がると、僕も両足を踏んで真っ直ぐ跳び上がる。それから円を描くように小走りをして、また跳ねた。

 子供特有の甲高い奇声を上げながら、僕は飛び跳ねる。彼女はそんな僕を見ながら、ますます両手を跳ねる。

 やがて、音楽は止まった。

 僕はハアハアと肩で息をしながらぐったりと座り込んだ。


「大丈夫?」


 彼女が心配そうに言ったが、僕はそのまま捲し立てた。


「すごいすごい。面白かった。何かがはね回ってたよ」

「なにが跳ねてた?」


 彼女は心配そうな顔をしながらも口の端に笑みを浮かべて、嬉しそうに聞いた。


「うーんとね。なんだろう。ちっちゃいなにかがはねてたよ。動物がとんでた」

「うわぁ、すごいね。えらいえらい」


 彼女は汗の浮かぶ僕の頭を、気にする風もなく撫でた。


「この曲はね、子犬のワルツっていうんだよ」

「いぬかぁ」


 彼女は大きく頷いた。


「君みたいに跳ねて踊ってる子犬たちだね」


 彼女はからからと笑った。その笑い声は僕にはとても心地よく、それこそ音楽のようで、今も心の奥に残っている。

 僕は笑う彼女をもっと見たくて、益体もないことを口にする。

 少しでもこの時間が続くことを願って。


「お姉ちゃんの右手と左手は、なんでそんなに一杯動くの?」

「なんでだろうねえ」


 彼女は笑顔のまま少し真剣な風に顔を作って眉を寄せた。


「んーそうだねぇ」


 彼女は言った。


「右手と左手に妖精さんが宿ってるのかな?つまり、妖精さんが私の手を動かしてるのかもね」

「ようせいさん?」

「そう、右手でたくさん駆けてる方は、走るト音記号っていうお姉さんの妖精。で、こっちはね……」


 左手をひらひらさせた彼女は少し視線を上に送って考えてから言った。


「歩くヘ音記号っていう弟の妖精さん。どっちかって言うとたくさんの音を一度にゆっくり慣らす方が得意なのかな?」

「妖精さんかあ。すごいなあ、僕も友達になれるかなぁ」

「きっとなれるよ」


 彼女は満面の笑みで、再び僕の頭を撫でた。

 これが僕がピアノを始めたきっかけだ。



 もっと大きくなってから、彼女は僕に言ったことがある。

 世界は音に満ちている。すべてに音があって、音楽はそれを再現しているんだ、と。もちろん、世の中には音楽でない音楽を目指した作品もあるけれどもあるけれど、彼女にはそれが全ての法則だった。

 彼女はドビュッシーを弾きながらそんな話をしてくれた。

 秋も深まった宵の口に、電気の消えたピアノの部屋には、窓辺から射し込む月明かりが、黄色い溜まりを作っていた。

 その月光をスポットライトのように浴びながら、彼女はドビュッシーを情緒たっぷりに弾いていた。

 窓際のレースのカーテンが月光を受け、ピアノの音に合わせるように煌めいているようで、ひどく幻想的だったのを覚えている。

 だから僕はドビュッシーのその曲が大好きだった。その曲を自分で弾きたくてピアノの練習に打ち込んだものだ。

 僕にピアノの基礎を教えてくれたのも彼女だった。

 自分の練習時間の合間に、僕に鍵盤の触り方から教えてくれた。彼女は保育士になればとてもいい先生になっていたかも知れない。それくらい分かりやすく、さらに子供の心を掴むのが上手だった。

 僕にとって先生となった彼女だが、随分と経ってからある癖に気が付いた。

 彼女は初めての曲はもちろん楽譜を見ているが、ある程度自分の中に音が入って出来上がってくると、ほとんどの場合、目を瞑って演奏した。

 ただ、瞑っているだけではない。

 その美しい瞼の向こう側では、くるくると眼球が動いていた。近くでよく見ると分かる。隣で演奏をしている僕だから気が付いたのだと思う。

 彼女はピアノを演奏しながら、何かを見ていたのだ。

 高校生になる前くらいだろうか。あるとき僕は我慢が出来なくて訊ねた。


「目を瞑って演奏してるけど、でも何か見てるよね?」

 

 僕がもう結構大きくなってからだったと思う。


「え?」


 彼女は僕の質問に、一瞬呆気にとられたような表情を見せてから少し考え込んだ。


「わたし目を閉じて演奏してる?」


 彼女は不思議そうな顔をして訊ね、僕は首を縦に振った。


「……本当に?」

「うん、だいたい初見以外はいつも。しかも、眼球は動いてる。夢でも見てるみたいに」

「ん……見えてるんだけれどね。景色が」

「目を瞑ったままで?」

「うん」


 彼女はそう言ってから、はにかんだ。


「音楽が聞こえ始めるとね、世界の見え方……景色が変わるんだ」

「それって……」


 僕は絶句した。

 全く想像の出来ない次元の話だったからだ。けれども、彼女は僕を気にする風でなく続けた。


「世界は音で出来てるんじゃないかと思うときがあるの。わたしはいつもそれに耳を傾けているだけ。ピアノを弾くときは、世界をなぞっているのよ」

「……つまり、楽譜は世界の設計書って事?」

「あはは、上手いこと言うわね」


 つまり、彼女は目を瞑って演奏しながら、自分が奏でる世界を見ているということらしかった。

 理解が追いつかず、黙ってしまった僕の前で、彼女は再びピアノの鍵盤を叩き始める。目を瞑ったまま。

 世界を再現することに没頭しているようだった。


 僕が高校生になって少ししてから、彼女は交通事故に遭った。

 駅前の商店街の小さな楽器店に楽譜を買いに行く途中のことだった。家を出て駅まで徒歩で十五分ばかりの道のりを進み、駅前のロータリーから続く商店街が見えた辺りだ。

 信号待ちで停車する車と、縁石で仕切られた歩道の間をすり抜けるように走る原付が、少しだけ歩道側に寄ってしまった結果だった。

 左側に寄っていた車の脇を強引にすり抜けようとした原付は、たまたま白線の内側を歩いていた彼女の左腕を軽く擦ったのだ。

 彼女は弾かれるように少しよろけたが、原付はよろめきもせず、ただ、車道を走るようにバカみたいなスピードで駆け抜けていった。

 傍目には軽い接触事故だったが、彼女は左腕の腱を痛めた。


「わたし、ピアノが弾けなくなっちゃった」


 見舞いに駆けつけた僕に病室のベットの上の彼女は静かにそう言った。

 僕が彼女に面会できたのは三日ほど経った後で、精密検査を終えて、退院の直前だった。


「だ、……大丈夫だよ。また、弾けるようになるよ。治るんでしょ?」


 僕はそう言ったが、彼女は大きく頭を振っただけだった。左腕にはギプスも何も無く、ただ、包帯が巻いてあるだけだった。

 けれども、僕にもよく分かっていた。

 両腕、両手の指。全てを駆使して音を紡ぐピアニストにとって、わずかでも指が動かないことは、これだけで、致命的になり得ることを。

 彼女の目は真っ赤になって、腫れぼったくなっていた。多分、泣き続けていたのだろう。だが、不思議なことに、どこか吹っ切れたような表情だった。

 少しだけ笑ってすらいるように見えた。

 僕はまったくわけがわからなくなってしまって、彼女に訊ねた。


「どうして?」


 彼女は少し首を傾げてから言った。


「どうしてだろうね?……ピアノが弾けなくなってしまって、とても寂しいし、残念だし、悔しいし、不安なの。でも……」

「……」


 僕は黙って彼女を見つめて促した。


「もう、恐れなくていいの。怖がらなくていいの」


 彼女はそう言って、今度は本当に声を出して笑った。


「わたしがピアノを弾くときは、いつも、演奏以外の大事な音を聞き取ろうとしてたの。聞こえるときもあったし聞こえないときもあった。音楽は大好き。でも、聞こえたときは嬉しくて、安心したけれど、聞こえなかったときは怖くて、不安だった……分かる?」


 僕は首を横に振るしかなかった。


「あなたにも分かるわ」


 彼女はそう言って、左手を差し出した。

 僕は一瞬躊躇した。

 何かが僕を押しとどめようとした。

 けれども、彼女の差し出された手を放っておくわけにはいかなかった。彼女は僕の大事な先生なのだ。そこに過去形に繋がる響きが含まれていたとしても。

 僕は、ゆっくりと左手を差しだし、軽く握った。


「うわっ!」


 突然、静電気を受けでもしたかのように、僕の指先から手の全体にショックが走った。

 慌てて手を引っ込めようとしたが遅かった。左手は麻痺したように動かず、なぜか右腕にまで痺れが走るのが分かった。

 何かが、彼女の手を通じて流れ込んでくるようだった。

 その何かが僕の両腕と頭を駆け巡った。スローモーションのように世界がぐらりと揺れて、僕はゆっくりと膝から崩れ落ちた。

 彼女の微笑みが視界を覆い、やがて写真が燃え尽きるように、世界が黒い染みにむしばまれて、僕の意識は暗いところへ落ちていった。


 僕が目を覚ましたとき、一ヶ月ほどの時間が経過していた。

 奇しくも目を覚ましたのは、彼女が入院していた病室のベットだった。傍にいたのは看護師の女性と母親だけで、他の人の姿はなかった。

 母親は僕にしがみつくようにして涙を流し、僕はなにが起こっているのか全く分からず戸惑っていた。しばらくしてから泣き止んだ母親から聞かされたのは、僕が突然、見舞い中に病室で意識を失ったことと、倒れてから一週間後、つまり二週間と少し前に、あの優しいお姉さんは引っ越していったということだった。

 僕は自分の耳を疑い、三度母親に訊ねたが答えは一緒だった。

 母親は彼女の両親と仲が良かったし、直接、見送りもしたという話だった。彼女には、しばらくの間付き合っていた男性がいたようで、その男性と急な結婚話がまとまり、引っ越していったらしい。

 僕は彼女に特定の男性がいたことに驚いたが、落ち着いて考えれば、ごく当たり前の話だった。彼女も妙齢である。

 今までは彼女のピアノに対する夢や考えが妨げになっていたようだが、結局のところ、あの怪我のせいで、転勤族の彼と生活を共にする決断が出来たのだろう。ちょうど相手の異動の内示があって、その機会に合わせて彼女は付いていったのだ。

 彼女の両親も怪我のことと、その怪我によるショックに対して酷く心配していたので、気持ちを変えるチャンスだと思い後押しをしたということだった。

 僕はといえば、その話をベットの上で聞いたとき、不思議なことに特になにも感じなかった。あまり話が入ってこなかったが、茫然自失というよりは、むしろ、腑に落ちた感覚だった。

 母親は、今度は僕に起きた原因不明の昏睡状態の話を始めたが、すでに僕は聞いていない。幼い頃からのお隣さんだった彼女が遠いところへ行ってしまった事について考えてみるが、とくに寂しさも何もなかった。

 なぜならば、僕には確信があったのだ。

 彼女の手を取ったとき、僕の中に何かが流れ込んできた。そして、その何かは僕の中にとどまっている。

それは、彼女の力というべきか、能力というべきか。

 僕ははたと気が付く。

 これは彼女の心であり、感性であり、つまり音楽なのだと。

 彼女がくれた贈り物なのだ。意識的にか無意識かは分からない。彼女の姿は僕の前から消え、彼女の心、音楽は残った。



 僕は二日ほどして退院した。

 寝たきりだったせいで、すぐに日常生活に戻ることは難しかったが、それでもリハビリを続け、順調に回復した。

 結局、僕が再びピアノの前に座ったのは、退院して二週間後だった。

 目を覚ましてすぐに指を動かし、ペーパーの鍵盤の上で音楽を弾き続けた。暗譜している曲を片っ端から叩くと、紙を叩く音が音楽を奏でた。

 おかげでピアノの前に座ったとき、何の違和感もなく僕は手を鍵盤に置くことができた。

 指の動きも滑らかだ。

 僕は一つ深呼吸をすると、彼女が昔弾いてくれた、ショパンを弾き始めた。

 子犬のワルツだ。

 僕の少し太い指が、白い鍵盤の上を走り、黒い鍵盤を嘗める。

 僕が指を動かす度に、僕の視界は歪み、世界は揺らぎ、そして、輝き始める。光の中で白と黒の子犬が戯れ、跳び跳ねはじめた。僕の脳内と視界が直結し、輝きはぬるま湯のように身体に浸透して、ただ、幸福感に包まれていく。

 やがて、耳が何かを捉える。

 演奏をしながら視線を窓の向こうに移すと、雨が降り始めたのが見えた。

 僕は、心地よさに包まれたまま、惜しみながら演奏を終えた。

 ピアノの音色が少しの間部屋の中を漂い、それから空気に溶け込むように消えていった。すると、突然、窓から陽射しが射し込んできた。

 どうやらお天気雨だったようだ。

 ピアノと僕は、暖かな陽だまりに包まれる。そして、部屋の中は軒を叩く雨音に包まれた。

 僕は立ち上がってから、少しだけ胸を張ってお辞儀をした。

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彼女の見た音 春成 源貴 @Yotarou2019

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