最終章 伊賀忍者藤林疾風 戦国で維新をなす。

第一話 新政の始まり『天正府の新政』

天正5(1577)年4月上旬 京都朝堂院

藤林疾風 

 


 今日は、新たに御所に政務を行う朝堂院が新築され、その落成式と新政の改変布告を行うために、殿上人である公家一同が揃って参内している。

 加えて、織田信長公、上杉謙信公、三好義継殿、松永久秀殿、織田信忠殿、そして我が父の藤林長門守、俺が参列している。


 左大臣二条晴良殿が幾人かの公家を主上の御前に呼び出した。その中には名家が二家、半家が五家入っている。


「此度、その方らが帝への謀反を企てたこと明白なるぞ。その方らの家督は永久に公家を廃し、朝敵とすると共に平民とする。」


「お待ちくだされ。我ら身に覚えなくっ」


「織田殿の家臣、明智光秀を焚き付け、謀反を煽ったことは露見しておじゃる。申し開きはあるか。」


「我らは古より、朝廷を支えて来た臣でおじゃりまする。その臣を廃すなど朝廷に対する謀反許しがたきことにおじゃりまする。」


「ならば、この信長は朝廷の臣ではないと申すか。この儂を殺そうとするならば、己も殺されて当然と承知しておるな。」


「 · · · · 。」



『その方らは、朕が信長を疎ましく思うていると、言うたそうだな。

 朕がいつそのようなことを言った。

 朕の名を語る逆賊めっ、そこへなおれ。朕が首を刎ねてつかわす。太刀を持てっ。』


 この時、後陽成天皇はわずか7才。太刀など持てる体格ではないが、その気概と直言はその場の公家一同を凍りつかせた。


「陛下、どうかお鎮まりくだされ。

 その方らには帝の意向であると、申したはずじゃが聞こえなんだか。

 その方らのしでかしたことは、朝廷の信頼を失わせ、帝の身を危うくさせたと承知しておるのか。

 我ら公家を暗殺集団と名乗らせたものぞ。 

 故に朝敵として未来永劫、汚名を背負うが良い。連れて行けっ。」



 これに先立つこと数ヵ月前、明智光秀の謀反未遂事件が起きて後、俺は全国の忍び達に命じて、事件の背後にいる黒幕を洗い出すように命じた。

 足利義昭はもとより、室町幕府の幕臣全員の消息と動向。公家全員の繋がりと事件前の動向。大名国人の事件前後の動向。この中には織田家家臣や同盟している上杉、三好も含まれた。

 動員した忍びは、伊賀、甲賀はもちろん、風魔、三ツ者、歩き巫女、羽黒、根来修験者鉢屋衆、山くぐり衆の二千名余。上杉家の軒猿は除外した。


 そして、とある公家が毛利輝元に書状を遣わしていたことが判明した。

 書状の内容は不明だったが、差出した者は怪しまれる。すぐ様、この公家に絞って詮索を集中した。

 公家の下働きの者を買収し、過去の人の出入りを調べ、屋敷に忍んで書状の類いを検める。

 さらに出入りの者を洗い出し、怪しい者を追跡し、その繋がりを調べ上げる。

 その結果ついに、明智光秀の謀反と繋がる公家であることを突き止めた。

 俺は密かに、その公家と親しい公家二人を個別に買収と恐喝で探らせ、公家の地位家禄を失うことを憂いていると漏らさせた。

 その結果、同じく憂慮し、また信長を排し幽玄の者である宵の宮なる者を駆逐しようではないかと持ち掛けて来たのである。

 他にも謀反を考えた者もいたようだが、明智光秀の謀反に直接繋がったのは、この公家一味と判明した。


 俺は帝に拝謁し、処分を帝に任せた。

 帝は幼いながらも聡明であり、公家が帝の威光を使い勝手をすることの重大さを懸念され、帝自ら裁決されると明言された。



 朝堂院において、後陽成天皇自らのお言葉で、天正新政改変の布告がなされた。


『朕は、武力をもって争うことを禁じ、民が公平に豊かな暮らしを教授する政を行う。

 政は民に寄り添う者に託して、朕はこれを見守ることとする。

 朕は、· · · · · · · 。

 ここに天正の新政を布告する。

 宵宮藤景早人、一同に申し聞かせよ。』


「はっ。公家のご一同に申し上げまする。 皆様方が今ある公家の身分は、平安のみぎり定められたものでございます。

 決して未来永劫続くものではありませぬ。

 それは、それまでの皆様のご先祖の貢献に対する褒美として下されたもの。また、以降の貢献を期待したものでもありました。

 だが、時は移り政を幕府が行う世になり、皆様は政に関与する立場ではなくなり、時を経て民達の世情にも疎くなり、もはや到底政を担うこと適いませぬ。

 故に、帝の下、新たな政府を作りまする。

 その名を『天正府』と呼称します。

 皆様は、その天正府の役人として、新たな貢献を成してください。


 新政の政の長を三人の対等な役職に任せまする。

 政の行う行政の長を太政大臣織田信長殿、紛争や犯罪の裁きを法の下に為す司法の長に司政大臣上杉謙信殿、全国を45のあがたに分け、その代官たる県長を集め、議会を開き地方の政への要望を聴取する議会長を県議長三好義継殿と致します。

 この三役職は帝の国政を預かる最高責任者であり、対等の権利を有します。

 そして家督相続は認められませぬ。更にはその役職を辞するか、傷病などで職責を果たせぬまでの任期と致します。

 後任は、参議会、県議会の推薦を受けた者を、他の三権者が承認した者と致します。」


 信長殿の行政府には、総務省藤林長門大臣、財務省織田信興大臣、農務産業省服部半蔵大臣、国土省百地丹波大臣、軍務省柴田勝家大臣、病役省恵空大臣、文部省羽柴秀吉大臣、科学省松永久秀大臣、法務省丹羽長秀大臣、国外省安国寺恵瓊大臣などが置かれた。

 さらに、国政に意見を具申する参与として、公家や旧大名、大商人などで参議の議会を設けた。




 この年の10月、京都伏見に国会議事堂と言える伏見殿が完成し、最初の全国県会議が開かれた。

 内部は扇形階段状で遠方県の順に前列からの椅子席となっており、雛壇には信長殿以下大臣達の席がある。

  信長公の天正府は朝堂院であり、伏見殿が県議会。そして、謙信公の司政府は二条城跡に造営された。



 で、ハヤテが役目から逃れたのかと言うと、そうは行かなかった。


 新政制度審議官。それが俺に与えられた役職で、帝は国の象徴で政には関わらないためよく解らんが政全般に命を下せる最高権力者となったらしい。  

 というのも、初めての省や県、司法の制度相談役は仕方ないとして、参議の議長と帝の相談役を命じられたのだ。

 また、帝の教育役には綺羅、八重緑、松の三姉妹が付けられた。さらに宮中の女官達の教育役には、母上と台与が任じられたのだっ。


 それにより、藤林砦には道順を留守居役として、半数以上の者達が新たな藤林屋敷である宇治平等院の隣の『伊賀屋敷』に移り住むことになった。

 この正月開けに、屋敷が完成し、皆で順次移り住んでいる。

 八重緑は一人、森彦右衛門殿の抹茶を楽しめると喜んでいたが、宇治からは、伏見殿はともかく内裏からも遠いので、内裏から南北と伏見から宇治へ鉄道馬車を建設した。

 続けて北は嵐山や西は摂津まで工事中だ。

 鉄道馬車の鉄道レールは、来年以降に建設する蒸気機関の本来鉄道に使える鉄道レールと共用とした。


 新政は既に、臣従した地域から伊勢の代官配下の者達が始めていたが、あがたと県長の配備により、改めて開始された。


 その主なものは、戸籍、母子、障害、老齢者の登録。職の登録斡旋や職業訓練所の設立、生活保護の開始、各種産業組合の設立、寺社仏閣の保護、民の無料就学、無料病院の設立、低額賃貸長屋の建設、道路港湾整備、鉄道整備などである。

 その他に軍事も改変され、国軍として訓練、武器開発が行なわれている。


 画期的なことは、まず、地域環境に沿った農業作物の栽培がなされ、米麦塩油などを専売としたことで、物価の安定と飢餓の心配がなくなったことだ。社会保障の面では医療や就学の無償により未来の時代より進んだかも知れない。

 綿織物やおが屑などを材料とした靴の普及に加え、食材の多様化、調理の開発、衛生管理により、民の健康状態も向上した。

 各地の風土病根絶や害虫の駆除がなされ、森林の整備、災害対策がなされ、日毎に風景が変わっている。

 暦が整備され、7日に一度が休日と定められ、人々は買い物や観光という新たな慣習を持つこととなった。古の節句日も祝日とされ、古式豊かな儀式や祭りが復活した。


 各地の城は多くは廃城とされ、代りに県の庁舎、出張所が置かれ、民の窓口となった。

 一方、国防に際しては全国に10の師団を配備し、災害の派遣を含め、国防に従事している。



 後世の人々は、これを『天正維新』と呼称し、後陽成天皇を文明開化の祖と崇めた。


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