第四話 伊賀流熊襲征伐『龍造寺討伐』
天正4(1576)年11月下旬 薩摩国知覧
藤林疾風
色づいた秋の気配が村里にも漂う頃、俺は多忙を極めていた。
なにせ、大友宗麟との戦が終ると、豊後、豊前、筑前の大友領ばかりでなく、肥後の相良家や阿蘇家の国人衆の他に、阿蘇家当主惟将、秋月家当主種実が相次いで、新政への臣従を申し出て来たのだ。
東国征伐の時と違うのは、諸大名を一同に集めて勅命を申し渡した訳ではなく、単に勅書を送っただけであるため、返書も寄こさずにいるなど、今さらではあるのだが、無碍にもできない。
ましてや、敵対する大名傘下の国人衆もいる。
それで一同を集めて、新政の在り方を知らしめて臣従させることとした。
期日は11月30日。場所は薩摩の《豊玉姫神社》。
豊玉姫神社に集まった九州中南部の諸豪族達は再建された社殿の美観と、境内の外れに建ち並ぶ施設に驚いている。
まあ、宿坊長屋を始め、建物が見たこともない、真っ白な規格壁や木枠の硝子窓でできてるのだから驚くのも無理はない。建物内部の見学は新政の説明のあとにするが。
石灰練コンクリートの集会施設の内部は、雛壇と600席の固定椅子がある未来でいう公会堂だ。そこに100余名の者達を前方に集めて着席させた。
例によって、才蔵の前説で説明を始める。
「遠方よりの参集、大儀である。これより、宵の宮 疾風様から新政について話される。
尋ねたい儀については、最後にせよ。」
「我らの新政は、民の命を奪う戦乱を終結させる。そのために、この国の全ての領地を召し上げる。大名、寺社仏閣の全てだ。
朝廷のものとするが貴族の荘園などではないぞ。全ては民の共有物とし、大名も貴族も役目を行うことで、その民から棒禄を貰う。
領国という境界がなくなれば、水利の争いも関所もなくなり、道や橋も戦に関係ないものとなろう。
新政が目指すところは、民全てが飢えることなく豊かに暮らせる世にすることだ。
これまで、領地を治めてきたその方らは、新政の代官として、新政の施策を行うものとする。」
「 · · · · · · · 。」
「お聞きしても、よろしゅうございますか。」
「かまわぬぞ。何なりと尋ねるがいい。」
「民が治める世など、愚かな者が治めることなど、果たしてできましょうや。」
「その方は見かけは人のようだが、猿か犬でもあるのか。」
「何たることをっ、無礼でござろうっ。」
「民ではないのかと、尋ねたまでじゃ。
新政では、大名も武士も公家も僧侶も神官も民の一人だ。
確かに、農民達の多くは教養学識がない。
ただし今はだ。新政が始まれば、全ての民の子らを学問所に通わせる。その子らが大人になればどうであろうな。
その方の申す愚か者ばかりではあるまい。」
「しかし、我らには武士の誇りがござる。」
「武士とは、何ものぞ。」
「武芸を磨き、領地領民を守って生きる者にございますっ。」
「ほほう、もし、そちが公家の生まれなら、どうした。農民であればどうしたのだ。
そちに尋ねるが、そちの母方の母方の母方の母方の母方の夫は、武士であったのか。
父方の稼業を継いだから、武士なのであろう。
このまま戦乱の世が続けば、そちは討ち死にしてそちの子らは寺に拾われ僧になるか、村人に拾われて農民になるかも知れぬぞ。
それでも武士の誇りとやらは、妻子を見捨てて苦しめてまでも、そちが守るべきものなのか。」
「 · · · · · · 。」
「わからんのか、そなたらが目指さねばならぬ幸せとは、妻子や領民と笑いながら長生きして孫達の成長を見ることではないのか。」
「疾風様、新政とは奈良平安より以前の律令の昔に戻されるということでございますか。」
「ふむ、少し違うな。この国が中国に習い律令の制度を取り入れた時に間違えたことを糺すのだ。
何を間違えたか、それは国の役人たる国司郡司達を朝廷に仕える公卿貴族が血縁私欲によって、不公正を蔓延らせたことに始まる。
その結果は、貴族寺社仏閣の荘園が蔓延り、荘園の代官たる地頭などが実権を握り、やがて勢力を争い武力を持つ戦国大名となった。
皆の知る通りだ。だから、新政は荘園などの私有地を全て召し上げるのだ。
それだけでは済まぬぞっ。公卿貴族、寺社仏閣、大名、領主、全ての血縁家督を廃す。
要は、公正な働きをせぬ者は、権力を振るえぬ平民に落とすということだ。
新政は、民の暮らしを豊かにすることを第一義とする。そのための政は公正に行われなければならぬ。不公正による不公平が争いを生む。争いの行き着く先に平安などない。
あるのは、無益で不幸な生涯よ。
繰り返して申すが、その方らは一度代官と致すが新政の公正な政に努めぬならば、不要の者となる。くれぐれも忘れるでない。」
この場に参集した阿蘇家と秋月家は当主以下全ての国人が臣従した。
先の戦で、当主相良義陽を失った相良家の国人衆が朝廷への臣従を誓った。
また、当主が10才の有馬晴信は、密かに使いを寄こし、龍造寺に臣従している立場上今すぐ朝廷に臣従はできないが、龍造寺を討伐する際には朝廷に味方し、臣従するとの申し出があった。
これで九州の残る敵対勢力は、龍造寺家と大友宗麟の残兵だけとなった。
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天正5(1577)年2月下旬 薩摩国市来港
藤林疾風
早朝の市来湊を俺ハヤテが率いる戦艦3隻新造船5隻、大型商船5隻が兵員5千を乗せて、出港して行く。
これが第三陣になる。昨日の午前と午後に第一陣5千が筑後の柳川城に向けて、第二陣5千が肥前の須古城に向けて進発して上陸している。
第三陣5千は、有明海から直接に龍造寺の須古城へ攻め掛かるのだ。
俺は早期の龍造寺討伐を決めた。早期に騒乱の元を絶たねば、新政の普及が遅れる。
当初の予定では、昨年のうちに織田と毛利連合軍で北部九州を制定の計画であったが、毛利の離反で頓挫した。
このため、信長殿は中国四国討伐に当たらねばならなくなった。それに替わり、俺が南九州勢を組織して、東北勢と伊賀軍で討伐することにしたのだ。
大友宗麟との戦いを通じ、日向、薩摩の兵の実戦調練を重ね、鉄砲兵4千、鉄砲騎兵2千を組織した。
作戦は唯一つ、龍造寺一族を根絶やしにすることと居城を焼き尽くすことだ。
九州の国人衆に謀反などできぬと知らしめるためだ。
龍造寺隆信は、柳川城に5千。須古城に2万の軍勢を配し、我らが海上から襲い掛かると、城を捨て、地の利を活かした内陸での野戦を選択したが、柳川城から追い出された龍造寺勢は、東北連合軍の鉄砲騎兵2千に背後を突かれ、迫撃砲の砲撃に成す術がなく敗走した。
また、須古城を出た龍造寺の本軍も、南九州連合軍と対峙したところを上陸した伊賀軍との挟撃に会い、敗走するが背後に柳川城の軍勢を破った東北連合軍の鉄砲騎兵に迎え撃たれ、龍造寺隆信以下の武将が討ち取られて終焉を迎えた。
この戦いにおいて、唯一誤算だったのは、龍造寺の当主政家が騎兵1千を率いて、我が本陣の背後を急襲してきた際に、八重緑と薩摩おごじょ隊30名が、予備兵として控えていた鉄砲騎兵200名を率いて奮戦したことだ。
敵の騎兵隊にいち早く気づいた八重緑が傍らの鉄砲騎兵に自ら先頭に立って、突撃を命じたそうだ。
迎え撃たれた敵騎兵は侵攻を停められ、八重緑達に打ち破られているうちに、本陣の鉄砲隊が体制を整え、討ち取った。
十二単衣の甲冑に身を包んだ八重緑は、途轍もなく目立ち、敵も味方も見惚れたという。
戦いの後で皆が褒めそやすが、血の気が引いて震えることしかできなかった。
母上になんて、言い訳しようっ。
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