第三話 伊賀流熊襲征伐『耳川の戦い』
天正4(1576)年10月下旬 日向国宮崎郷 藤林疾風
澄んだ秋晴れの空の下、日向の農民達は無事に秋の収穫を終え、ほっと一安心しているところだ。
この冬は農地の改良や灌漑用水路、それと同時に行う道路の橋の普請など目白押しだ。
河川の堤防改修などは、夏に行っている。
秋の野分たいふうに備えるためと、道路や農地の普請に影響ないからだ。河川をできるだけ直線や、なだらかな曲線にし、支流との合流地点や洪水の起こりやすい地点の川幅を広げ、堤防を高く頑丈にした。
おかげで今年は野分の被害は皆無だった。
信玄堤のような大工事でもないのに、なんでやらなかったのかわからん。
帝の新政を担う《北面の武士》、その一翼である伊賀軍が日向、薩摩、大隅で治世を始めている。
次は大友家が討伐される。そんな風聞が流れる中大友宗麟が手をこまねいて、待っている訳がない。
夏にも軍を起こして、日向に攻め入るかと思ったが大友宗麟は長期戦を想定したのだろう、秋の収穫を終えてからの戦を選択したようだ。
南九州の制圧後、俺は降伏した日向と薩摩大隅の者達を新政に当たる者達と新たに南九州の連合軍とする者に分け、夏の間に課した普請や軍事調練で鍛えに鍛えた。
東国の各地から、馬3千頭と騎乗兵を呼び寄せ、南九州連合軍の鉄砲兵を後ろに乗せ、機甲騎馬軍団を創設し、他の1万2千の兵士には全て単発だが、雷管式で火縄を有せず、風雨に関係なく発砲できる銃を配備した。
これに加えて、伊賀軍2千を改変し迫撃砲120門600名、盾の特殊部隊600名、兵糧部隊800名の陣容となっている。総勢2万の軍勢である。
島津家中で臣従した者達の中には《山くぐり衆》と呼ばれる島津家の忍者衆がいた。
島津家では忍者を『山くぐり』と呼び、その主体は山伏達であった。
島津家では他の大名家とは違い、彼らを重用し、棒禄ではあるが家臣として召し抱えていたのだ。
島津家を滅ぼしたあと俺は、山伏達と関係の深い根来寺を通じ、朝廷への帰属を求め交渉を行った。
彼らが敵対して南九州でゲリラ戦でもやられたら面倒この上ないからだ。
幸い根来寺の説得と俺が伊勢巫女達の頭領であり民のための新政に力を尽くしていることを理解し、俺の直属として臣従させてほしいと申し出てきた。
俺は新政が落ち着くまでは、仕方ないとして配下とした。その数300余名、一族の女子供年寄りらを含め850名余である。
父上に知らせ伊賀の棒禄を与えることにした。
もっとも、島津家では召し抱えた者の棒禄だけであったが、俺は一族に対しての棒禄を一括支給し、一族の中での配分を任せたところ、以前の3倍にもなったと驚愕していた。
長には安定した棒禄を出すから、一族の者達に十分な衣食住を手当てするよう命じた。
彼らにはさっそく大友家だけでなく、九州各地に散って動静を探る任務を与えた。
新政軍の主力が中国、四国討伐で不在中の今、大友宗麟が数が有利なうちに日向に攻め込んで来ることを想定して、収穫不能、或いは青田刈りを懸念した日向北部一帯には早生種の米と野菜を植えさせた。
案の定、9月に入ると、大友宗麟は兵糧の徴収の準備を始めたとのことで、日向北部に中南部の領民多数に応援させ、収穫を早期に終えさせると、南部への避難を命じた。
俺が大友宗麟との戦において想定したのは、史実で2年後に起きた
史実の《耳川の戦い》と呼ばれる戦の主戦場は、正確には高城城下の高城川(小丸川)の河原である。
初め先陣が敗退した島津軍は、島津家の得意戦法である《釣り野伏》で形勢逆転を果たした。
敗戦で不利となった大友軍の一部が退却の途中、主戦場から20km程北の《耳川》に追い詰められ、渡河に苦しみ大被害を出したというのが真実だ。
その戦いは、大友軍3〜4万で島津軍が2〜3万と言われている。
結果として、島津軍が逆転勝利したが、その戦において特筆すべきことは、大友軍の鉄砲が数千丁に及び、国崩しと呼ばれる大筒(フランキ砲、飛距離400m程)まで使ったことだ。
さすがは南蛮貿易をして、財力がある大友だ。
この戦は、鉄砲の撃ち合いによる近代戦の様相を呈するだろう。未来知識を導入しても、なんとしても被害を最少限に抑えなくてはならない。
俺は夏の間に、新政の指揮や南九州連合軍の訓練だけをやっていたんじゃない。伊賀の工房に命じてあるものを作らせていた。
それは、楕円形の厚さ15mmの鉄板で3面を囲い、鉄砲から身を守りながら進撃できる大型の盾とも言うべきものだ。
盾には銃眼を備え、重量軽減のために外部は三重の竹で覆っている。
移動には藁柄を臭水滓アスファルトで固めた6輪の車があり、兵士二人で容易に動かせるものだ。何度も、伊賀の工房に駄目出ししてようやく完成させた。
これを戦盾車と名付け、兵士5人で運用する。
秋までに用意できたのは120台だけだった。
伊賀の鉄砲隊に配備したのは、新式銃と呼ばれる6連発のライフル銃であり、伊賀と伊勢の軍にしか配備していない。敵に渡す訳にはいかないからだ。
戦盾車は、後方の支援さえあれば、銃撃戦で相当優位な威力を発揮するだろう。
それから、迫撃砲弾も改良させた。東国で用いた榴弾に加え、いわゆる火炎弾ナパームダンを作らせた。
これは主に明かりのない夜戦で活用するためだ。敵陣に火の手が上がれば、それだけ攻撃目標を視認できる。
日向や薩摩の現地でもいろいろ作らせた。
飲料水としては、使い捨ての竹筒に果実を加えた果実水や麦茶。
兵糧では伊勢長芋(薩摩芋)の干し芋、麦粉で焼いたお好み焼き(賞味期限2日)。
兵達には1日1回、白米の握り飯と具材たっぷりの味噌汁は出すつもりだが。
これは実は訳有で、俺に無理やり伊賀から着いて来た妹達が、本隊の後方に安全距離を確保した上で、女衆からなる兵糧炊飯部隊を設立、出陣することになったからなのだが、悩みの種でもある。
大友がいずれ出陣して来ると想定した時から、目立ないよう密かに、戦場となる高城城下の地に、仕掛けを巡らせた。
領民へは秘密裏に立ち入りを禁じた上で、多数の落し穴や敵陣が想定される場所に、爆薬を仕掛けたのだ。
爆薬は雨や湿気を防ぐため陶器の瓶を逆さにし、蓋の下には生石灰の乾燥剤を敷き詰めた。瓶の上は少し盛土し、秋に咲く伊豆に野生する黄色い花の《磯菊》を目印に植えた。
厄介なのは、火炎弾ナパームの炎が一定時間届いていないと、誘発しないことだ。
味方の陣地とすべき場所には塹壕を掘って低い土盛りをして、草木で偽装しておいた。
あとは、軍勢が到着した時に運ばせた逆茂木で、防御柵を並べれば良い。
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天正4(1576)年11月上旬 日向国高城
藤林疾風
10月21日に豊後の岡城を発した大友軍は総勢3万5千余で、25日には日向の最前線である松尾城に迫った。
松尾城には、囮役の機甲騎馬軍団300騎を配置し、大友軍が攻め寄せたら城を放棄して敵の前衛先陣にちょっかいを出して、俺達が本陣を構える高城城下におびき寄せるように指示した。
機甲騎馬軍団では、この名誉ある初陣に誰が出るかで喧々諤々となり、軍団長として乗り込んで来た最上義光殿まで出ると言って収拾がつかなくなって俺のところまで持ち込まれた。
ここで軍団の一同を前に、我が
『大友家の本軍を打ち破るのが本懐だから、軍団の未熟な者が訓練で行けばいいのよ。』
と、こともなげに発言、皆一瞬にしておとなしくなり、結局第一分隊が任務に着くことに決した。
余談だが、綺羅と八重緑の二人は機構騎馬軍団の調練に参加し、馬の手綱を握る綺羅と後でライフルを振るう八重緑は、その卓越した技量から、伊賀の《姫武者》と呼ばれているそうな。頭が痛い。
10月29日に本隊1万2千を率いて高城を出た俺は翌日予定どおりに、城下の高城川河川敷から、少し離れた南側の地に布陣した。
これを知った大友の軍勢も、二方向から接近し、11月1日に高城川北岸に着陣した。
海沿いを南下した大友本隊は大友家の実力者田原紹忍が2万7千の軍勢を率いて布陣。
陸側から来る大友軍の別働隊は、佐伯宗天が率い8千が高城の西に布陣した。
一方、大友義統は肥後の相良義陽に協力を求め、相良義陽の出陣に、配下の志賀親教、鑑隆朽網宗歴一万田宗慶の南郡諸将を肥後に送った。
しかし、これら南郡衆は、帝に逆らう日向攻めに反対した武将達で、相良義陽に合流することなく、肥後から動こうとはしなかった
大友軍の別働隊は、着陣した翌日に背後から高城に攻め掛かったが、守備兵の鉄砲隊に手痛い反撃を喰らい、遠巻きに城を包囲布陣した。
そして、さらに翌日の12月3日に大友軍の主力が高城川を渡河して進軍を開始した。
大友軍はこちらにも多数の鉄砲があることを承知して、長さ3m程の竹束を横にして、持ち手2人と鉄砲手2人を組ませた、鉄砲歩兵とでも言うべき戦法で攻め掛かってきた。
だが、そんな時代遅れの戦法が、俺に通じる訳がない。
《錦の御旗》を掲げた本陣正面に戦盾車隊を並べ敵勢の目標とさせ、撃ち手1名に2名の弾込め役を付け、塹壕に籠もって応戦していた新政軍は、大友の鉄砲隊を間近まで引き寄せると一斉に手投げ焙烙瓶を次々と投げて壊滅させた。
さらには、大友軍の主力全軍が高城川を渡河したのを見計らって、迫撃砲の砲撃を開始した。
榴弾と火炎弾の入り混じる砲撃により、埋められていた瓶の爆薬が爆発し、さながら戦場は火の海と化した。難を逃れた敵兵は散り散りとなって戦場を離脱して行った。
同時刻、高城を包囲していた大友軍の別働隊に2千の鉄砲騎兵隊が襲い掛かっていた。
鉄砲を撃ち掛け、伏せた敵兵達を騎馬で蹴散らし手投げ焙烙瓶で一掃する。その後は、高城から打って出た城兵達によって掃討されたのである。
また、占領した松尾城にいた大友宗麟に対しては薩摩から出撃した伊賀水軍の戦艦艦隊が海上からの攻撃を行い、宗麟を追い出していた。
艦隊は、その後豊後へ攻め入る予定だ。
松尾城から大友軍を囮となって誘導してきた鉄砲騎兵隊300騎を含め、新政軍の本陣に待機していた1千騎には、大友宗麟追討を命じ松尾城及び豊後への遠征を命じた。
なんとか松尾城から逃げ出した宗麟であったが、帰路に居城である白杵城や佐伯城が落とされたことを知り、失意のうちに豊後府内城ヘ帰還した。
だがこの敗戦を期に、豊後、豊前、筑前の大友領では国人衆が新政に従うべく蜂起した謀反が頻発。
さらに頼りの宿老 戸次道雪の離反によって宗麟の軍事力は壊滅的となった。
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