第10話 五畿内騒乱と噂の新政。3

天正元(1573)年12月 安芸国吉田郡山城 毛利輝元



 城の書院に、吉川元春、小早川隆景の叔父二人、毛利庶家筆頭の福原貞俊、口羽通良。

 それと安国寺恵瓊、俺の6人が集まった。


「天正の改元と共に、畿内の情勢は瞬く間に変わりましたな。」


「織田が、再び上洛するとは思わなんだわ。

 しかし此度は、本気で天下統一を成すつもりぞ。」


「信長公の下、三好宗家の義継殿が松永弾正を従え、畿内を制圧しつつある。大和の筒井の下へ逃れた足利義昭殿は、石山本願寺の助力も引き剥がされて、もはや泥舟ですな。」


「うむ、足利に味方せんとした播磨、丹波、但馬の軍勢も圧倒的な力で滅ぼされた。

損害が大き過ぎて、もはや再起はなるまい。

 それに、阿波から総力を上げて侵攻しようとした三好三人衆の軍勢を、本土に上陸にさせることなく、海上で海の藻屑としおった。恐ろしい武力よ。」


「村上水軍が付いておりながら、なす術が、なかったと聞く。海賊を称しておるが伊勢の水軍だとか。天下の堺湊にも接岸できぬ大船があったとか。

 丹後、但馬の水軍どもも、震え上がったであろう。」


「毛利はこれまで、信長公には敵対しておりませぬ。

 先の上洛の時にも互いに文を交わし、誼を通じてございます。」


「しかしどうする。信長公が、強大な武力を持たれておるのはわかるが、毛利は戦もせず臣従するのか。信長公は、毛利と対等な同盟など望むまい。」


「朝廷に、院に使者を遣わしてはどうか。

帝の即位の祝いの品を献上しては。

 信長公はどうやら朝廷に深く関わりを持つ様子。院の下に伺えば、信長公の考えも知れるのではないか。」




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天正2(1574)年1月中旬 京都仙洞御所 

藤林疾風



 安芸の毛利家から、帝の即位を祝う使者が来た。だが帝の下へではない。

 表向きは昇殿が叶う身分にないので、院への拝謁を願い、これまでの臥薪嘗胆に、労いの言葉を差し上げたいとのことだが、新政の様子を探りに来たことは明らかだ。

 信長公が随伴するのはまずいだろうとの院の仰せにより、二条殿と俺が随伴することになった。

 毛利家からの使者は安国寺恵瓊。こちらは主に二条大納言殿が対応する。


「ご尊顔を拝し恐悦至極にございます。毛利輝元が家臣、安国寺恵瓊と申します。

 此度の帝の御即位、並びに御改元の運び、誠に目出度く謹んでお祝い申し上げます。」


「うむ、毛利家の朝廷への忠節を、嬉しく思う。」


「安国寺恵瓊、直答を許す。」


「もったいなきお言葉、恐縮至極にございます。」


「近頃の西国の様子はどうか。」


「中国は少し落ち着きましてございまする。

 未だ九州では、戦が治まらぬ様子ではございますが。」


「朕は天正という年号に、戦乱に明け暮れる世を正し、戦のない世にすること願ったのじゃ。毛利家も心して、尽力してたもれ。」


「 · · · 、そのお言葉、誠に尊いことと存じますが、応仁の頃より120年もの長きに渡り続いていることなれば、一足飛びに成すことは難しいかと。」


「恵瓊、争うておる大名が皆、臣従すれば、治まるということかの。」


「一言で申せば左様にございますが、本来、征夷大将軍の家臣たる者達が争うておりますれば、如何ともしがたく · · 。」


「足利にその力なきは、承知しておる。

よって解任したのでおじゃる。」


「それは次の征夷大将軍を織田信長公に任じなさるということでございましょうか。」


「家職となるような征夷大将軍は任じぬ。

無能なニ代目三代目の将軍など無用じゃ。

 初代が如何に英傑たる将軍であっても家督継承を重ねれば、勝手好き放題致し民の暮らしを蔑ろにするばかりか、朝廷すら顧みぬ者が将軍となる。

 三好長慶、武田信玄、毛利元就の亡き後、その跡継ぎ達に天下を治める器量はあるのかの。」


「 · · · · · 。」


「鎌倉幕府も足利の幕府も、否、治承の頃の平家でさえも失敗しておる。古の頃は知らぬがの。」


「二条様、それではどうなされるので。」


「朝議で政まつりごとを行う。しかしその政には朝廷は関わらぬ。武家である大名達に預ける。

 これが院のお考えじゃ。帰って輝元に伝えよ。帝に、誠の忠節を尽くせよとな。」


 二条晴良 さきの関白、御歳49才。

 老獪で迫力ある弁舌は、聞き惚れちゃうんだよね。

 俺の構想をすっかり自分のものにしている。まあ、俺としては口を挟む余地がなくて楽だったけどね。




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天正2(1574)年2月中旬 大和国筒井 

藤林疾風


 筒井城は大和国筒井にある平城で、近くを左保川が流れている米作地域にある。

 足利義昭が籠城する筒井順慶の居城である筒井城は南北400m東西500mほどで、外堀と内堀の二重の堀で防御されている。


 例によって総大将は、三好義継殿。柴田勝家殿と松永久秀殿もいる。

 城の北に構えた本陣には、三好勢5千名と伊賀の砲兵部隊がいて、東西を織田勢4千名ずつで三方を包囲しようとしている。


「申し上げます。柴田様の織田勢、東西の陣立てを終えられました。」


「さてと、陣立ては完了したな。筒井城内の様子はどうかな。」


「若殿、焦ることはござらん。大和の地には新政が民を豊かにするとの噂が流れ、民の間には、戦への厭世気分が広まっておりますのじゃ。

 あとは、勝てぬ戦と知らしめて城兵が逃げ出すのを待てば良いのでござる。」


「義継殿、こういう時はじっくり進めることが肝要なのです。城兵には逃げ出す時を与えなければいけません。」


「しかし疾風殿、南をがら空きにしたのは、あまりにも見え透いているのではないか。

 足軽達が逃げ出すかも知れぬと、城の者達が警戒しておろう。」


「おおいに警戒して貰いましょう。警戒しておる態度が出れば、指揮する者達と足軽達の信頼が崩れていきます。

 一向宗とは違い、死ぬまで戦う兵はおりませぬ。

 この後は、夜間に松明の灯りを見せつけ、夜襲を繰り返して城兵を疲れさせることです。」



 夜間2度3度と不定期に鉄砲を撃ち掛け、鬨の声を上げて、城門まで攻め掛かることを繰り返すこと5日。

 夜襲の合間に逃亡する兵が日毎に増えて、わずかな期間に、城兵の3分の1近くが逃げ出してしまった。たぶん逃亡の咎で処分され殺された者もいるだろう。

 そして6日目からは昼日中、迫撃砲が火を吹き、城兵もろとも城壁を粉砕して行った。

 一気にではなく、城兵に諦めの気持ちを懐かせるために、わざと数カ所ずつ破壊する。

 砲兵隊が東西北を異動して外周の城壁のみを破壊していった。この間も城兵の逃亡は、続いていた。


 そして城攻め開始から2週間。筒井城から使者が出て来た。

 使者は幕臣の一色藤長、ハヤテとは面識がある。本陣の床几に着座すると挨拶した。


「幕臣一色藤長、将軍家の使者として参った。和議を結びたい。」


「 · · 、将軍家とはどなたでごさるか。

 先の将軍 足利義昭殿は、朝廷から罷免されたはず、将軍ではござらぬが。」


「新たな将軍は任命されておらず、義昭公は、未だ天下の政を担う所存にござる。」


「そんな戯言を、言いに来られたのか。

 一色殿情けでごさる。辞世の句をお詠みなされ。」


「おっ、お待ちくだされ。此の戦、我らの負けにござる。義昭様は畿内から退き申す。 

 また筒井家は三好殿に臣従致しまする。」


「藤長殿、変られましたね。昔、興福寺から覚慶という小坊主を助けたことがありましたが、傍らには忠義の幕臣がお揃いでした。

 藤長殿、後世の人々が藤長殿をどう呼ばれるか、お分かりになりますか。

『古から戦国の世にかけて、最も愚かな将軍に仕えた最も愚かな幕臣の一人』と言われましょうな。」


「俺のことは何と言われようと構わぬのだ。幕臣として足利将軍家を守らねばならぬ。」


「まだ分かりませぬか。義昭殿をあの平将門を越える大罪人にしてしまったのですよ。

 鎌倉三代、足利15代の将軍で、『朝敵』とされたのは義昭殿が初めてのことですよ。

 征夷大将軍の任命権者に反乱する暴挙を、幕臣ならば何故お止めしなかったのです。

 止めて然るべきではありませんでしたか。

 それとも、帝を葬り、帝になり代わる者をお造りになるつもりでしたかな。

 一色藤長という人物は、大謀反人の側近として、永遠に語り継がれましょうな。」


「 · · · · 、そんな存念など · · · 。」


「さて、お分かりいただけたかな。もう和議とか、我らが許す許さないという話ではないのでございます。

 義昭殿は謀反人、なれば二度と将軍になどなれぬのでございますよ。」


「覚慶殿には、そのことを分かってもらうために、この戦をしました。

 兵達が逃げだしてご理解されたでしょう。 

 将軍家などいう権威など、もはや役に立たないのです。

 この戦乱の世を作り出したのも、足利将軍家です。

 家臣を抑える武力を持たず、いたずらに、家臣達を争わせた結果です。

 あの頃の覚慶殿に、今からでもお戻りなされと、お伝えください。」


 義昭は、使者から戻った一色藤長の言葉を聞き、将軍職罷免を受諾し、自らと幕臣達並びに筒井一族の出家を願い出た。

 朝廷では、朝廷に弓引いた義昭を死罪とすべきとする意見も多かったが、関白近衛前久の懇願もあって、死罪を逃れ出家ということで許された。


 義昭は、昌山道休と号し、天命まで仏門に帰した。

 ここに15代続いた足利幕府は滅んだのである。

 史実では天正元(1573)年に、信長に対し挙兵し敗れて、京を退去して幕府は実質滅んだとされている。





【 9つの蛤貝 】

 二条御所の完成後に、門前に割れた蛤貝が9つ並べおかれていた。

 「公界(9の貝)が欠けている」、と京童が笑ってしたものと囁かれた。

 将軍義昭は、御所を信長に建ててもらう程自分では何もできないと揶揄したのである。


 また、挙兵した時に京では

「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく

 いたくも花を 雨のうつ音」


『(信長が義昭をまるで)父母のように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(花の御所)を打つ音がする。』の歌の落首が立てられたという。

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