第七話 伊勢芋の礼状と一向一揆同盟。

元亀3(1572)年6月末 美濃岐阜城 

藤林疾風



 田植えの季節を終えたが、長島の一向一揆は小康状態のままだ。しかし越後では加賀の一向衆揆に呼応し越中の一向衆が蜂起した。 

 3万を越える一向一揆勢は、北条と武田両家に対峙中で、謙信不在の上杉家臣の軍勢を打ち破り、その勢いは留まらず、越中の西部から中部にまで迫っている。


 俺は諸国の情勢と一向一揆鎮圧を信長公と話し合うため岐阜城に来ていた。

 今年の正月、伊勢神宮に初詣に行った綺羅いもうとが祭主藤波殿から一通の書状を預かって来ていた。

 その書状は、越後の上杉謙信からのもので冷害飢饉に苦しめられる越後で、伊勢巫女達が広めた伊勢芋(馬鈴薯)が飢饉を救ってくれたとの礼状であった。

 そして、伊勢神宮が巫女を遣わしてくれたことに対する感謝の気持ちを込め、一振りの短刀を献上するとあった。

 その短刀は書状とともに疾風殿に託すと、祭主藤波殿から伝言があった。



 一頻ひとしきり諸国の一向一揆の情勢を話し合った俺は、信長公に為すべきことを切り出した。


「信長殿、民を宗教の教えと偽り、人殺しをさせる本願寺顕如をたださねばなりません。

 顕如らは民を惑わせるだけで、民のために何も為しません。飢餓や重課にあえぐ民は、ただ現状を良しとせず、宗教を尊いものと、信じて一揆に加わっているだけなのです。」


「藤阿弥よ、しかし如何にすれば良い。

 織田家だけでは全国の一向一揆を相手にできぬし、また各地の大名の縄張りを侵すこともできぬ。」


「同盟を作りましょう。まずは、一向一揆を鎮圧するための同盟を結び、協力して一揆に当たるのです。

 俺が使者として越後に参ります。信長殿には上杉謙信公に一向一揆鎮圧への同盟を結びたいとの書状を書いてください。

 甲斐の武田勝頼殿には、一向一揆を鎮めるまで動かぬように釘を刺しましょう。

 同盟の浅井殿には後詰め致すと伝えてください。三河の徳川家康殿には、謀叛の家臣に対して本気で戦うよう申し入れを致します。 

 さもなくば、三河を織田家のものとすると伝えましょう。

 まず攻めるのは、長島、三河、加賀、越中の坊主ども · · · 。」


「 · · ·  、であるか。」




✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽



 信長殿の下を辞去した俺は、尾張組の服部正成配下のお銀以下20名の伊賀者を従えて三河の徳川家康の下へ向った。

 一向一揆勢の包囲を回潜り、籠城している岡崎城で家康に会った。


「おおっ、藤阿弥殿か。久しいのぉ、上洛戦以来でござるなぁ。」


 のんびりした口調で笑顔を繕っているが、目は笑っていない。


「家康殿。此度は信長公の使者としてより、家康殿の友として会いに参りました。

 もしかして家康殿は三河を捨てるお積りでしょうか。

 三河では一揆勢とは言え、家臣達の叛乱ではありませぬか。家臣達に歯向かわれる殿様など無用の長物ではありませぬか。」


 側に控える若武者が猛り立って、今にも、斬りかかって来そうになるが、家康がそれを制した。


「こやつは幼少の頃からの忠臣、本多広孝の息子の康重じゃ。広孝は『土居の城館』で儂の為に孤軍奮闘しておるのじゃ。」


「家康殿は、その忠臣の孤軍奮闘を何故に見過ごしておられるのか。

 何故、先頭に立って戦われぬのかと、俺は言っているのです。

 従わぬ家臣どもと、一騎打ちなされよ。

討たれればそれまでのこと。けれどその家臣には、主君殺しの汚名を与えられますな。」


「 · · 、康重、馬引けっ出陣じゃっ。」


 家康は、わずか30騎ばかりの馬廻りを率いて、城を包囲する一揆勢の前へ出ると、名乗りを上げた。


「我こそは、三河の領主 徳川家康である。 

 雑兵どもは引けっ。一揆に加担する謀叛の家臣どもを成敗に参った。

 逆臣の者どもよ、儂と一騎打ちして、見事主君殺しの汚名を手に入れるが良いっ。

 おおっ、そこの旗印は渡辺守綱ではないか掛かって参れっ。」


 だが守綱はそんな家康に驚愕し、向かって来るどころか、率いる兵を引いて逃げ出してしまった。

 それを見て他の家臣だった者達も、次々と包囲の陣から離脱して行き、残ったのは僧兵と一揆に加わった農民ばかりとなった。

 それを見た家康は、僧兵どもの中へ突撃し後に続く馬廻りの騎兵とともに瞬く間に蹂躙してしまう。武士の味方が退却してしまい、指揮を取る僧兵達も討果されるのを見た一揆勢の農民達は、我先にと逃げ出して行った。


 翌日、一揆勢の包囲が消えた岡崎城には、渡辺守綱が訪れ帰順を申し入れていた。

 家康はこれを受け入れ、翌日から守綱を従え先頭に立って謀叛の家臣どもへ攻め掛かった。 

 その結果、多くの家臣達が帰順して、一向一揆は沈静へと向かった。

 包囲する一揆の中へ飛び込む家康を、陰から護衛した俺と伊賀衆は、渡辺守綱の帰順を見届けると、相模の北条へと向かった。





【 式三献しきさんご(こ)ん 】

 三献は日本の饗宴での酒宴の正式作法。

 さかなの膳を出し酒を3度勧めることを1献。初献・二献・三献と膳を替え.三度繰り返す。「さんごん」「式三献」ともいう。平安時代から室町時代に「式三献」の語が用いられている。

 結婚式の『三三九度』の盃や酒宴に遅れた者に課す『駆けつけ三杯』という言葉の起源となっている。

 また、料理も形式化され、武士が客を持てなす本膳料理へと発展した。本膳料理は、一つ一つの膳に料理が載せられ、最大五の膳まであり、ただし一度に出された。

 対して、懐石料理は茶の湯の前に出される軽食料理で、一つの膳が順に出される。

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