第三話 加賀一向一揆と越前の土一揆。

元亀2(1571)年11月 越前国一乗谷城

朝倉義景



「殿、加賀の一向衆2万余が豊原寺城に攻め寄せておりますっ。」


「殿っ、一向衆2万余が海岸沿いにも現れましたっ。」


 評定の間に使い番の者達が駆け込んで来て、次々に加賀の一向衆の知らせを叫ぶ。

 その度に広間にいる多勢の家臣達からため息が漏れる。


「一向一揆勢め、二手に別れて来おったか、豊原寺城では持ち堪えまい。北ノ庄城まで引き、籠城するように申し伝えよ。」


「はっ。」


「よし、我らは海岸沿いの一揆勢を迎え撃つぞっ。吉継(前波)、留守居役を申し付けるぞ。」


「はっ。」


 義景は1万2千の軍勢を率いて、海岸沿いを南下する一揆勢を迎え撃ち、これを破って籠城する北ノ庄城に後詰すべく一乗谷城から出陣した。



 その頃伊賀の越前見回組の一人、梟の陣内は越前から西近江の浅井長政の本陣へひた走りに駆けていた。組頭の命により越前で起きていることを浅井長政に伝えるためだ。

 3日3晩休みなく駆け続けて、西近江朽木谷に陣を敷く、浅井長政の元へ辿り着いた。


「伝令っ、伝令でござるっ。某は織田家の軍師藤阿弥の手の者、急ぎ浅井長政様にご注進有り、駆けつけましてござるっ。」


 ふらふらな陣内は、警護の武士に両脇を抱えられるようにして本陣の浅井長政の前に連れて行かれた。


「藤阿弥殿の手の者と申したか、如何がした。」


「某、藤阿弥配下の陣内でござる。越前にて一向一揆の動静を調べておりました。

 4日前に加賀一向一揆衆がおよそ2万ずつ二手に別れて越前に侵入、一手は豊原寺城に攻め寄せ、朝倉様はもう一手の海岸沿いを来る一揆勢を迎え撃つため出陣なさいました。


 しかし、それとは別に南条郡の富田長繁が越前の一向衆と結び蜂起しましてござる。

 某は、これより坂本の信長様に注進するところなれど、浅井様に先にお知らせした次第でござる。」


「なんと、富田長繁が謀反かっ。このままでは朝倉殿が危うい。」


「殿っ、ここは某にお任せくださいっ。殿は朝倉殿の救援にお向いくだされ。」


「分かった経世(安養寺)、そちに兵3千を預けこの場を任せる。俺は越前へ向う。

 坂本の織田殿へ早馬を出せ。陣内と申したな、織田殿へは俺から知らせる。しばらくはここで休まれよ。」


 一揆勢の大将として蜂起した富田長繁は、一乗谷城の留守居役 前波吉継とは犬猿の仲であった。


 富田長繁は武勇に優れ、「樊噲はんかい(前漢の初代皇帝に仕えた武勇の将)が勇にも過たり」と前漢の猛将に比される武将ではあるが猪突猛進のきらいがあり、自分の考えを押し通すような性格であった。

 対して前波吉継という人間は、横柄で相手を蔑むような態度が周囲から嫌われる典型的な人間であった。



 浅井長政率いる軍勢は、既に富田長繁に率いられた一揆勢に落とされていた一乗谷城を諦め朝倉義景の救援に向うが、加賀一向衆と背後から富田長繁率いる越前の土一揆に挟まれた朝倉義景の救援には間に合わなかった。


「殿、朝倉の前波吉継殿をお連れ申した。」


 長政の前に折れた矢が何本も刺さった鎧姿の血塗れの武将が脇を支えられ現れた。


「無念にございます、主、朝倉義景様お討ち死にございます。」


 そう言ってひれ伏す前波吉継の顔は涙にくれていた。


「義景殿の最後は如何であったか。」


「はっ、本陣の背後を富田長繁に突かれ、殿は旗本を率いて富田の本陣に向かいましたが、一揆勢に阻まれご無念の最後を遂げられましてございますっ。」


「そうか、ご無念にござったか。」


「殿っ、如何しますか。このままでは我らも一揆勢に囲まれてしまいまするぞっ。」


「ここに至っては、もはや詮無きこと。近江に引くっ。」



 こうして、越前の名家朝倉家は、一向一揆の前に滅ぼされた。そしてそれは越前の民達が一揆勢に蹂躙されるということであった。

 この時代、蜂起した一揆勢に限らず侵攻した村々で略奪、暴行、人攫いは普通に行われていた。それは本願寺門徒を名乗る一向衆も何ら変わらない。




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「なんだ娘とガキか、金目の物はねぇのか。」


 一揆勢が押し寄せた村に取り残された幼い姉弟が数人の男達に隠れていた家の中に押入れられ、ただ震えるしかなかった。

 それでも10才の姉は弟を背に守るように男達と対峙していた。


 そして奇跡は起きた。男達が娘に手を掛けようとした瞬間、十字手裏剣が男達に降り注ぎあっと言う間に6人の男達を倒したのだ。

 あ然とする姉弟の目の前に全身黒装束の男が現れた。


「大丈夫か、どこにも怪我はないか?」


 恐怖に引きつりながらも、コクコクと頷く姉娘に話し掛ける。


「俺達は伊賀の者だ。逃げ遅れた者達を助けに来た。お前達もついて来い、ここから脱出するぞ。」


 隠れていた家の外へ出ると、黒装束の男達と逃げ遅れた村人が30人余がいた。

 外は日が暮れかかっており、姉弟は村人達と男達に守られながら、村の外へ向かった。

 姉の名はせん、幼い弟の名は土市といちと言った。


「千、良く頑張ったな。俺の名は疾風、伊賀の疾風だ。お前達を伊賀に連れて行く。

 そこで村人達と安心して暮らすがいい。」


 千と土市を助けてくれた男は、黒装束の皆から御曹子と呼ばれている頭のようだった。

 村を出てしばらくすると、川辺に着きそこから川舟に乗せられ川を下り海へ出て大きな港町に着いた。川を下る途中で疾風様の配下の人達が川辺で待ち受けていて、温かい握り飯と味噌汁を食べさせてくれた。

 その後、私達は陸路で近江の湖まで来て、舟と陸路を繰り返し、やがて伊勢に、そして私と弟は伊賀の地までもやって来た。


 伊勢に着いてからは、賑やかで平穏な町やのどかな田園風景に驚いたけれど、伊賀に着くと、藤林砦には多勢の私達と同じ孤児がいて、皆がとても優しく私達姉弟を受け入れてくれた。もう何も心配しなくていいよって、栞様に言われ、涙が止まらなかった。

 これから伊賀での生活が始まる。でも私は助けてもらったご恩を返さなければと、心に誓っていた。



【 戦国時代の乱(暴)取り 】

 当時の兵士は多くが農民で、食料の配給や戦地での掠奪目的の参加が多く見られた。

 人身売買目的の誘拐は「人取り」といい、物と同じに戦利品として市に出された。

 大名は乱暴狼藉を黙認し、褒美として乱取りをさせた。乱取りは悪事ではないとされてさえいた。 農閑期に無給で徴用し命のやり取りを行わせた足軽に「乱暴取り」を禁ずることは困難だった。

 兵農分離で俸禄を与えた織田信長にして、やっと「乱暴取り」を禁止できたのだ。

『甲陽軍鑑』には「その日の戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り込み、義元の首を取った。」とある。他にも徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた。」と言ったともある。

 当時の軍隊が規律正しい近代の軍隊のように思うと、誤った見方をしてしまうのかも知れない。







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