第九話 長島一向一揆と北伊勢の領民
元亀2(1571)年8月 京本圀寺 武田勝頼
病床に臥せっている父上(信玄)の下に重臣一同が呼ばれた。
「皆聞け、武田家の家督を勝頼に譲り、儂は隠居する。」
「お館様、将軍家とのことは如何なさいますので。」
「勝頼はどう思うのじゃ。」
「いつまでも都に留まる訳には参りませぬ。
このまま幕府の尖兵としておれば、同盟や和睦を結ぶ大名家とも、戦うことになりかねませぬ。
幕臣の方々は、夢想の言葉ばかりにして、もはや一緒にはやって行けませぬ。」
「それで良い。上洛を果し、三好の兵も打ち払った。我らの役目は果したのだ、甲斐へ帰ろうぞ。
勝頼、将軍に家督相続と副将軍返上を申し出よ。甲斐へ帰還することもな。」
こうして翌月9月、武田信玄とその軍勢は甲斐へ帰還して行った。
将軍義昭は、織田信長、武田信玄と二大名の上洛にも拘らず、武力で覇を唱えることが叶わなかったが、将軍家の威光を示せたことに気を良くし、上杉謙信に上洛を下命した。
ところが謙信は、越後が手薄になることを危惧しこれを断った。
やもう得ず義昭は、信長殿に再度の上洛を命じたが、けんもほろろに断わられて、何を血迷ったか本願寺と結び、織田家と上杉家への一向衆の蜂起を要請する。
顕如は幕府と手を結ぶことを選び、各地の一向衆に『幕府を蔑ないがしろにする大名家を、幕府の勢力と協力して駆逐せよ。』と檄を飛ばした。
これにより、全国各地で、そして長島での一向一揆が蜂起したのである。
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元亀2(1571)年11月 尾張小木江城
藤林疾風
11月2日に長島願証寺が衆徒に檄を飛ばし、長島一向衆が蜂起した。その数7万余。
史実では10万以上とされているが、意外と少なかったのは、伊賀領の伊勢の農漁民が伊賀の統治に満足しており、伊賀から援助を受けている一向衆の末寺と共に、願証寺に従わなかったからである。
しかし信長殿の上洛戦に六角家が敗退してから織田家に臣従していた、員弁郡・朝明郡安濃郡・奄芸郡の長野家や梅戸家、朝倉氏など北伊勢にある53家の半数が一向一揆勢に加担し、織田家に対して戦端を開いた。
また伊賀領の最先端となった三重郡の各城には、伊賀の軍勢1万が詰め幕府奉公衆達との睨み合いが続いていた。
桑名城や矢田城、東方城、中江城などは城を捨て他の長良川沿いの領民も連れて中伊勢へ避難した。
実は中伊勢の一志郡では、2年程も前から大規模な灌漑工事を行ってきており、600haの農地が出来上がっていたが、働き手の農民不在のため耕作されずにいた。
だが要所要所には無人の家々の村が出来ており、移民の受け入れを待つばかりになっている。長島一向一揆に備えて移民先を作っていたのだ。
11月2日に蜂起した一向一揆勢は、桑名城に攻め寄せたが、桑名城の奉行伊藤武右衛門が、城兵領民の退去と引き換えに無血開城したので、戦にはならず一揆勢の城となった。
そして一揆勢は、次々と織田方の諸城を落とすと、11月26日には尾張小木江城の前に姿を現した。
その数25,000の大軍である。滝川一益殿の赤目城も1万を越える軍勢で包囲され、籠城を余儀なくされている。
信長殿の本軍は近江で六角や幕府連合軍と交戦中で援軍を出せる状況になかった。
一向一揆勢が小木江城に大軍で攻め寄せたのは、この城を要害と見たことと、信長殿の信頼厚い弟である織田信興殿の城だからだ。
小木江城は平地の平城であるが、この一向一揆に備え堀を二重にし、さらにその外側に三重の土盛りと茨の柵で取り囲んでいる。
信興殿と俺は城の天守から戦場を見つめていた。
「来ましたね。うようよといますね。」
城兵2千のうち1,200名が、一重目の柵で一揆勢を迎え撃っている。
一揆勢の先陣が柵に取り付くと長槍で牽制して、押し寄せる一揆勢が密集した所へ手投げの焙烙玉をお見舞いして被害を与える。
四半刻も経った頃、一揆勢の第二陣が繰り出して来て、支え切れなくなったところで、城兵を第二の柵まで後退させる。
「先陣は3千程か、半数以上には被害を与えたの。」
「敵の二陣は先程の倍以上はいますね。
どうやら、密集せずに焙烙玉を避けながらの一撃離脱戦法に変えたようです。」
「ふふっ、そううまく行くかの。」
敵の第二陣は一重目の柵を取り壊して、そこから少数集団ごとに突撃をしては引き返すという戦法を取っている。
第二陣の主力は焙烙玉の届かない一重目の柵の位置に固まっているのだ。
そこへ城兵から火矢が打ち込まれた。
予め油が撒かれていたそこは、あっと言う間に火の海となり、地面に埋め込んであった、焙烙瓶に延焼して、猛烈な爆発を起こした。
敵兵8千は瞬く間に見る影もなく、火の海に逃げ惑うだけとなった。さすがに、後方の一揆勢に怯えが見える。
「さてどうするのかの。まだ堀にも着かぬうちに半数近くも兵を失ったぞ。こちらの損害は微々たるものだ。」
「あと敵ができることは夜襲ですか。一揆勢の将が賢ければ仕掛けて来ますね。」
その翌日、夜が明ける二刻程前に一揆勢は夜襲を行なってきた。
城兵は一つ目の堀の内側まで後退して夜半まで睡眠休養を取っており、一揆勢が押し寄せると堀際まで十分に引き付け、再び火矢を放ち夜襲の軍勢を火と爆発の渦に沈めた。
こうして、夜が明けると城兵が打って出て1千の鉄砲が火を吹き、小木江城に攻め寄せた一向一揆勢25,000は大打撃を受けて退却した。
さらに翌日には、赤目城を包囲していた一揆勢を、城から打って出た滝川勢と共に挟撃、一揆勢は桑名城まで退却し籠城の構えをとった。
信興と滝川一益は、少数での桑名城攻めは無理と判断、信長殿本軍の到着を待つことにした。
【 織田信興 】
史実でに寄れば、元亀元(1570)年11月に長島の一向一揆が蜂起して、最前線となった小木江城で孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興は天守(別伝には城外に撃って出たとも)で自害したと伝わる。
生年は不詳だが、七男で八男の弟織田秀孝が生誕天文10(1541)年頃、五男の兄織田信治の生誕が天文14(1544)年とあることから1543年生まれで享年27才前後と思われる。
織田信長に早くから従い、永禄8(1565)年信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党にの勝利している。
信長とは腹違いで、母は不詳だが身分の低い愛妾だったと思われる。
信頼の厚い弟信興を殺された信長は一揆衆への憎悪がつのり、長島一向一揆衆への大虐殺となったという。
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