第七話 長島視察と一向一揆対策。
元亀元(1570)年4月 伊勢桑名郡長島
藤林疾風
見渡す景色は、大小の川に囲まれ川岸には背丈の高い草が青々と生い茂っている。
ここ長島は木曽川、揖斐川、長良川の河口にある輪中地帯で、幾筋も枝分かれした川の流れにより、陸地から隔絶された天然の要害となっている。
ここに来たのは、いずれ起きる長島の一向一揆に備えるためだ。今回は佐助·才蔵と服部半蔵殿が同行している。
「ほんとに川に囲まれて、まるで島みたいなところですね。」
「佐助、長島はな、元々は
「この地形では
「河口だから、内陸ほど河川の氾濫被害はないが、海からの大波の被害はあるな。」
「所々に石積みの堤もあり、それなりの備えはしてありますかな。」
「若、こんな場所で戦をするのは骨が折れますね。いったいどうやって攻めるんだろ。」
「御曹子。川底が浅くて、大型の新造戦艦はもちろん、新造船も入れませぬぞ。」
「岸からパイプ砲で攻撃するしかないな。だけど、生い茂る草木で視界が悪いし、目標の寺も遠いな。何か考えなきゃならないな。」
この地域には願証寺など数十の寺があり、本願寺の末寺が、伊勢·尾張·美濃に跨る農民漁民10万人の信徒を抱えて、大きな勢力を持っている。
そして、願証寺·信徒·土豪達の複合した、自治領の体を成している場所なのである。
戦国時代には、各地で一向一揆が起きているが、鎌倉時代初期に浄土宗から分派して、一向俊聖が開いた『一向宗』と、一向一揆を起こした『一向衆』は宗派が違う。
一向一揆を起こした一向衆は本願寺信徒であり、本願寺派一向衆と言うべきものだ。
どういう事情かと言うとこの時代の信徒達には、元は同じ浄土宗から分派した一向宗·時宗·本願寺宗(浄土真宗本願寺派)とも、『同じ踊り念仏』を行事として似かよっていたから、同一の宗派だと混同したのである。
そんな時代背景の中、本願寺第8世宗主の
当時、本願寺派の高僧ですら『一向宗』を名乗っていて、蓮如が幾度も糺したというが効果がなかったという。
長島の輪中や周辺地形を地図に落しながら長島にほど近い桑名城にやって来た。
この北伊勢には桑名代官所を置いて、伊賀の統治に関する連絡や調整を行っている。
桑名の運営の基本は商人達の自治だが、近隣の旧城主達を奉行として統治させている。
一向一揆で占領され拠点となる桑名城は、北伊勢48家の伊藤家が奉行をしている。
桑名城奉行である伊藤武右衛門殿に一揆が起きた時の対応を指示するためだ。
「これは御曹子、服部殿。ようこそ来られた。領内の視察ですかな、農地の整地と魚肥はうまく行っておりますぞ。」
「伊藤殿、これは極秘の話じゃが、本願寺に不穏な動きがござる。
本願寺がことを起こせば、各地の信徒達が一揆を起こすじゃろう。
長島で一揆が起きれば、真っ先に攻められるのがここ桑名城じゃ。
それで御曹子が、その際の対応を伊藤殿に指示されるために来たのでござる。」
「伊藤殿、この城には如何ほどの兵がおりますか。」
「半農の足軽達を集めても、200人余でござる。」
「一揆勢は万を越えるでしょう。とても保てませぬ。だからその際は民を連れて桑名から船で中伊勢へ避難してください。城を無血開城すれば一揆勢も大人しく見逃すでしょう。
ただし置土産をお願いしたい。いずれ奪い返す時の為に城壁や門に細工をし、抜け穴も作っておきたい。
城壁の細工などは、半蔵殿の手の者がやるので、伊藤殿には抜け穴をお願いする。」
「分かり申した。勝手知ったる我が城でござる、お任せくだされ。」
「中伊勢には、皆の住いも畑も用意致す。 とにかく無事に逃げるのじゃ。」
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次にやって来たのは、織田信興殿の尾張 小木江城。史実では援軍が得られずに、孤軍奮戦虚しく信興は自害に追い込まれる。
桑名城の滝川一益も敗走させられている。
「信興殿、お久しぶりでございます。」
「おお藤阿弥殿。上洛戦以来でござるな。
藤阿弥殿のおかげで六角を南近江から追い出せ申したから、兄上もご機嫌でござるよ。
ところで、わざわざ来られるとは何用ですかな。」
「信興殿、本願寺に不穏な動きがあります。
長島で一揆が起きればこの城も攻められましょう。援軍が来られぬとしたら、どう守りますか。」
「あり得ることとは思うが、我が城には2千の兵がござる。赤目城に滝川一益もおるし、そう容易くは落とされまい。」
「一揆勢は数万にも及びましょう。滝川殿も籠城して援軍には出られませぬな。
城を落とすには、城兵の3倍の兵力がいると申しますが、おそらく、寄せ手の一揆勢は万を越えましょう。」
「なんとそんなにかっ。そんな大軍を前に、如何にすれば良いのじゃっ。」
「信興殿、城を要塞にするのです。罠を仕掛け幾重にも堀や柵を設け、石垣を高く積み、門を二重三重に堅固にするのです。
近く伊勢から籠城に必要な物資を運び入れます。焙烙玉や火炎瓶も用意しましょう。
すぐにも要塞作りの差配をしてください。」
「分かり申した。織田信興の一世一代の籠城戦を、お目に掛けましょうぞっ。」
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さて、一向一揆の元締めの本願寺であるが史実では、信長公が上洛した 永禄11(1568)年に、本願寺に「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し顕如はこれを支払っている。
この頃の顕如率いる本願寺は、実態が戦国大名と化しており、信長が三好三人衆を討伐に掛かると、突如として顕如が「信長が本願寺を破却すると言ってきた。」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好三人衆攻略のために摂津に陣を置いた織田軍を突如攻撃した。
この時は義昭の奏上による朝廷の勅書により、1月も経たずに和議となったが、幕府の再興を念願とする義昭と武力による天下統一を図る信長の関係が悪化して行き、将軍義昭が信長討伐の御内書を各地の大名に下すと、それに呼応して、本願寺も、いわゆる第二次信長包囲網に参加するのである。
【 西と東の本願寺 】
天正8(1580)年4月に、正親町天皇の勅命により本願寺は、10年にも及ぶ織田家との戦いを諦め和睦した。
和睦に基づき本願寺が石山を退去する際に信長との和睦派の顕如と、あくまで石山に留まるべきとする強硬派の長男教如が対立。
物別れとなり、顕如の後継に三男の准如が宗主に立てられると、教如と支持勢力は独立して東本願寺を設立した。
こうして本願寺は、准如の西本願寺と分離独立した教如の東本願寺とに分かれた。
[ 西本願寺は、顕如の承認を受けた准如が継いだ、いわば旧来の『元祖本願寺』かな。
それに対し、顕如の嫡子で正当に継承すべき立場の教如の東本願寺は『本家本願寺』とでも言うべきなのかね。
なんだか、お菓子屋とか麺屋の競い合いに似ているね。]
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