閑話 関東の戦国武将達 その1
永禄12(1569)年という年は、史実では、この年の正月早々の7日に、将軍足利義昭が本圀寺で三好三人衆に攻め寄せられるという『本圀寺の変』があり、これを撃退して義昭の足利幕府が始動した年だ。
さらに夏には、信長は北伊勢の攻略を行い北畠具教を降伏させている。
本稿では、伊勢は伊賀の疾風達が領国としており、織田信長とは協力にあることから、北伊勢への攻略侵攻は起きていない。
この頃の関東をめぐる情勢と、戦国に名高い武将達について、彼らが何を目指して戦国時代を生きていたのか紐解いてみたい。
その中でも、駿河の今川氏真、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、越後の上杉謙信。
この並び順は、彼らが覇権を目指す大名として、その資格を失い滅びた順である。
この武将達の関東をめぐる覇権争いには、三河の徳川家康、上総の里見義堯、常陸の佐竹義昭、会津の蘆名盛氏なども関係するが、本稿では触れない。
まず【
永禄12(1569)年5月、武田信玄に敗れ掛川城を開城。これにより領国を失った今川家は戦国大名として消滅した。
氏真は領国を失ってから、妻の実家である北条氏の庇護を受け、さらに、臣下であった徳川家康に臣従して、子孫は江戸時代までも続いている。
今川家で特筆すべきは、大永6年(1526年)に今川氏親が制定した『仮名目録』である。
氏親が病に倒れて、氏親亡き後の嫡子氏輝の政権安定を心配した氏親の妻(寿桂尼)の意向が影響したと言われている。
天文22(1553)年に今川義元は『仮名目録追加21条』を補訂した。
特筆すべきは足利幕府が定めた寺社の公領や荘園への、犯罪者の追跡や徴税での立入を禁じた『
名門とされた今川家は、足利一族の吉良家が足利宗家の継承権を有しており、その分家であったので、別格の地位にあった。
そんな身分が保証された家柄であった故に当主自らが率先して、富国強兵に導くなどの気風がなかったのではないか。
だから、法治政治のための『仮名目録』を定め、家臣の争いを防止したのだろう。
しかし、桶狭間の戦いでは、偉大な父を失っただけでなく、今川家を支える重臣の多くも失った。
このことにより、主君と家臣の間に立って人望という面で補佐する重臣が不在となり、家臣の離反が相次いでしまったと思われる。
決定的だったのは、永禄4(1561)年に離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立ち、人質の家族10数名を処刑したことだ。
この思慮のない措置が、多くの東三河勢の離反を決定的にした。
おそらく氏真は裏切りに対し処罰を行うという形式的な判断しかしなかったのだろう。
離反に至る事情や、人質達の立場や気持ちなどを知ろうとしなかったに違いない。
それが氏真という主君の人望を失うことに繋がっているとも気付かなかったのだろう。
すなわち、今川氏真は、官僚的な対応しかできなかった主君であり、目指す領国統治は現状維持で、家臣や領民に夢や希望を与えられなかった大名だったのである。
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二人目は【
信虎は、百戦錬磨の戦さで甲斐を統一して武田家を強国とする基礎を築いた人物だ。
そんな武田家中興の祖とも言える人物が、家中に反対もなく追放された理由は定かではないが、戦さには強くても領民である兵士を酷使して、農民を疲弊させていたのが主因だと推測される。それは造反が起きる寸前まで来ていたのも知れない。
それを懸念した重臣達が、晴信(信玄)に代替りさせたというのが真相なのだろう。
『戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、
十分は
武田信玄の言葉だが、この言葉の裏には、もう一つの思いが隠されていたと言われる。
領民たる兵の疲弊や被害を抑えなければ、次の戦では兵の信を失い兵がついて来ないという、かつての父親の姿から学んだ教訓だ。
信玄は内政に力を入れ『信玄堤』や棒道、伝馬制を取り入れ、新田開発にも商業にも食生活の向上にも力を注いだ。
陣中食 『ほうとう』を始め『信玄餅』や『信玄鍋』のように名を冠した品々もあり、『信玄の隠し湯』と称する温泉もあることからわかる。
法制度においても『甲州三法』という、『大小切税法』『甲州金』『甲州枡』を、
作っていたことでも評価されている。
そんな信玄は、天文23(1554)年、
その後、甲相同盟を天文13(1544)年から永禄11(1568)年までと、元亀2(1571)年から天正7(1579)年までの二回結んでいる。
信玄の人物評価には、同盟破りなどの悪評があるが、これは信玄個人の評価としては、正しくないのではないか。
武田家の在り方が、先代当主信虎を追放したことからも分かるとおり、家臣の合議制であり、その時の多数意見により方針が変わるのことも起きて、当主信玄が受け入れざるを得なかったと思えるからだ。
武田信玄は元亀3(1572)年10月に、将軍 足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛を開始した。
前年の織田信長による、比叡山焼き討ちを『天魔ノ変化』と非難した天台座主の覚恕法親王(天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願している。
信玄は、元亀4(1573)4月に病状が悪化し甲斐へ引き返す途中で死去した。享年53才であった。
信玄は遺言で「自身の死を3年間秘匿し、遺骸は諏訪湖に沈めよ」。息子の勝頼には「孫の信勝に家督継承するまで後見人をし、越後の上杉謙信を頼れ。」と言い残した。
勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わず、死を秘匿している。
このことから察せられることは、武田家の在り方を熟知している信玄から見ても、勝頼では武田の将を率いる才がなく、孫の信勝が家臣達に育てられ守られる当主に育つことを期待したということだ。
案の定、勝頼の暴走とも言える長篠の戦いで武田家は滅びの道を行くことになった。
信玄の上洛は、天下を治めようとしたものではなく、足利幕府の制度の下で仏閣を破壊した信長を成敗することが目的であった。
そうして見ると、信玄は戦国大名として、富国強兵を行い、領民を豊かにすることを目指したけれど、自らが天下を治めるという考えはなかったと言えるのだろう。
【
実力の差は努力の差、実績の差は責任感の差人格の差は苦労の差、判断力の差は情報の差
一生懸命だと智恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。
本気でするから大抵のことはできる。本気でするから何でも面白い。本気でするから誰かが助けてくれる。 by 武田信玄
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