閑話 平井加賀守の娘『台与(登代)の戦国』

 私の母は弟を産んだ産後の肥立ちが悪く、私が幼い時に亡くなりました。母を知らず、父にもあまり構って貰えずに育ち、ある日、突然に嫁ぐように告げられました。

 ご領主様に娘がおらず、その養女として、浅井家の当主 浅井長政様に嫁ぐのだと。

 大変に名誉なことだと、父は喜んでいましたが、私にはよくわかりませんでした。

 ただ、戦国の世では、お家のための結婚は珍しくもないことだと知っていました。



 何の滞りもなく嫁ぐはずのところが、輿入れのその時から私の苦難は始まったのです。

 輿入れの行列が小谷城について、大広間にて私の介添人である後藤但馬守様が、ご挨拶なされました。


「六角家家臣 後藤但馬守が、浅井長政様の室となられます平井加賀守殿のご息女 登代 殿の介添として罷り越しましてございます。」


「 • • 今なんと申された、六角承禎殿の養女ではござらんのか。」


「平井加賀守殿のご息女にございます。」


 その場は静まりかえり、重苦しい空気が流れました。しばらく経って、長政様のお声が聞こえました。


「承り申した。介添人のお役目ご苦労でした。」


 そして後藤但馬守様は婚儀を見届けることなく、帰ってしまわれたのです。

 後藤但馬守様が帰られてしまった後、広間では浅井家の方々の怒声が聞こえました。


「浅井家は、六角に臣従する訳ではないぞっ。」


「先代様が弱気にかられて臣従すると申したから、このようなことになるのじゃ。」


「しかし、代替わりしたのだ。今の殿は臣従するとなぞ言うておらぬわ。」


「このままには捨てておけぬ。使者を送り、六角家の養女でなければ、婚儀は結べぬと、言うべきじゃ。」


「それしかあるまい。」


 それから間もなくして、家臣の方から告げられたのです。


「いささか支障が生じまして、祝言の儀は、しばらく延期になり申した。ご不便をお掛け致すが、辛抱の程をお願い申す。」


 そう言われて、私は、ただ待つしかなく、無為な日々を過ごしました。

 浅井家は六角家と何度か使者の遣り取りをしたようですが、六角家は私を養女とするのを拒み、既に嫁いでいるのだからと、婚儀を受け入れるように迫ったようです。

 まさか、浅井家が本気で拒むとは思っていなかったのでしょうか。


 そんな遣り取りの一月ほどが過ぎて、私は平井の家に帰されることになりました。

 そこでも、一悶着ありました。婚約を破棄するという浅井家と、既に嫁いだとする六角家の言い分です。


 私が嫁ぐために小谷のお城に行ったのが、3月21日で平井の家に戻ったのが4月12日でした。

 そしてその年の8月には、野良田の戦いで六角家は浅井家に敗れたのです。


『平井の娘の器量が悪かった故、浅井と破談になったのじゃ。』と戦での負けを責任転嫁する陰口を言う者がいると、父が嘆いておりました。




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永禄7(1564 )年5月下旬 京都下京区

平井台与(登代)



 そして4年の歳月が流れ、私は16才になりました。昨年の秋、代替りされてお館様となった当主六角義治が、父と同じ宿老の後藤但馬守様を、城内で無礼討ちにしたのです。


 父もお館様とは折り合いが悪く、観音寺城の出城、平井丸に居ては私の身も危ないと、私を出家させることにしたのです。

 先年お館様が父に『出戻りの娘では嫁ぎ先があるまい。儂が側室に貰ってやるぞ。』と聞き立腹して諌めたそうです。『上に立つ者がそのような下の者を貶めることを言うては人望を失くしますぞ。』

 以来、お館様とは隔たりがあるそうです。



 どこにも頼る宛がなく、私は沈む心を抱えながら、ようやく京の都に入り安堵したのもつかの間、昼日中、町外れでもないというのに、賊に囲まれました。

 賊は10人以上、私の伴は爺やのほかには士分の者が2人、あとは侍女の2人と人足が2人いるばかりです。


 私達は周囲を賊に囲まれて、多勢に無勢、

防戦一方になっていました。

 するとそこへ、3人の若い武士が駆けつけて来て「助太刀致すっ。」そう声を掛けて、賊に斬り込み、怯んだ賊を立て続けに斬り倒して、あっと言う間に賊共を追い払ってくださいました。


 それが私と藤林疾風様との出会いでした。

『身の危険から、頼る宛もなく尼寺に行く途中であること、本当は行きたくないこと。』 

 そんな事情を聞いてくれた疾風様は、私を伊勢の自分の家に来ないかと誘ってくださいました。


 ご実家は大店の商家で、ご両親と妹さんがいらっしゃるとのこと。尼寺にしか行く宛のない私は、お誘いに甘えることにしました。

 爺達には、私が賊に襲われ命を落としたと帰って報告させることにして、父には少し後で真実を伝えることにしました。

 また、侍女の志乃と由貴には3人も死んだことにはできないから、近江へ帰ってから暇をもらい、伊勢屋さんを訪ねて疾風様の元へ来るように話しました。




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永禄7(1564 )年6月上旬 伊賀藤林砦

平井台与(登代)



 伴の爺達と別れた私は、疾風様と堺に行き湊から船で伊勢まで参りました。

 堺では、疾風様が家の皆にお土産を買うと言われて、あちこちの商店を回り、南蛮硝子など珍しい多数の品を目にしました。

 私にも、お母様と一緒の硝子の髪飾りなどを買っていただき、男の方からの、初めての贈り物でしたので感激してしまいました。

 船にも生まれて初めて乗りました。船酔いというのも初めて経験しました。


 伊勢湊に着き安堵したのも束の間、本当の目的地が伊賀と聞いてびっくりです。

 川舟を使ったので、それほど疲れずになんとか、伊賀まで来られました。



 広々とした田園風景の中を、疾風様の商家と思しきご実家を探しながら歩いていると、佐助さんに話し掛けられました。


「登代さまっ、若のことを嘘つきだとは思わないでやってくださいね。

 いろいろ訳ありなお人なんですよっ。」


「いたずら好きなお人でもあるな。」


「佐助も才蔵も酷いな、それじゃまるで俺が変り者に聞こえるぞっ。」


「疾風様は、変ったお人なのですか?」


「う〜む、俺には周りの方が変だと思うのだがな。」


「「「はははっ。」」」


「ほら、もう着きましたよっ。」



 はっ、として見ると、そこには巨大な堀に囲まれた城壁がありました。

 佐助さんが『若様のお帰りだぞ〜』と声を上げると、なんと壁の上から橋が降りて来ました。

 もう何度目の驚きか分かりませんが、驚きに慣れたりはできません。



 こうして、私は数奇な運命を辿りつつも、伊賀の人となったのです。

 このあとの大騒動の話は、またの機会に(本編で)しますね。





【 硝子細工 】

 縄文時代後期の遺跡から硝子玉が見つかっているが輸入品かも知れず、製造が確認されるのは、7世紀後半の遺跡から緑青紺などの硝子玉と、原料の鉛・石英、硝子を溶かす坩堝るつぼなどの出土による。

 しかしその製造技術は、鎌倉時代になると途絶えてしまう。

 再度硝子が登場するのは戦国時代後期で、南蛮船が運んできた硝子をポルトガル語の「vidro(ヴィドロ)」から「びーどろ」と呼ぶようになった。


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