第40話 主人不在の不安な夜
送り出したアレクシス様の背は堅固な壁のようで、もう頑なに私へとは振り返らなかった。まるで彼を見送る最後の日を象徴しているかのようだ。
私は明日アレクシス様がお帰りになったら今回の事情を打ち明けるつもりだ。もし打ち明けなければ、戻って来たブランシェとこのまま難なく代わることができるかもしれない。しかしもうこれ以上、私を初恋の女性だと思い込んでいるアレクシス様を騙し続けることはしたくない。できない。
実情を知ればさぞかし憤り、怒気と敵意を私に向け、それを家族にも向けることだろう。だがこの計画は私が言い出し、強引に家族を納得させて決行したことだ。家族には何の責任もない。
最後の勝手なお願いだ。アレクシス様に首を飛ばされたっていい。彼の慈悲にすがり、どうか私にだけお咎めをと懇願しよう。お優しい方だから短くも一緒に暮らした私に少しくらいは情を寄せ、何よりもブランシェを好いているのならば、きっと願いは聞き届けてくれるはず。
私が打ち明けようと決意したのは、ライカさんのブランシェがアレクシス様の初恋の相手だという話と、グレースさんの言葉だ。
「――え? やはりお姫様のお部屋のようなこの内装はアレクシス様のご指示によるものだったのですか」
確かアレクシス様は否定していたような気がする。私がこの家に来たばかりの時の彼はただただ恐ろしくてとても聞ける雰囲気でもなく、しかしいつか聞いてみたいと思いつつすっかり忘れていた。
「ええ」
グレースさんはお茶を用意してくれながら、くすりと笑った。
「ですが初めていらした時、奥様がお部屋を見て硬直していらっしゃったとのことですので、趣味に合わなかったのかと慌てられたんでしょうね」
侍従長は内心面白がっていましたよとグレースさんは続ける。
とすると、後ろについてきていたボルドーさんが急に姿を消したのは、もしかしたらアレクシス様のご対応を高みの見物をしようとしていたのかもしれない。
「あれは趣味に合わなかったのではなく、あまりにもお屋敷とアレクシス様の印象とが乖離しすぎてびっくりしたのです。特にアレクシス様はその……死神卿だなんて渾名がついているお方ですし、怖いお方かと。――あ! 今はお優しい方だと思っておりますよ」
「ええ。分かっております。自慢ではありませんが、奥様よりも旦那様のお優しさはよりよく存じております」
冗談っぽく、しかし少し誇らしげにグレースさんは胸を張った。
「旦那様は奥様が住みよいようにと、色々手配なさっておられましたから」
部屋だけではなく、馬車などもそうだったらしい。私の長旅がつらくならないようにと座席も手を加えていたとのこと。そう言えば、無骨な内装の割に座席だけは座り心地がよく、なおかつ上質な天鵞絨が張られていた。
「他にも町をご案内するに当たり、奥様が喜びそうな場所なども考えておられましたよ」
「ああ、そう言えば。お料理を美味しく召し上がる奥様のお姿を見てからは、量や種類を増やすようジークさんに指示を出していましたよね」
最後の言葉は茶化すような笑顔のライカさんだ。
「わたくしは……わたくしが知らない色々な所でたくさんのものをアレクシス様から頂いていたのですね」
物だけではない。気持ちもだ。
アレクシス様はボルドーさんに夫婦関係を急かされたのだろう。しかし距離を取りたい私の心を思いやって気を配ってくれていた。まるで宝物に触れるようにそっと支えてくれた。私が恐れる話題に気付いてできるだけ触れぬようにと、深く追求しないでもいてくれた。私の目に見えない所でも常に私のことを配慮してくれていた。
そして。
私は笑顔で頷くグレースさんとライカさんを見る。
このパストゥール家の皆さんが私に良くしてくれるのは、きっと迎える妻のために忙しなく動くアレクシス様の背中を見てきたからに違いない。
そんな彼に私は一体何を返してきたというのだろう。
アレクシス様の心遣いで作り上げられた目の前の景色はにじみ、頬には後悔が流れ伝っていた。
「お、奥様」
「アレクシス様がお戻りになりましたら、わたくし、これまでのことをお礼申し上げます」
そしてこれ以上、アレクシス様のお心を裏切らないためにもこの生活に――終止符を打とう。
結局、今夜はアレクシス様の急務によって一日延びることになってしまった。
残された時間にアレクシス様とお会いできないのはとても寂しく、しかし彼が帰ってきてしまうと自分の手でこの生活を終わらせてしまうことになる。そんな矛盾を抱えながら明日に備えることになる。
私がブランシェだったら良かったのに。なぜ私はブランシェではないのだろう。なぜブランシェになれなかったのだろう。
せっかく固めた心もアレクシス様の不在の夜が心細くて寂しくて、簡単に壊れてしまいそうだ。
サロンで一人いると嫌なことばかり考えてしまう。
「奥様、そろそろお休みになりますか」
気付けばライカさんが近付いて来て、私にそう提案してくれた。
ここに一人いてもアレクシス様は今日はもうお戻りにならない。
「そうですね。部屋に戻ります」
立ち上がって部屋を出た時、玄関の扉を激しく叩く音が聞こえた。
「こんな夜にどうしたのでしょう」
尋常ではない叩き方に激しく不安を覚える。
ボルドーさんが奥様はお部屋にと扉へと向かったが、当然部屋に戻る気にはなれない。
少し警戒しながら彼が扉を開けると、そこには騎士服を着た男性が立っていた。
「夜分失礼いたします。私はアレクシス・パストゥール司令官直属の第一部隊に所属するテオフィル・オズベルトと申します」
「……どうかなさいましたか」
「司令官が。アレクシス・パストゥール閣下が」
顔から完全に血の気を失っているのに汗がしたたり落ち、険しい表情にかさついた唇から出された彼の言葉は。
「軽率に不審物に近付いた部下が誘発した爆破で、現在……」
アレクシス様の緊急事態を知らせる内容だった。
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