第39話 ※アレクシス視点(9):火がともる
セントナ港へ向かう前に準備と報告をと、いつもよりかなり早い帰宅をすると皆驚いた表情で私を出迎えた。その中にももちろんブランシェがいる。軽く彼女に言葉をかけるとボルドーに視線を向ける。
「これからセントナ港へ向かう。今夜はそちらで夜勤となる。すぐに出るので準備を頼む。私も着替えてから行く」
今回、紋章の入った官服を着てセントナ港に入らないよう指示している。こちらからご丁寧に敵に知らせて取引を中止させるわけにはいかない。向こうの施設に入ってから再び着替えることにする。
「承知いたしました」
ボルドーらは準備に走り、玄関に残されたのは私とブランシェのみだ。今朝の距離とは違い、ブランシェはいつもと同じく手を少し伸ばせばすぐ届く所にいる。また、外されていた赤い髪飾りが彼女の左耳の上に美しく咲いていた。
「急務のことで忙しないが頼む」
「はい。これからまたセントナ港でお仕事なのですか」
「ああ。視察だ。先日君と行ったばかりなのにな」
「そうですね。ですが、今回アレクシス様は町をより良くされるために向かわれるのですものね」
ブランシェは小さく笑った。
もしかして視察の下見だったことに気付かれていたのだろうか。なぜだかそんな風に思った。
「慣れぬ場所でのお務めですからどうぞお気をつけくださいませ」
「ありがとう」
そのまま二人とも黙り込んでしまったが、ここで何も言わなければまた同じ過ちを繰り返すことになる。身を引くことが必ずしも良い結果になるわけではないのは思い知った。時には強引であってもいいのだろう。
そう思って口を開いたが。
「ブランシェ」
「アレクシス様」
同時に名前を呼び合った。
「何だ?」
「何でしょうか」
また同時に尋ね合う。
何だかおかしくなり、ブランシェも同じ気持ちだったようで互いに相好を崩して少しの間笑った。しかしこのままだと話が進まないので、ブランシェに先を譲ることにした。
「ありがとうございます。ではお先に失礼いたします。ただ、今ではなく、アレクシス様がお帰りになられたらお話ししたいことがございます」
「奇遇だな。私も君に話したいことがある。そして聞きたいこともある」
「はい。承知いたしました。……何でもお答えいたします」
彼女は今朝とは違い、何か決意を秘めたような強い瞳と声に変わっていた。
「ブラン――」
「旦那様、ご用意いたしました。……旦那様はまだご準備なさっていないようですね」
ボルドーが異常な速さで準備して戻ってきたことで話が中断する。さらに私を冷めた目で見てきた。
早く私も準備しろということだろう。もう少し彼女と話をしたかったが仕方がない。
心の中でため息をつく。
「分かった。着替えてくる」
「アレクシス様、わたくしもお部屋までご一緒してよろしいでしょうか」
「え? ……ああ。ありがとう」
ブランシェは特に用事があるわけでもないだろうが、私の後ろに付いてくる。階段で話していてブランシェが足を踏み外したことがあるので、そこでは黙ったまま先に行く。二階に上がり、足取りを緩めると彼女と横に並ぶ。
「先ほどの話は今では駄目なのか?」
彼女は私を仰ぎ見ると小さく笑みを見せた。
「ええ。少々長くなりますもので。アレクシス様のお話は何でしょうか」
「私も長い話になるな」
「では、やはりアレクシス様がお帰りになってからの方がよろしいですね」
ブランシェは微笑んでいるが、どことなく寂しそうな表情にも見える。
「そうだな。……ブランシェ、昨夜はすまなかった」
「いいえ。わたくしの方こそ失礼な態度を取り、誠に申し訳ございませんでした」
「いや」
私は自分の部屋の前で足を止めた。
「ありがとう」
「お着替えをお手伝いいたします」
「え?」
「いけませんか」
仰ぎ見てくるブランシェの不安に揺れる瞳にこちらまで戸惑いを隠せない。
「……いや。ありがとう。ではよろしく頼む」
「はい」
私は笑顔を取り戻したブランシェを部屋に招き入れた。
着替えを済ませると二人して部屋を出る。
ブランシェは玄関まで見送ってくれるそうだ。
「お帰りは明日でしょうか」
「そうだな。できるだけ早く帰ってくる」
「……はい」
「何だ。早く帰ってきてほしくないという顔だな」
ブランシェの微妙な反応に少し拗ねたように言うと、彼女はくすりと笑った。
「いいえとも、はいとも言えそうです」
「と言うと?」
「アレクシス様には早くお会いしたいのですが、早いお帰りは残念に思います」
謎かけのような不思議な言葉に首を捻る。
「よく分からないな」
「ええ。わたくしも自分で何を申しているのか分かりませんもの。ですがアレクシス様のお帰りを心待ちにしております」
「そうか」
階段を下りて玄関へと向かうと、待機しているボルドーが視線に入って思わず苦笑してしまう。
「ボルドーは早く行けと思っているかもな」
「いいえ。侍従長も旦那様の無事で早いお帰りをいつも望まれておりますよ」
「――え?」
今、名前ではなく旦那様と。
なぜだか分からないが、その言葉の意味が重く胸に響く。
「アレクシス様? どうなさったのですか?」
彼女は何の気もなかったかのように微笑んだ。
「いや。それでは行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
足を進めてボルドーから荷を受け取ると、彼女にもう一度顔を見せて身を翻す。
「――アレクシス様」
「何だ?」
振り返るとブランシェは背伸びして私の肩に手を置いたかと思うや否や、次の瞬間には唇に火がともった。その熱は彼女が踵を下ろしたことですぐに消え失せたが、確かにそれは彼女からの初めての口づけだった。
「どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「……ああ。行ってくる」
頷くと今度こそ踵を返して家を後にする。
唇にともった火は瞬く間に消えたが、代わりに耳に火がともった。
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