アナタの後ろの世界

香椎 柊

第1話 一

 貴方は『背後』を意識したことがありますか?

 大半の人は無いと答えるでしょう。

 かく言う私も気にしたことなんてありませんでした。

 スマホの普及と共に人々の意識は手許に集中されました。ワイヤレスイヤホンの高性能化も更にそれを助長させているように思われます。

 最近のイヤホンはノイズキャンセリング機能もあるので、何時でも何処でも自分の世界に浸れてしまいます。これは実に由々しき事態です。

 以上の事から、皆さんは背後なんて意識していない事と思われます。そもそも、前方ですら危ういのでは?

 歩きスマホ……これは本当に危険です。

 ぶつからないように前を見るのは数瞬で、実際前方の人に自分の道の命運を委ねてしまっているのではないですか? これがどれ程危険な事か、わかっているのでしょうか? 少しは気にしてほしいものです。

 まあ、こんな話は良いのです。本作の話を進めましょう。

 貴女の名前は佐藤花子さとうはなこ。語り部の私が言うのもなんですが、平凡な名前ですね。女性の名前で、「佐藤」と言ったら「花子」と出てきてしまうぐらい、佐藤花子というのはテンプレートな名前だと思います。

 書き方例に貴方の名前は今まで一体どれぐらい記載されてきたのでしょう? 今度数えてみませんか?

 そんなテンプレート、いや平凡の名前代表の貴女は、今年新卒二年目のひよっこ社員。名前も平凡なら容姿も平凡。

 あ、これは今セクハラに当たる行為かもしれません。申し訳ございません。

 しかし、貴女自身もそう思っているのでしょう?

 おや、貴女はスーツを着て鏡の前に立っていますね。どれどれ、あ、身だしなみのチェックですね。ブラウスの襟を正し後れ毛を確認。ジャケットの皺を伸ばしたらスカートに付いている糸くずを一つずつ取っ払っていきます。

 背後もくるっと確認して準備万端。ばっちりですね。

 しかし貴女は暫く鏡の前から動こうとしません。どうしたのでしょう?

 おや、これは……?

 

『脱平凡顔! 一分で出来る顔マッサージ』

 

 なるほど、これですね。

 私が本に気を取られているうちに、貴女は口角を何度か上げて綺麗に笑える練習をしていました。確かに貴女、会社では能面の様にパソコンに向き合っていますからね。必要だと思いますよ。

 まあ、私は別に今の平凡顔な貴女でも十分素敵だと思いますが。

 貴女の働いている会社はグレー寄りのホワイト。職場環境はやや良。そこの事務員として貴女は働いています。

 残業の少なさと御局の不在。しかし熱すぎる社訓と嫌味な上司の存在。そんな、プラマイゼロの職場なので、貴女はなんとか二年目を過ごせています。良かったですね。

 という訳で貴女は、THE普通です。断言します。超が付くほどの普通人です。

 人生に彩も無ければイベントも起きません。起きたとしても自分からアクションを起こさなければいけない次第。別に十分だとは思いますけど……ないものねだりですね。

 彩が無い事について思うに、貴女は少々消極的過ぎます。前に出るのが好きじゃなければど派手に遊ぶのも好きじゃありません。物事も客観的に、なんなら冷めて見ていませんか?

 陽キャと呼ばれている明るめな人たち見る目……もう少しどうにかなりませんか?

 いやでもそれも良さだと思いますよ。何事も深入りをしない姿勢もは時に大事だと思います。だからこそそれを長所に変えていきましょうねと、キャリア課の先生にも言われたんでしょう?

 だからこそ、貴女はこの世の中で起きている事をどこか他人事だと思っていませんか?

 はい、思っていたのなら今すぐ申し出て下さい。先生怒らないので早く挙手して下さい。今なら間に合いますよ。というより――

 


 さて、ではもう少し貴女の話をしてみましょうか。

 前述でも申し上げましたが、貴女は新卒二年目になりました。

 前年度、貴女は新たな環境に慣れるために必死でしたね。研修期間の三か月間、泣いて笑って、怒って泣いてを繰り返していました。何度も「辞める」と言っては母親に宥められ、しかし結局ここまで来られました。誇って良いですよ。よく頑張りました。偉いです。

 懐かしいですね。去年の事なのに。

 学生気分は中々抜けずに、それでいて社会人の意識を持てと言われても、具体的な方法が判らず苦労していました。私も何度貴方の事を応援したことか……。

 三カ月の研修期間を終えて配属が決まると本格的に仕事が始まりました。

 初めての電話対応、ガチガチでしたね。

 慣れない書類整理、盛大に床にバラまきましたね。

 PC操作、いつも疑問符を浮かべながら食いついていきましたね。

 今となっては良い思い出です。

 しかし貴女は二年目です。先輩になりました。後輩が出来たのです。

 ほら、新入社員を見てみて下さい。眩しいですよね。はい、そう思います。原石ですよ。

 若葉マークです。

 でも、それは貴女も広い目で見たら彼らと同じまだ同じ気持ちでいてもいい筈なのです。

 三年経ったら辞めてもいい。なんて言葉聞いたことありませんか? ありますよね。

 でもあれ、私違うと思うのですよね。

 正直三年目までみんな新人なのですよ。仕事の責任なんてまだとりませんよね? そんなことありましたか?

 取らないのではなく、取れないのです。

 三年目にならないと仕事の全容何てわからないのですよ。

 ほら、早速。

 あそこの席見て下さい。貴女の一年先輩の社員。ほら貴方の斜め前の席です。見てください。

「お前……何度言えばわかるんだ! お前三年目だろ! これぐらいは自分で考えろ!」

 あちゃー、怒られていますね。周りもどこかよそよそしく。かく言う貴女も心配そうな目で見つめてしまっています。 

 あんなに怒ることないですよね。

 あぁ、すみません。脅すつもりは……というより今回に限っては貴女の上司が悪いのですよ。実に良くない。良くないですよね。でも――

 貴女にも怒り得ることですよ?

 貴女の先輩社員さん、ほらあんなに肩を落として……。そんなに怒られることはないでしょうに。

 後ろの存在がいるのってこういうことなのです。

「佐藤さん!」

 貴女は急いで振り返りました。勢いのあまり話し掛けた新入社員さんは目を見開いています。

 ほら、意識したでしょう?

「ここの内容なんですけど……」

 どうやら仕事についての質問の様ですね。しっかりと丁寧に教えてあげてくださいね?

 ああいう風になりますから。

 ね? 意識したでしょう?


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